第7話
「俺はここにいるよ」
その声を聞いた私が初めにしたことと言ったら、真希の反応を窺うということだった。
私のとなりに座っていた真希は私など見ておらず、私の後方を見上げていた。
口をぽかりと開けた真希が見ている先に彼はいるのだ。
真希が彼を目にしているということは、私が描いたあれは夢ではなかったということだ。
「亜美殿?」
私を呼ぶ声が私の真後ろから降りかかる。
少しだけ振り向くのが怖い気がした。
それでも体は私の思いなどお構いなしで、体を捻る。
そこにいるのは、まさしく片時も忘れることが出来なかったレイだ。
その少し後方にワットが畏まって立っている。
「レイ。現実なのか? 夢じゃないのか?」
「夢じゃない。俺は本物だよ」
相変わらずの無邪気な笑顔が私を安心させる。
ああ、本物なのだ。
そう、無条件に思わせてしまう力をその笑顔は持っているようだ。
「夢じゃなかったのか。じゃあ、私はあの不可思議な出来事を受け入れないとならないんだな」
一度、信じると決めてしまえば、それはあまり難しいことでもない。どちらか判断できない時のほうが受け入れ難かった。どっちつかずだからこそ、疑ってしまったのかもしれない。
「で、あんた達はやっぱりあそこから入って来たのか?」
「ええ、前回と同じように」
直立不動で、一見マネキンにさえ見えたワットが口を開いたことに小さく驚いた。気配すら消していたように思える。それこそ本当のマネキンのように。
「それは相変わらずホラーだな」
真希は私と二人を交互に見ていた。
私なんかより、真希が現実を飲み込むほうが困難のようだ。
「取り敢えず二人とも座れば? 飲み物はコーヒーでいいか?」
「コーヒーを飲むのは初めてだが、それを頂くよ」
二人がソファに腰を沈めるのを見届けて、台所へ入った。
コーヒーは真希のためにドリップしてあったので、カップに入れるだけだ。
ささっと用意して、リビングに急いだ。初対面の真希に、二人を押し付けるのは気の毒だ。
「そうか、真希殿は亜美殿の友人か」
「友人じゃないわ。親友よ」
私の心配は無用のようだ。先ほどあんなに唖然としていた真希がなんだってこの短時間でこんなに馴染めるのだ。その人懐っこさは侮れない。
「自己紹介は済んだのか?」
「うん。済んだ」
真希はこの現状を受け止めたのだろうか。甚だ信じられない事態だが、柔軟性のある真希のなせるわざなのかもしれない。
「あんたたち、本当に来たんだな」
真希の隣に腰掛けて、二人を眺めてしみじみと呟いた。
「亜美殿。これからよろしく。暫くここに住むことになったんだ」
「ここってどこ?」
「ここ」
「どこ?」
「ここだよ」
にっこりと微笑んで床を指さす。
「ここってまさか、家じゃないよな?」
「そのまさかの亜美殿の家だよ」
「いやいやいや、それは無理だろう。ハハが反対するに決まっているぞ」
私だけの家ではない。ハハが一緒に暮らしているのだ。
ハハが高給取りなので、この家は二人しか住んでいない割に広い。将来私の旦那様がここに一緒に住んでくれるのをみこして広い一軒家を建てたのだと、嬉しそうに語るハハの姿が目に浮かぶ。
レイがここに住むことは物理的に言えば可能だろう。だが、女二人暮らし――場合によっては私一人だ――の家に男を住まわすのは、道徳的に如何なものか。
「久美殿には了解は得ております」
「へぇ、そうか」
ワットの淡々とした物言いに思わず頷いてしまったが、私は恐ろしいものでも見るような目で二人を見た。
「イヤイヤ、なんであんた達が私のハハを知ってんだ」
「先日、御挨拶に伺いまして、ご説明させて頂きました。久美殿は快く私とレイ殿下を受け入れて下さったのです」
「あんたも住むんかいっ」
「ええ、勿論」
しれっと当然のように頷き、コーヒーを一口含む。
「ああ、これはとても美味ですね」
こいつのこういうところを、はったおしてやりたいと思うのは決して私だけではない筈だ。決して私が乱暴者だからではないはず。
「今の話は本当なのか?」
「本当だよ」
無邪気な笑顔が眩しすぎる。
邪気のない笑顔で答えられると、男が二人もこの家にいて、私の身が危険ではないかなどと疑っていた自分を責めたくなってくる。
すまん、レイ。あんたはそんなことはしない……はず。
「あんたたちが本物であり、ここに住むってことになるのなら、私は知っておくべきなのかな? あんたたちのこと」
あやふやのままにしていたのは、あの世界が夢だと思っていたからだ。
あの世界が事実あるのだとしたら、それを聞かなければこの先私はもやもやとしたものを抱える羽目になる。
きちんと聞いておきたい。
「俺の名は、レイ・オルブライト。オルブライト王国の王子だ。あの世界は、この世界とは異なる空間に存在しているんだ。あの日、出席していたご令嬢の約半分は俺の世界とは異なる世界から招いた客人だよ。亜美殿もその一人だった。あそこにいたご令嬢は、皆俺の婚約者候補だったんだ。勿論亜美殿も婚約者候補の一人。王族は皆、16歳の誕生日の日に舞踏会を開き、婚約者も選ばなければならない。俺の好みや相性を吟味して選ばれたご令嬢方の中から。そして、その中で俺が見染めたのが亜美殿だよ。俺は亜美殿の心を手に入れるためにここに来た。父上も母上も気持ち良く送り出してくれたんだ。亜美殿が俺の伴侶になると頷いてくれるまで、ここにいるつもりなのでよろしく」
「私は断った筈だぞ」
異世界の王子様に求婚された。目で見てしまったものを信じられないと突き放すことは出来ない。だから、それは受け入れる。あの出来事があってから、大分経っているのが功を奏したのか、受け入れる準備は出来ていた。
勿論申し出を受けるつもりはない。私は日本で生きている。日本で生涯を全うする予定でいる。決してここを離れるつもりはない。
「知ってるよ。でも、俺は亜美殿じゃないとダメなんだ」
「ここにいたきゃ勝手にしろ。でも、私はあんたを好きになんかならないぞ」