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後日談 最終話

 その存在をすっかりと失念していた。

 正直に言ってしまえば、一度も見たことも会ったこともない人間に何らかの感情を抱くことは難しい。

さらにはっきりと言ってしまえば、私にとってはどうでもいい存在だ。

 お父さん。

 私には縁のない言葉だった。

 ただ、ハハがその人に会い、何らかの進展があったことに喜ぶべきだろう。勿論ハハの幸せを喜ぶものである。

「ハハは会えたんだな?」

「うん。漸くと言ったところかな。ワットも呆れていたよ。想い合った二人がいつまでたっても結ばれないとね」

「ワットは私を恨んだりしてないんだろうか?」

 父親が生涯愛した女の娘である私を、腹違いとはいえ血の繋がりのある私を、ワットはどう思っているのだろう。

 私の前に姿を現さないのがその答えであるのは解ってはいる。でも、日本にいるときのワットは決して私を除外してはいないような気がした。それは、主が好意を持っている女に敵意を見せられなかっただけだとも考えられる。

「恨んでなんかいないよ。寧ろ喜んでいた。ワットが亜美の存在を知ったのは大分前だったけど、いつも会いたがっていたよ」

「憎くないのかな?」

「そんな風に思うわけないよ」

 多くを語ったわけではなかったが、レイの言葉を信じるに値する確信めいた何かがそこにはあった。

「そうか。良かった」

 ワットが私をどう思っていようと、私は彼を快く思っている。その繋がりが嬉しかった。

「ワットは今、体調を崩して伏せっているんだ」

「え? 風邪か」

 どうりでいつもならレイの周りに常にいるのに、姿が見えないわけだ。別に私に会いたくなくて姿を現さないわけじゃないのか。

「そう。でも、大分治ってるから心配はいらないよ。明日にでも出てくるだろう」

 ホッとした。

 明日には、ワットの顔が見れるんだ。そう思うと、どんな顔して対面すればいいのか悩むところだ。

「こんなところかな? まだ聞きたいことある?」

「私は本当にレイと結婚するのか?」

 あんなに大々的にパーティが行われ、見知らぬ人に祝辞を述べられた。けれど、あんまり実感がわかない。

 別の誰かのためのパーティだったように思えるのだ。

「俺の傍にいてほしい。俺と結婚してくれますか? 今、亜美が俺を好きじゃなくても、きっと好きになってくれるように努力するよ」

「イヤ」

 私の言葉に凍り付き、傷ついた顔をするレイ。

 私は慌てて付け足した。

「イヤ、イヤイヤそうじゃなくて。私は別に好きじゃなくないって」

「え?」

「だから……」

 察してくれ、というのは流石にずるいだろうか。

 ここまで何度も想いを伝えてきてくれたレイに対して、何の言葉もないのでは卑怯なのかもしれない。

「だから、レイが努力する必要はない」

「それってどういう?」

 本当は解っているんじゃないのかな。解っていて、意地悪で私を追い詰めようとしているんじゃないか。

「……そのままで、いい。レイはそのままでいいんだ。そんなレイが私は、わ、私は」

 そんなに食い入るように見ないでくれ。

 レイの目が見ていられなくて俯いた。

 なんの拷問なんだ、これは。

 誰かに想いを伝える術なんて知らない。素直に伝えればいいのだろうけれど、それすら私には解らないのだ。イヤ、解らないんじゃない。ただただ恥ずかしいんだ。

 こんな死にそうなことを、人は皆やっていたんだな。少し恋愛を馬鹿にしていた――というより敬遠していた――部分があったことを大いに反省した。

 もっとちゃんと人並みに経験しておけばよかった。

「……好き……なんだよ」

 呟きと言うには申し訳ないほど小さな声だった。レイの耳には届いていないのかもしれない。だって、なんのアクションも返ってこないのだから。

 長い沈黙が続いたあと、耐え切れずに顔を上げた。

 そして、絶句することになったのだ。

 レイが顔を真っ赤にして、悶えていたのだ。

 ああ、しっかり聞こえていたんだな。

「レイ」

「ごめんね。今、幸せを噛み締め中だから」

 くぅっと声にならない呻き声のように喉を鳴らし、頭を上下に降ったかと思えば、天を仰ぎ、顔を手で覆い隠したかと思えば、頭を左右に振った。そんなような動作を延々と続けている。

 私は呆気にとられてその光景を眺めていた。

 そして、とても嬉しくなった。私の気持ちをレイがこんなにも喜んでくれた。恋愛に疎い私を、どうやら受け止めてくれるらしい。

「レイ」

 身悶えながらも、私の声はしっかりと届いているようで、こちらに真っ赤な顔を向ける。

「好きだぞ、すごく」

 今度はしっかりと、声が小さくなったり掠れることもなく告げることが出来た。きちんと目も見て、伝えられた。

 緊張だけじゃない。達成感、それから喜び、そんなものが私を昂ぶらせていた。

 嬉しい。

 好きな人に『好き』と言えることが、こんなに素晴らしいことだと知らなかった。今なら言える、堂々と。きっと大衆の面前だって言える。

 レイが好きだ、と。

「好きなんだ」

 何度でも何度でも伝えたい。一度きりじゃ足りない。

 レイが何度も私を好きだと言ってくれた気持ちが解ったような気がする。どんな言葉で尽くしたとしても、自分の中に生じた想いが伝わらないような気がした。

 こんなんじゃない。こんな簡単な言葉じゃない。私の想いを表す言葉が見つからない。

「好き。大好きだ。……愛してる」

 ああ、そうか。そうなんだ。

 愛してる。

 この言葉が一番しっくりとくる。完全にその言葉で表せるとは思えないけれど、一番今の私の気持ちに合っているように思えた。

 自然と笑みがこぼれる。

「亜美」

「ん?」

「どうしよう。俺、今、無性に亜美を抱きしめたいんだ」

「うん」

 私はレイの前で手を広げた。私とレイの間にあるテーブルが邪魔だと思った。これじゃ抱きしめてはもらえない。

 レイが私の手を取った。その手を繋ぎとめたまま、乱暴に椅子を引き、こちらへとやってくる。椅子は後方へとひっくり返っている。

 とうとうレイは私を抱きしめた。椅子に座っていた私の脇に手を入れ、抱き上げたのだ。軽々と持ち上げられた私をきつくきつく抱きしめた。抱き潰されるかと思うほど強く。

 不安がないと言えば強がりになってしまう。けれど、この腕の中ならばどんな形でも生きていけると思えた。

 レイを見上げれば、至極嬉しそうなそして何より大好きな無邪気な笑顔がそこにあった。胸が締め付けられるような幸せを感じた。呼吸がひと時止まってしまいそうなそんな強い幸せを。

 降りてくるレイの唇を当たり前のように受け止めた。




~~~ 後日談 end ~~~

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