第31話
私は試されているのだ。
私の夢に対する心構えと根性はいかばかりかと。
片野先生が去ったあと、私は長いこと茫然としていたように思う。お陰で涙が完全に止まった。
視線を感じ視線を移動させれば、ブラウン管テレビがそこにあった。視線など感じる訳もない。私の希望がそう感じさせたに過ぎない。レイがこのテレビの向こうから私を見ているのではないか……と。
レイがいる空間と繋げないのならそれはただのがらくたかもしれない。だが、今の私にとってそれは僅かな希望の証のように感じた。
「ハハ。このテレビ、私の部屋に戻していいよな?」
私の様子を注意深く眺めているだろうハハに、視線を向けずに問い掛けた。
「いいわよ。運んであげるわ」
「1人じゃ無理だろ?」
「平気よ。あなたはまだ病み上がりでしょう」
それはそうだが、ハハが1人で運べるものでもないだろう。二人がかりならなんとかなる。
心配そうな視線を無視して、片側に回った。ハハに反対側を持つように目で合図すると、諦めたように渋々動きだした。一度動くと決めたハハは早い。
「いい? 一斉のせで上げるわよ。一斉のせっ」
病み上がりの体は普段であれば負担にも思わないこんな動作にも軋みを生じる。だが、これが私の唯一の希望だというのなら、多少の重さも気にならない。寧ろ臨むところだ。
とはいえ、隣の部屋に運ぶだけのことだ。なんのことはない。
「ハハ。私はレイが好きなんだな?」
必死にテレビの重さに耐えている――腰痛持ちのハハにはこの重さは堪えるらしい――ハハが、力を緩めた。意図して緩めたわけでは勿論なく、私の発言に動揺したのは想像にかたくないわけだが。
そのためにバランスを崩し、躓きそうになったが、幸い私の方もハハの方もなんとか持ちなおすことが出来た。
私の言に動揺はしたものの、この状況で話すべきではないと思っているのか、口を開く気配はない。
ブラウン管テレビを元の場所に戻すと、違和感のようなものが解消された。そこで初めて私が、ここにそれがないことにしっくりときていなかったことを知る。
「はあ、案外重いわ。お茶入れてくるから、あなたも飲むでしょ?」
涙ばかり出していたせいか、酷く喉が渇いていた。有難い申し出に、勢いよく頷いた。
「じゃあ、横になってなさい」
大人しくベッドに戻った。レイのことを考えると涙が出そうだったので、努めて絵本のことを考える。
きっとこんなぐちゃぐちゃな気持ちの時にしか感じられない何かがあって、それを絵本にぶつける事が私の遣るべきことなのだろう。
この気持ちのまま悲しいお話を作るのか、それともこんな時だからこそ明るくて愉快なお話を作るのか。そこから突き詰めていく必要がある。
「絵本のことを考えているのね?」
いつの間に上がって来たのか、ハハがトレイを持って部屋の中に入って来た。ついでにお粥が乗っている。
「うん。レイのことを今考えたら壊れちゃいそうで怖い」
「そう。そうね、絵本を書くのは良いかもしれないわね。お粥も持って来たのよ。食べられる?」
「ん、食べる。熱はもうなさそうだし、多少喉がイガイガしてるけど。食欲はなくもないな」
本当は食欲などない。けれど、これ以上ハハを心配させるような真似はしたくなかった。いつまでも私にかまけて有給を消費している場合ではない。ハハには立場というものがあるのだ。
何日もまともな食事をしていなかった私には、しんどい量ではあったがなんとか押し込んだ。量はともかく、ハハのお粥を食すのは暫くぶりで美味しかった。
自然と幼い頃を思い出す。まだまだ駆け出しの編集者だったハハは、毎日忙しく私は家で一人でいることが多かった。それを気にかけて真希や太一とその家族が家に呼んだりしてくれていた。それでもやっぱり幼い私は、ハハがいないことが寂しくて仕方なかった。毎日家で食べる夕食は、真希や太一の家でご相伴にあずかるか、ハハが事前に用意してくれていた料理を電子レンジでチンして食べるかのどちらかだった。真希や太一の家で食べれば楽しくて寂しさを一時は忘れる。だが、私は食べたいのはハハの料理だった。ハハの料理に固執すれば家で一人で食べる味気なさを感じなければならない。そんな私だったが、熱を出した時だけはハハの作った熱々のおかゆを食べることが出来た。私にとっておふくろの味はハハのおかゆだ。そう言うと同情の眼差しを浴びることになるので、あまり口外はしていないが。
ハハは私がおかゆを食べている間、お茶を啜りながら眺めていた。
「ご馳走様」
「亜美。今は絵本の方に集中しなさい。彼のことはそれを完成させた後に考えればいいわ。……それから、あなたに話しておかなければならないことがあるの。本当はもっと前に話すつもりでいたんだけれど、二人になる機会が中々なくなってしまっていたし……。いいえ、それは言い訳ね。話すことが怖くて逃げていたんだわ。とにかく、あなたの一週間が終わったら聞いてほしい話があるの」
私が器を置いてから、こちらをちらちらと窺う姿に何かを話したがっていることは理解していたつもりだが、ハハは中々口を開こうとしなかった。漸く口を開いたのは、湯呑み一杯に入っていたお茶がもう底にほんの少しばかり残すだけになった頃だった。
話している間、ハハは私から決して視線を逸らさなかった。恐らく逸らせなかったんだろうと思う。逸らせば何かを失うとでもいうようなどこか切羽詰まった目をしていた。
「なんだ、なんか怖いな。かなり気になるけど、うん、絵本の方に集中することにする。片野先生のあの様子からして締め切りを過ぎたらヤバそうな気がするし、先生に見せるならちゃんとしたものを作りたいしな」
レイのこともそうだし、ハハが話そうとしていることも、気になる案件は多い。レイのことを少しでも考えれば目頭が熱くなるし、ハハの先ほどの様子を考えると胸騒ぎを覚える。だが、それらは一旦胸の中にしまおう。
泣き濡れてみすみす夢を諦めたとあっては、レイに笑われる。レイの前では恥ずかしくない自分でいたい。
次にいつ会えるか、会えるかどうかさえも解らないが。




