第32話
高いビルを見上げて、グッと奥歯を噛み締めた。
ここに以前来た時のレイの表情を思い浮べれば、不覚にも涙が零れそうになる。
涙は出さないと決めたはずなのに、どうしてこうも体は正直なのだろう。
思考の世界に入っては、どつぼにはまってしまう。私の頭の中はレイのことを考えれば一瞬にして、それでうまってしまうのだ。
私は意を決して一歩を踏み出した。
この一週間の私は、何かに取りつかれたように一心不乱に製作に取り組んだ。
夢中になりすぎて食事さえも忘れる私に、ハハや真希、太一が食事を持ってやって来て半ば無理矢理に摂らせるのだ。
どんなに一心不乱に没頭しても、必ずぽっかりと穴が開くときがある。そんな時は、どうしたって考えてしまうのはレイのことだった。
泣くのはよそう、少なからずこの一週間が終わるまでは、と誓いは立てたが、それはなかなかに難しかった。ぎりぎり涙は抑えていたが、心はいつでも泣いていた。悲しまないなんてことは今の私にはどうしたって出来ないのだ。
思うままに筆を走らせた。不思議と一度も止まることはなく、きっちりと一週間で仕上がった。
仕上がりは正直自分でも解らない。衝動と勢いと意地で描いたような代物だ。
片野先生に見せたら一刀両断されるかもしれない。
それでも、遣り切ったことに清々しささえ感じていた。
片野先生の事務所を前にして、私はどれだけ立っていたのか。
警備員さんが私を警戒しているところを見ると、先生のストーカーと思われているようだ。
漸く動き出した私を観察する目は、酷く鋭い。その鋭い視線は受付を通るまで続いていた。
受付のお姉さんに指定された階までエレベーターで上がる。
以前に一度来ているので、間違えるはずもない。エレベーターは上昇している感覚もないまま、すぐに目的の階へ私を運んだ。
足を踏みだすことを一瞬怯んだが、戸惑いなど勢いで払拭するかのように大股で歩いた。
一度止まれば躊躇してしまうのが解っているから、突っ走る勢いがなければならなかったのだ。
「あの……」
手近にいた事務員さんに声をかけると、ああ、と嬉しそうな声を上げた。
「亜美さんでいらっしゃいますね? 先生から伺っています。こちらへどうぞ」
突然名前で呼ばれて仰天したが、不快には感じなかった。それどころじゃなかったからかもしれないが。
事務員さんについて奥の扉の前まで行く。その間すれ違う社員の皆さんは私に好意的な笑顔で会釈してくれる。なぜか自分の存在を知らない人はいないようだ。そのことに首を傾げるゆとりすらなかった。
「先生、亜美さんがおみえになりました」
事務員さんの呼び掛けに、扉の向こうから、通して、という先生の声が返ってきた。
先生に会うのはどうしたって緊張する。憧れてやまない雲の上の存在なのだ。先週会った時には、私の精神状態が酷いものだったのであまり緊張せずにすんだ。緊張する間もなく、あっという間に去ってしまったからなのだが。
事務員さんが開けてくれた扉をくぐると、背後で扉は閉められた。
一人ぼっちで荒野に投げ出されたような不安に襲われる。
「よく来たね。さあ、そちらに座って」
促されてどっぷりと体が沈んでしまう柔らかなソファに腰を下ろした。
先週とは打って変わり、ニコニコと微笑む先生に少なからず混乱していた。
「じゃあ、早速見せてもらおうか」
今日は目の前で作品を読まれてしまうのだ。
緊張で手が震えた。
こんな時、レイがいたらそっと私の手に手を添えてくれただろう。
自虐的にレイを思い出しては傷ついている。
こんな風にレイが去った後に自分を失うと解っていたから、ハハやワットは私の気持ちを気付かせようとしていたのではないか。そんな気遣いにすら気づかず、変だとしか思いもしなかった自分の鈍感さにうんざりとする。
恐らく周りは私の気持ちなどとうに知っていたのだろう。レイと私以外は皆。
「どうかした?」
「あ、いえ何でもないぞ」
慌てて作品を取り出し先生の前に突き出した。
その時に先ほどの事務員さんがお茶を持ってやってきた。
お茶をテーブルに置きながら、視線がちらちらと私の作品に注がれている。
「先生。あとで私たちにも見せてくださいねっ」
「解っているよ。君たちがきちんと仕事をしてくれたらね」
「はい。勿論、普段にもまして頑張りますっ」
ぼんやりとその会話を見ていた私ににっこりと微笑み、足取りも軽く出て行った。
一体なんだったというのだろう。
「前回君が持ってきた絵本が彼女たちは大層気に入ってね。もう、彼女たちは君のファンのようなものだね」
私が訪れた時の好意的な態度、そこにはそんな理由があったのだ。
それにしても、デビューもしていない素人が描いた絵本にファンなどつくはずがない。私はそれが彼らのリップサービスなのだと解釈した。
「どうも」
それでも、そう言われれば嬉しく思わないはずもなく、私は大いに照れてぶっきらぼうな口調になってしまった。
先生は私の態度を気にする風もなく、作品に目を通し始めた。
私は、妙に喉が渇き事務員さんがいれてくれたお茶をありがたく啜った。
目の前で憧れの先生に読まれるのは、私にとって裸を見られるよりも恥ずかしい。
手持無沙汰で、キョロキョロと先生の所謂社長室のような趣の部屋を見回した。私のイメージする社長室と少し違うのは、先生の机が作品を作りやすいように馬鹿でかいのと、机の上にはあらゆる画材が常備してあることだろうか。そして、この部屋には画材の匂いが充満している。
その匂いが私を辛うじて落ち着かせているのだ。
壁には、私が先生の作品で一番好きな絵本の絵が飾られている。
「うわっ、あの絵欲しいな」
思わず呟いた私に、先生が目線を上げ私の視線の先を辿った。
「ああ、欲しいなら君にあげよう」
「ええっ、いいのか?」
「構わないよ。自分の描いた絵を眺めてもつまらないからね。その代り、君の絵をここに飾らせてくれるかな?」
自分の絵を壁に飾ってもつまらないという気持ちは私にも理解できた。だが、そのあとの言葉の意味が解らず、私は頓狂な表情をしていたに違いない。