第4話
「ちょっと、何してるだっ」
慌てた声とぐいと引っ張られる手首。
今にもバルコニーから飛び降りようとしていた私を引き止めたのは、ご令嬢たちのところへ行ったはずのレイだった。
「何って、下に降りんの」
キョトンとそう言うと、驚きに目を見開かせて私を注視している。私の真意を探るかのように。
「酔ってるの? それとも逃げるつもり?」
無邪気な笑顔が消えていることに驚きを感じていた。無邪気なだけの少年ではなかったのだ。
「酔ってないぞ。逃げるって何から? 私はただもっと近くで海を見たいだけだぞ? ワットには内緒な。知られたら怒られそうだ」
「俺も行く」
駄々を捏ねたように聞こえなくもないその声に思わず吹き出した。
「怒られてもしらないぞ?」
大丈夫、と何を根拠にそう言ったのかは分からなかったが、レイは自信有りげ笑むと身軽にバルコニーから飛び降りた。
「亜美殿。さあ、飛んで」
私は素直にその腕に飛び込んだ。それが一番正しいことのように思えたのだ。
普段の私なら、これくらい平気だ、と胸どころか手も借りなかっただろう。
「ありがとな」
レイに抱かれたまま顔を上げそう言うと、顔が間近だったのに照れたのか目を反らされた。
「別に」
私が堪らずケタケタ笑うと、抱かれたまま砂浜に運ばれた。
背丈は殆ど変わらないのに力は結構あるようだ。軽々と私を運ぶ。
「降ろせよ」
「降ろさない」
「なんでだよ?」
「なんでも」
「わけの分からんヤツだな」
私の言葉を無視し、砂浜へと歩く。バルコニーから見える灯りだけで、外に外灯らしきものはない。
この海がどんな色をしているのか分からない。
ただただ闇のような黒が広がっているだけだ。時折何かに反射したように光る。波の音だけが耳に入る。波に呑まれてしまうような気がして、レイにしがみ付いた。
「どうかした?」
「なんでもない。なあ、レイ。ここの海は青いか? 澄んでるのか?」
私が見たことのある海は濁っていた。たまたま台風が近付いていたせいで、お世辞にも美しいと言えるものではなかった。
「青いよ。澄んでいて美しい海だよ」
「降ろして、レイ」
今度は降ろしてくれた。
煩わしいハイヒールを脱ぎ捨てた。
「レイ。ちょっと向こう向きな」
「え?」
「覗くつもりか?」
スカートを持ち上げようとする私を見て、レイは慌てて後ろを向いた。
スカートを持ち上げストッキングを脱ぐと幾分楽になった。ストッキングは苦手なのだ。
「レイ。ほら、やるよ。特別にオカズにしてもいいぞ?」
脱ぎたてでまだ温もりの残るストッキングをレイの目の前に突き付けそう言った。
反射的にストッキングを受け取ったレイは、すぐさま顔が赤くなった。
「オカズって?」
「分からないなら別にいい。とにかく私からの誕生日プレゼントな」
そんなもの、変態でないのなら嬉しくも何ともないものでしかない。だが、レイは心なしか嬉しそうだ。
まさか、こんな無邪気な顔して変態とは思わなかった。
頬を染めたまま私が身につけていたストッキングを見つめているレイを無視し、スカートを上げて海水の中に足を入れた。
「はぁ、気持ちいいな。おい、レイ。いつまでそれとにらめっこするつもりだよ。あんたも入れば?」
「え、ああ」
丁寧にストッキングを畳んでポケットに押し込むと、靴と靴下を脱ぎ、裾を捲ってこちらに走ってきた。
「別にあんたはまだ若いんだから、裸で泳いでもいいんだぞ?」
「そんな恥ずかしいことしないよ。それに亜美殿だって大して歳は変わらないよね?」
私が足で水を蹴り上げると、慌てて逃げていく。
「あんた16だろ? 私はもう19だぞ。この年代の3歳差は大きい」
「もう俺も成人したんだ。多少の年齢差は問題ない」
「問題? なんの話だ?」
「俺と亜美殿が結婚をするのに問題はない。俺はあなたと共に生きたい。結婚して下さいっ」
「結婚っ?」
どういう経緯でこんな流れになってしまったのだ。
暗闇に慣れた目でレイの真意を確かめようとした。そんなもの、注意深く見なくても、レイの瞳からウソが一つも感じられないことは分かっていた。
「無理。ガキとは結婚しないし、私には夢があるからな」
「夢?」
「そう、夢だ。それを叶えるために今勉強している。結婚なんてしている時じゃないんだ。それにあんたのことなんてよく知らないしな。結婚ってのはよくお互いを知って、想い合った二人がするもんだぞ」
私はその夢を叶えるために専門学校に通っているのだ。
「亜美殿の夢を聞いても?」
「次に会ったときに教えてやるよ」
次に会うことなんてないだろうと思った。初めて会った少年に夢を語ることは、あまりに恥ずかしい。卑怯ではあるが、次という言葉を使うことにしたのだ。
「もし、次また会えたら」
「ああ、教える。結婚も考えてやってもいいぞ。あ、勘違いすんなよ? 考えるだけだからな」
「じゃあ、今から考えておいて。すぐにまた会えるから」
いやに自信有りげの態度に戸惑う。これは夢であるはずなのに。
「亜美殿。そろそろ戻ろう。ワットが気付くころだよ」
私をひょいと抱き上げるとバルコニーへ歩を進めた。ここの海を昼間に見れなかったことが心残りだ。
「レイは案外力持ちだな。重いだろ?」
「亜美殿は重くないよ。とても軽い。あんなに食べていたのに何でこんなに軽いのか不思議だ」
「そりゃ、食ったら出すもん出してるからな」
「ああ」
レイが肩を揺らして笑っている。女がこんなことを言っているのに眉を潜めすらしない。
「あんた変わってるよ。私みたいな下品な女にわざわざプロポーズするなんてな」
レイはまだ笑っている。やっぱりからかってるんだろう。
悔しかったので、レイをどうにか動揺させてやりたかった。笑いなんて引っ込めさせてやりたかった。
私は、笑いが零れるその口を唇で塞いだ。レイが驚くような、甘く濃厚なキスをしてやったのだ。
「参ったか?」
「……参った」
茫然と、だが頭の整理がついた途端真っ赤に染め上がった顔は、べらぼうに可愛かった。
可愛いイヌにするように、もう一度小さなキスをした。