第5話
「良かった。バレていないようだよ」
バルコニーに戻り、レイが私を下ろしそう言ったが、それに答えるように低い声が間近で聞こえた。
「バレてないとでもお思いですか? レイ殿下がまさか亜美様と逢引きなさるとは思いませんでしたが」
「いけなかったかな?」
レイは平然とそう尋ねた。
「そうですね。一人で逃げ出さなかっただけ、よしとしましょうか」
「なんだ、レイ。逃亡癖でもあるのか?」
私の問いに答えたのは、ワットの方だった。
「レイ殿下は舞踏会がどうしてもお嫌いなようで、必ず途中で姿を暗ましてしまうのです」
その気持は分からなくもない。事実私もこうしてこの場から退屈しのぎに海を見に行ってしまったのだから。
「そうか。レイ、気が合いそうだな。私も舞踏会は嫌いだ」
「ホント? じゃあ、俺と結婚してくれる?」
「それは無理だ」
「やはりレイ殿下は亜美様をお見初めになられたのですね?」
あらかじめ見越していたと言いたげなワットに私は眉を潜め、レイは決まり悪そうに苦笑いした。
「ワットはレイのことなら何でもお見通しなのか?」
「長年お側にいさせて頂いておりますので」
「まるで夫婦みたいだな」
そう呟いた私に、不満げにレイが何か呟いていたが、上手く聞き取れなかった。ワットには聞こえたのか、そうですね、と微笑みながら同意している。
「二人とも中にお入り下さい。主役が席を外すなどあってはならないことです。陛下に挨拶はされたのですか?」
ワットのレイへの説教が続く。レイは慣れているのか、ワットの機嫌を損ねない程度に相槌を打っている。説教内容がレイの脳に吸収されているのかは甚だ疑問が残る。
「亜美殿。俺の両親に会ってくれる?」
「会うのは構わないけど、結婚の挨拶じゃないよな?」
「さすがに同意を得ていないのに、強引に話を進めようとは思ってないよ」
レイがそういうタイプじゃないことは、この短い時間で分かっているつもりだ。私が嫌がることをするような非道な人間じゃない。
レイの母親は一言で表せば、柔らかい、だ。
挨拶する間もなく抱き締められ、立派な胸に押し付けられた。柔らかくて気持ちいいのだが、強く押し付けられたせいで、呼吸困難になるところだった。レイとレイの父親に助けてもらわなければ危ういところだったのだ。
解放された私が漸くまともに挨拶をすると、柔らかい笑顔を返された。
「可愛いらしい方。この方が私の娘になってくれるの?」
「いえ、母上――」
「嬉しいわ。私のことは本当の母と思ってくれる?」
「だから、母上――」
どうやら暴走癖があるようで、こうと思い込んだら周りの話は聞かないタイプのようだ。
少し私のハハに似ているような気がした。
「悪いけど、レイと結婚するつもりはないぞ。それにあんたも私みたいな礼儀も知らない奴はイヤだろ?」
「まあ、レイったら、まだ心を射止めていないのっ。亜美さん。私も昔はあなたと同じような話し方をしていたのよ? 気性も荒かったし。礼儀が正しい人がいい人とは言えないでしょう? 私は一目であなたが好きだと思ったのよ? これはレイに頑張って貰わなければね」
初めはレイに語り掛け、私に矛先が向いたかと思えば、またレイに向かう。
ころころと視線が行ったり来たり、身ぶり手ぶりで一生懸命話す姿は可愛らしい。年齢不詳のレイの母親は、私と二人で並んだら姉妹に見られるかもしれない。
「こらこらあまり無理強いしてはいけないよ。娘さんを手に入れたければ、レイが努力するしかないんだ。まあ、私は自分の息子を信じているんだがね」
「私だってレイを信じてるわ。きっと私たちの望む未来を見せてくれるに違いないわ」
レイに掛けられるプレッシャーは容赦なく振り掛けられているようだ。
それをレイは重荷に思っている風もなく、意欲に燃えているように見える。
プレッシャーを掛けられているのは、レイではなく私ではないのか。
あまりその辺は考えなくてもいいだろう。ここもここにいる人々も、今置かれている状況も全て朝が来たら覚める夢でしかないのだから。
あまりにリアルなこの夢は、いつしか終わるのだから。
レイの両親と別れたあと、レイがあまりにしつこく誘うものだから、渋々ダンスの誘いを受けた。
ダンスを踊った経験など皆無な私には無謀なその申し出を受ける気になったのは、夢なら踊れないダンスも都合良くこなせるんじゃないかと思ったからだ。
蓋を開けてみれば、そんな甘い話はいくら夢でもそうそうないようで、私は常にレイの足を踏むことになった。
私が一回踏む毎に短く呻くが、何となく嬉しそうに笑うレイは、そうとうMなんだとにらんでいる。
「まともに踊れないって言ったろ?」
「踊れなくても、踏まれてもいい。亜美殿と踊ることに意義があるんだ」
「そんなもんか?」
「そんなものだよ」
これはもしかしたら、シンデレラの世界を夢に見ているんじゃないかとふいに思った。
舞踏会で王子と踊って、王子に見初められ、12時の鐘で夢は醒めるんだ。夢は醒めてしまったけれど、王子はシンデレラを捜し出す。
夢が醒めても、レイは私を捜し出してくれるだろうか。イヤ、そんなことがあるはずがない。これはお伽噺ではないのだ。現実に現れて求婚されても困るだけだ。
「何考えてる?」
「イヤ。何も」
もうすぐダンスが終わり、舞踏会も終わる。
お祭りが終わった後の焦燥感に似た気持ちに私は驚いていた。全てが終わることを悲しいと思ってしまうなんて。
そう思うほどに、私はレイを気に入っているのだ。一度きりでさようならはイヤだと思うほどに。
「亜美殿。しばしの間お別れだ。必ずまた会うから」
ドレスは脱ぎ、着ていた服に着替えていた。
「会いたきゃ、会いに来い」
「そうする」
社交辞令でも当たり前のように断言するレイに嬉しさが込み上げる。
「またな」
「また」
ワットの後についていく。壁に隠されていた秘密の通路を暫く歩くと窓がある。
「さあ、亜美様。ここをくぐればあなたのお部屋です」
この窓が私の部屋のブラウン管テレビと繋がっているのだろう。
私も貞子のように這い出なければならないのだ。
「ここでいいよ、ワット。とんだ経験だったけど、案外楽しかったぞ」
窓を通り、テレビから這い出て向こう側を見たが、ブラウン管テレビはもうただのテレビでしかなかった。
夢は終わったのだ。