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第30話

 普段にはない悲痛を含んだハハの声に、眠気が覚め目蓋を開きそうになったが寸でで止めた。

 私は狸寝入りでハハの声に耳を傾けたのだ。

「馬鹿よね、亜美は。こんなに辛そうなのにまだ自分の気持ちに気付いていないんだもの。寝込む程に想っていることにどうして気付けないのかしら。我が子ながら呆れちゃう」

 ハハが私の気持ちを理解させようと諭したことはなかった。自分で考えて結論を出させようとしていた。こんな風に思っていたことに、拗ねたくなった。

「本当に。傍から見てたら馬鹿みたい。傍にいたい、傍にいてほしい、笑顔が見たい、苦しい、悲しい、会いたい。こんなの好き以外の何物でもないのに。死ぬほど好きってことなのに」

 会いたい、と口に出したことはないはずだ。それとも朦朧と夢うつつの中で或いは口走っていたのかもしれない。

「「本当に馬鹿(ねぇ)」」

 すとん、と何もかもが腑に落ちた気がした。

 この言いようのない喪失感も、身がちぎれるほどの悲壮感も、あの笑顔を思い出すだけで感じる高揚感も、全てはその一言で片付けられてしまう。

 好き。

 目から鱗が落ちた気がした。

 こんなにも答えは簡単だったのか。何かを考える前に、私の心が、身体が答えを明確に表していたのだ。

 全てを認めた私は何だか笑いだしたくなってしまった。

 二人の言うとおり、なんて馬鹿なんだろう。さぞや見ていて滑稽だっただろう。

 答えが出たことにホッとした私は、途端に眠気に襲われ、それに逆らうことなくことりとおちた。



 そのまま目覚めることなく翌朝までこんこんと眠り続けた。

 恐らく熱は下がっているだろう。けれど、長いこと続いた熱のせいかずっと寝ていたせいか、体の節々がきしきしと不気味な音を立てていた。

 体の痛みに幾分慣れた頃、私は漸く正常な頭で事態を把握した。

 私は答えを見つけた。だが、それを見つけたからといってなんだというのか。伝える相手はここにはいないのだ。相手のいなくなったこの気持ちはどこへ向ければいいのだろう。

 昨日迄とは違う意味の涙が頬を伝う。

 後悔はどうして先に立ってくれない。

 虚しさと悔しさが、心をむしばみ穴を開けていく。

 ハハが部屋の中にいないことを確認した私は、ベッドから這い出て重い足を摺るように前に運んだ。

 部屋を出、ずりずりと向かった先はあの二人が使用していた部屋。

 いるはずのない無人の部屋にノックをしたのは、私の中に微かな希望があったからだ。戻って来ているのではないかと。

 中からの返答は勿論なく、人がいる気配も感じられない。当たり前だ。

 自嘲気味に鼻で笑った。

「いるわけないよな」

 ドアノブに触れる。このドアノブをつい先日までレイが触れていたのだと考えただけで、愛おしいものに感じ、胸が潰れるほど苦しくなった。

 二人が使用していた部屋は、もう長いこと使われていなかったかのように冷え冷えとしていた。たった数日人が入らなかっただけで、こんなにもあっさりその痕跡は消えてしまうものなのか。

 レイの気配がなくなってしまった部屋が、私をも拒んでいるように思えた。レイの気持ちに応えられなかった私を責め立てるように。その中で、ただ一つ、私を見つめているものがあった。

 それの前に腰を下ろした。

 手を伸ばして触れるも、それは冷たく堅いだけの物質だった。

「どうして繋いでくれないんだよ」

 ここに移動されてからは久しく見ることのなかったブラウン管テレビが、うんともすんとも言うはずがない。

「どうやったらレイのところに行ける?」

 ブラウン管テレビのディスプレイを撫でるが、オルブライトに繋ぐ道は開いてくれない。

 役立たずの使い古されたテレビでしかなかった。

 向こうに行くには、何らかの方法があるのだろうか。

 私は何も知らない。知らないのだ。

 どうやってここと向こうを繋いでいたのかも、オルブライトがどんな国なのかも、レイがあの国でどんな立場にいるのかも、なぜレイが戻らなくてはならなかったのかも。

 知ろうとしなかったのは、私だ。恐らく、私が尋ねたならばレイはあらゆることに答えてくれたのだろう。真っ暗なディスプレイに涙する私が写っている。

 泣くしかのうがない自分が情けない。そうは思うものの、涙は止むことを忘れたように無限に流れる。

「亜美」

 開け放たれていたドアをこつりと叩いたハハが、私を呼ぶ。

 今呼んでほしいのは……。

 そんなことを考えてもどうしようもないというのに。

「お客さんだけど、日を改めてもらおうか?」

 涙を頬に流したままハハを見やると、その後ろに微笑みを浮かべた男がいることに気付いた。

「片野先生」

 泣いている私を見ても、表情一つ変えない先生が、何を考えているのか私には解らない。

「君には悲しみしか見えないのかな? 見えるのは自分の悲しみだけ?」

 その通りだ。

 今は自分のことしか考えられない。他のことを考えるゆとりはまるでない。

 無言を肯定と受け取ったのか、先生が呆れたように頭を振る。

「君の夢は何だ?」

 今しなければならない会話なんだろうか。なぜ今そんな話をしなければならない。

 その表情は、露骨に表れていたはずだ。だが、先生は気にした風もなく私の反応を待っている。

「え、絵本作家になること」

「ならば今日から一週間で絵本を一作仕上げてこい。来週の今日17時迄だ。時間厳守だ、解ったな?」

 初めて会った時の穏やかさはない。声も口調も荒げていた。威圧感たっぷりの厳しい眼差しに訳も解らず頷いていた。

「返事は『はい』だ」

 返ってきた怒声に突発的に大きな声を出した。

「はい」

「今度は逃げるなよ」

 それだけ言い捨てると、ハハへ一礼して足早に去っていった。

「なんなの?」

 そう呟いたのは、私だろうか、それともハハだったろうか。


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