第8話
なぜこんなことに……。
私が一人頭を抱えたところで、何一つ現状は変わらない。
何も聞こえないふりで、何も見なかったふりで、自身の課題だけを睨み付ける。
だが、無慈悲な彼は私のそんな気持ちなど察することもなく、捕まっていた同級生達を上手にいなし、尻尾を振ってこちらに走ってくる。
「亜美っ。会いに来たよ」
「レイ。ここがどこだか分かっているのか?」
「勿論。亜美が夢を叶えるために必要なことを学ぶところだよね」
「そう、学校だ。学校に部外者は立ち入り禁止だったと思うんだけど、警備員に止められなかったのか?」
なぜここにいる?
満面の笑みをして、当然のように隣りに座り、私を覗き込んでいるレイはどうしてこんなに幸せそうなんだろう。
「通してくれたよ。亜美の先生にも許可を貰ったんだ。いつでも来ていいって」
なぜそんなことがまかり通るのだ。
常識的じゃない。先生は、そんなことを容易く許可するような人ではないはずだ。
「何かしたのか?」
「何もしてないよ。ただ、事情を話したら許してくれただけ」
一体どんな説明をすれば、年間パスポートが手に入るのか。
訝しげに見やる私を、嬉しそうに微笑み、首を傾げている。
ああ、耳が見える。頭を撫でてあげたくなる。
これは何かの罠なのか。
「納得できないが、先生が許可したのならいいんだろうな。でも、邪魔だけはするなよ?」
「分かってるよ。大丈夫」
ついに我慢できなくなって、頭を撫でてしまった。すぐに後悔したが、目を細めて気持ちよさそうにしているレイを見てしまったら、諦める他なかった。
「ねぇ、亜美。その子、知り合いなの? もしかして彼氏?」
同じ学科ではあるが、あまり交流のない、名前も知らない女の子だ。
そもそも名前で呼ばれるほど、親しくはないはずだ。
レイに興味があるから寄ってきたのだろう。その目的は清々しいほどに明確だ。
「あんたにはそう見えるのか?」
「見えなくもないかな?」
廻りくどい言い回しに眉を潜めた。
「俺は亜美の婚約者だよ」
「おいっ」
何を勝手に宣言していやがる。
教室にどよめきが走った。聞いていないと思っていた同級生たちは、こっそりと聞き耳を立てていたのだ。それだけ、この教室にレイは異様な存在だったのだ。恐らく彼女たちの中では良い意味で。
「勝手なことを言うな。私は断っただろうが」
「大丈夫。亜美を絶対振り向かせるから。亜美に悪い虫がつかないように宣言しておかないとね」
宣言をしたところで、私のような女に悪い虫がつくとは思えない。取り越し苦労だ。
「そんなのいるわけないだろ。宣言する必要も意味もない」
「そんなことない」
むぅっと拗ねたようなレイの顔を見ていると、それ以上は言えなくなる。
「今のところ彼氏ではないってことね?」
あんた、まだいたのか。
つい口に出しそうになって慌て口を接ぐんだ。
「そういうことだな」
「ねぇ、紹介してくれない?」
「彼のことが知りたいんなら、自分から名乗ればいい。わざわざ紹介するまでもないだろ、目の前にいるんだから」
「そ、それもそうね」
私の冷たい切り返しにめげることなく、彼女はレイに自己紹介し始めた。あまり興味がないので、聞いた途端に名前を忘れた。
レイがにっこりと名を名乗っている。
彼女の顔をこっそりと窺う。
どうやら恋に火が点いてしまったらしい。頬をほんのりと染めて、うっとりとレイを見ている。
どうでもいい。勝手にやってくれ。私を巻き込まないなら大いに結構。
これでレイが私じゃない誰かに興味を持ってくれればいい。そうすれば私はお役御免なのだ。
先生が来て授業が始まっても、レイは教室に居座った。
私の隣で、真剣に講義を聞いている私を飽きることなく見つめている。気にしないようにしていても、間近で見つめられると気になって仕方がない。
気にしたら負けだっ。
意地になった私は、講義中一度もレイの方を見なかった。
「レイ。帰らないのか?」
講義が終わるやいなや、レイにそう言った。
「俺は亜美の真剣な表情とか見ていたいからここにいるよ」
「……講義中にずっと見られてると、集中出来ないんだけど」
「でも、俺少しでも亜美と一緒にいたいんだ」
レイのこういう表情は演技なんじゃないかと疑いたくなる。
尻尾が垂れ下がったレイを突き放すことが出来るほどに冷たい人間にはなりきれなかった。
「いてもいいけど、私をあんまり見るな」
「えぇっ」
「見るな」
「分かった。控えるようにするよ」
「ワット。あんたもだよ。待つならレイの隣に座ればいいだろ」
ワットは授業参観に来た保護者のように教室に後ろに立っていた。
気のせいではないはずだ。ワットの視線が後頭部を焼き付けようとしているかのようだった。
「私などが座るなどおこがましい」
「いいから座れ」
どすのきいた低い声を絞りだすとゆっくりとレイの隣に座った。
これで少しは集中出来るだろう。
「亜美。今日、帰り買い物付き合ってくれないか……って、知り合いか?」
いつものように教室に飛び込んできたもう一人の幼馴染が、私の隣りに座る二人を見て訪ねて来た。
「まあ、ちょっとな」
「へぇ、こんなおっとこ前な知り合いが俺以外にもいたんだな?」
「太一を男前だと認識したことはないぞ?」
「酷いな、それ」
男前と豪語しているこの太一とは、真希よりも長い付き合いだ。産まれる前から母同士に交流があり、産まれたあとも何かと行動を共にしていた。云わば兄弟のような存在といえるだろう。
ここで言い訳がましく言わせてもらえば、私の言葉遣いが乱暴になってしまったのは、太一と長くいたせいなのだ。決して責任転嫁ではない。太一があんなことを言い出さなければ、私はこうはなっていないはずだ。
「で、今日は二人がいるから無理そうか?」
ちらりとレイに視線を移し、怯んだ。今にも泣き出しそうな迷子の子犬のような目をして私を見ているのだ。
「あっっと、こいつらも一緒でいいか?」
「いいぞ」
「やった。亜美っ、ありがとう」
「うわっ、離れろっ」
レイに抱き付かれて、私はたじたじだ。
その様子を、太一は驚いたように、ワットは無表情で見ていた。