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第33話

 片野先生は、読み終わったそれをテーブルの上に丁寧に置いた。その一連の動作を、瞬きもせず食い入るように見ていた。

 私の視線をたっぷりと浴びている先生は、それに気付いているであろうが、敢えて目を閉じた。

 先生が何を考え、何を感じているのか解らないが、こきおろすなら焦らさないで一息にやってくれと思うのだ。

 たっぷりと時間を掛けたあと、先生は目を開け私を強い眼差しで見据えた。

「正直に言おう。なってない。全てにおいて君の作品はなってない」

 そんなことは重々承知していたつもりでいたが、ぐさりと胸に刺さるものがあった。口では私など素人だと言っていても、それだけ自分に自信があったということなんだろう。

 突き付けられて初めて気付く自分の傲慢さ。

「これじゃ、絵本として出版することは到底無理だ。前回持ってきた作品についても同様だ」

 がっくりとうなだれる。

 すぐにデビュー出来るとは思っていなかったが、直接ダメ出しされるのは心臓をえぐられるように痛んだ。

「諦めるかい?」

「一度否定されたからって諦めたりするもんか。何度でも挑戦するぞ」

 心臓は痛いし、唇を噛み締めるほどに悔しい。落ち込んでもいる。だが、それよりももっともっと大きな力が私を奮い立たせていた。

 負けたくないと思った。片野先生にか? それは解らない。片野先生にかもしれないし、自分自身にかもしれない。

「そう言うと思ったよ。君は負けず嫌いだろうからね。……君、この事務所に来なよ」

「は?」

「就職先決まってるのかな? 決まってないよね。なら、ここに就職しなさい。ここで働きながら勉強すればいい。私が唸る作品を作れたら出版もここから出そう」

 就職活動はしていない。バイトしながら作製に勤しもうと考えていたからだ。

「それって私を弟子にするってことか?」

「弟子? ああまあそう思ってくれてもいいかな」

 片野先生の弟子。

 なんていい響きなんだろうか。願ってもない話だ。憧れの先生のもとで勉強して、色んなことを学びながら自分の作品を思う存分描くことが出来る。

「本当に、本当にいいのか?」

「私がそう言っているんだから、いいんだよ。ただし、私は厳しいよ。その言葉遣い、みっちり直して貰うつもりだ。社会人としての常識だからね」

「うぅ、はい」

「それから、卒業するまではアルバイトとしてここに来なさい。君、他で働いているのなら止めて来なさいね」

 辞めるもなにもレイのことと、発熱のことがあり、バイトのことをすっかり忘れていた私は、熱が下がって慌てて連絡をした時には首を宣告された。

 無断で一週間も休めば、仕方のない話かもしれない。

「解りました。ぜひ宜しくお願いします」

 私の力強い言葉に先生は満足そうに笑んで、大きく頷いた。

「悪かったね。本当は絵本を描くような精神状態にはなかっただろう。でも、強引にでも君を引っ張り出したかったものだからね」

 どこから、という質問は止めよう。自分でも十分承知している。私は、レイを失ったことで闇の中へ落ちようとしていたのだ。真っ暗な闇の中から引き摺り出し、再び私の世界に色を付けてくれたのは絵本であり、そして先生である。

「ありがと……ございます」

 無理やり丁寧な言葉遣いに持っていった私のぎこちのない謝辞に、先生はクスクスと笑いだした。

 先ほど私の言葉遣いを矯正すると宣言された手前、乱暴な言葉遣いをするわけにはなるまい、とする私の努力を笑われたことに憮然とするものの、いつしか私自身も笑んでいた。

 レイの姿を、存在を感じなくなってから、初めてまともに笑えた気がした。笑うことが私を少しだけ強くさせたような気がする。


 社員の皆さんに大袈裟な歓迎を十分受けた後、漸く私は解放された。

 事務所の皆さんはこれから私が一員になるということをそれは大層喜んでくれていた。新たな出会いに喜びと戸惑いで一杯になった。

 騒々しい事務所から一歩出ると、そのけたたましさや喜びが北風で吹き飛ばされてしまいそうで、急に不安にかられた。けれど、その不安も強い北風は吹き飛ばしていった。

 レイがいなくなったことに、悔いと寂しさと悲しさ苦しさ、あらゆるものが私の体の中に刻み込まれた。それを感じ、それに溺れそうになった私は、少しだけ状況を冷静に見れるようになってきたように思える。

 あの日、レイが帰る前日、レイは言ってくれたのだ。ずっと傍にいる、と。その時既に帰ることが決まっていたのだとしたら、レイがわざわざそんな嘘を言うはずがないと思うのだ。

 レイはきっと帰ってくる。私の傍に。

 何らかの状況で、自分の国へ戻ってしまったが、きっと私のもとに戻ってきてくれると思うのだ。それは、どこか確信めいたものだった。

 そう、心の中で何かが固まると、私の迷いや悲しみといったものは小さく萎んでいった。それがどのくらいになるのか、いつになったら会えるのか、不安がないわけじゃない。だが、私の中で固まった何かが崩れることはない。


「ハハ、話を聞くぞ。どんな話でもドンと来いだ」

 家に帰ると、リビングで他社の雑誌を真剣な顔で調査してるハハへ声をかけた。

「やあね、ただいまもなしなの?」

「ああ、忘れてた。ただいま」

 ハハに着替えてくるように言われたので、大人しく自室に一旦戻り、再び階下へ降りると、お茶をいれて待っていた。

 ダイニングに向かい合わせで座った。

「今まで黙っていたことがあるの」

 熱いお茶をずずりと啜ったあと、私の目を見つめそう言った。

 あまりに真剣なその目に、ごくりと唾をのんだ。

 これは、私が考えていたような生易しい類の話ではないことはその目を見れば明らかだ。

「私はね、本当は結婚も離婚もしていないのよ。これから私が話すことは、あなたのお父さんの話よ」

 一度も見たことがない父の話。

 家には、父に関する全てのものが存在しなかった。写真さえもどこにもないのだ。ハハの口から父の話をすることも皆無に近かったのだ。

 なぜ今更、そんなことを話し始めたのか。疑問の含んだ目でハハを見つめた。


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