第6話
あの夜の出来事が夢だったと思えずにいた。
レイに触れた唇を、触れた手の温もりをありありと思い出すことが出来るのだ。まだその温もりを体が覚えていた。それはもう生々しく。
夢にしてはあまりにリアルだったのだ。
もし、夢でないのならあれはなんだったと言うのだろう。
現実では理解できない世界がこの世に実存するのなら、私はまたあの二人に会えるだろう。
私はそれを望んでいるのだろうか。
あの夜から一週間が過ぎたが、私の生活は滞りなく過ぎていった。
「亜美。最近おかしいね? 何かあった?」
話し掛けられているのは分かっているが、鉛筆を置くことが出来なかった。
確かに今の私はおかしいのかもしれない。元々作品製作には意欲的だが、一心不乱に描き続ける姿は他人が見れば異様なものかもしれない。
「亜美。聞こえてるんでしょ?」
少し怒気を含んだ声に漸く顔を上げた。
これ以上彼女を怒らすのは得策でないと、長年の付き合いで熟知している。
「真希」
幼なじみの彼女が私を見て、盛大なため息を吐いた。
「ここで話せないなら、今夜遊びに行ってもいい?」
「いいけど、部屋汚いぞ?」
「想像つくから別に驚かないよ」
「そうか」
その夜、予告通り真希は姿を現わした。
チャイムを鳴らしても一向に出ないことに業を煮やし、勝手に入って来た真希は、部屋に籠もり切りの私を叱り付けた。
「チャイムを押しても出て来ない。不用心にも鍵はかけてない。泥棒や強姦魔が入って来たらどうするつもりなのよ。もうっ、部屋に籠もり切りでご飯は食べたの?」
真希は私のハハよりもよっぽど母らしい気がする。
「鍵をかけ忘れてたか? 今度から気をつける。ご飯は、食べてない」
「そんなことだろうと思って食材は買って来たから、亜美は食事作って」
「5分だけ待ってくれ。5分で出来る」
「亜美っ」
「ホントに5分だけだ。そしたら、ちゃんと話す。だから、今は描かせてくれ」
真希は大きく息を吐くと、何も言わず階下に降りていったようだ。
私はもうまもなく完成するそれに再び取り掛かった。そして、全てを描き上げた私は、それらを重ねて持ち、階下へ降りた。
テレビを見ながら笑い転げている真希が足音に気付いて振り仰いだ。
「終わったの? 私、お腹空いたんだけど」
「今から作る。これ読んでくれるか?」
そう言って今まで描いていたそれを手渡した。
頷いた真希がページを捲るのを見届けてから台所へ向かった。
真希は料理が出来ない。イヤ、やれば出来るだろうが、自宅にいて作ってくれる人がいるのでやらないのだ。
私には父がいない。幼い頃に離婚したと聞いている。物心がつく前の話なので、父の顔は覚えていない。離婚後会うこともなかった。
我が家の大黒柱のハハは、有名編集社の有名雑誌の編集長を務めているため、酷く多忙だ。締め切り前は会社に泊まることは珍しくないし、そうでなくても帰りが遅い。
私は必然的に料理を覚えた。料理をすることは嫌いじゃない。ハハが帰って来て食べると思えば、張り合いもある。
今日もハハは遅いだろう。
私の料理が出来るのと、真希が読み終わるのはほぼ同時だった。
何かをいいたげに私を窺う真希を一瞥して言った。
「先にご飯を食べるぞ」
さっさと席に着いて真希を待つ。
他愛ないお喋りをしながら、食事をした。敢えて核心部を触れないようにお互いがそうしていたように思う。
私は食事をしながら、レイのことを考えていた。レイは、現実に存在する人なのだろうか。
レイはもう一度会えると言っていたが、本当だろうか。
色々と考えていたからだろうか、ご飯の味があまりしない。今、口の中に何が入っているのか分からない。今なら嫌いなトマトも食べられるかもしれない。
食事のあとは真希が食器を洗ってくれる。その間に私は食後の飲み物を用意するのだ。私は紅茶を真希にはコーヒーを。幼い頃は二人とも紅茶やコーヒーの味を知らなかったから、食後の飲み物はジュースだった。いつ頃からだろう。ジュースを飲まなくなったのは。真希がコーヒーをブラックで飲むようになったのは。私も真希も映画の女優が優雅に飲んでいる姿に憧れを持ってからだったと思う。私はイギリスの女優に憧れて、真希はハリウッド女優に憧れてのことだ。
それらをリビングに運ぶと、後から真希も現れた。
「ありがとな、真希」
「いつも食べさせて貰ってるんだから当然。……それで? これは一体なんなの? これは絵本というより童話に近いんじゃない? 珍しい。方向転換?」
「そういうんじゃない。その話は私が実際に経験したことだ。それが現実なのか、夢なのか分からないけどな。忘れちゃいけない気がした。だから、こうして描いたんだ」
まだ記憶は鮮明だ。目の前にレイやワットの顔を思い浮かべることが出来る。だが、いつその記憶が薄れるとも消えるとも分からない。
私は二人を、厳密に言えばレイを覚えていなくてはいけないような気がしていた。云わば使命感のようなものが、私を突き動かしていたと思ってもいい。
「夢じゃないの?」
「夢かもしれない。でも、夢じゃなかったのかもしれない。夢じゃなかったなら、あいつらはあの城は、あの舞踏会はなんだったんだ? こんな馬鹿げたことが現実なわけがない。だけど、どうしても夢とは思えないんだ」
もう一度レイと会いたいと思うのはどうしてだろうか。
会ったとして、再びプロポーズされたとしても私が首を縦に振ることはないだろう。レイに対して恋情は今のところない。ただ、レイの無邪気な笑顔に人として惹かれているのは確かなのだ。
「信じられないだろ? 私も信じられないからな。無理もない」
真希はそれを見ながら深く深く考え込んでしまった。
真希が信じるかどうかは本人の自由だ。私がどう信じてくれと言ったところで、私自身信じることが出来ないものを信じさせようとしても無理があるのだ。
「俺が実物じゃないなんて、亜美殿は酷いことを言うんだね? 俺はちゃんとここにいるよ」
その声は唐突にあらわれ、私を支配した。