第3話
無邪気な瞳に無邪気な笑顔。醸し出す雰囲気全体が無邪気な少年だった。
誰だって成長するにつれどうしたって経験する嫌な現実を目の当たりにし、否応なしに擦れていく。この少年には、そんな擦れた感がないのだ。
この舞踏会でさえ渦巻く悪しき感情を見てもなお、この純朴さを保てるものなのか。悪しきものを遠ざけられて育ったのか、それともそれすらも彼の無邪気さには適わないというのだろうか。
いずれにしろ、私は少年のその純朴さに憧れ、羨み、そして妬んだ。
「亜美様、こちらは本日の主役であらされますレイ殿下でございます」
「主役?」
「はい。本日の舞踏会は、レイ殿下の16歳の誕生日をお祝いするものであり、婚約者をお探しする目的でもございます」
少年の誕生日だったのか。
「そりゃ、おめでと。あんたにとっていい年になるといいな」
相手が王だろうが王族であろうが、態度を変える必要はないと思っていた。ワットだって私の礼儀をどうのこうの言うつもりはないようだ。
王子レイは、私の無礼に驚いたのだろうか、私を凝視したまま固まっている。
「おい、レイ。大丈夫か? なあ、ワット。レイ動かないぞ。大丈夫なのか?」
話しかけても微動だにしないレイをどう対処していいかわからず、ワットに助けを求めた。
苦笑を浮かべるだけの薄情者のワットが助けを差し伸べるつもりがないと悟ると、私はレイの顔を覗き込んだ。
「ホントに大丈夫か?」
間近でレイの瞳を覗き込んだ。青とも緑とも言えない美しい瞳が突如大きく見開き、遠ざかっていった。
少し距離を詰めすぎたのだろうか。驚いて、後方に飛んだレイは、海老を彷彿とさせた。
「だだ大丈夫っ。本当に大丈夫だから」
何にそんなに慌てているのか分からない。
変な奴だ。
「大丈夫ならいいけど、具合悪いなら無理するなよ? なあ、ワット。お腹すいたから食べてきてもいいか?」
「ええ。私は少し挨拶回りをして参りますので、ごゆっくり」
頷いて、別れた。
食事の置かれているスペースには、あまり人はいない。みなお喋りやダンスに忙しいようだ。間違っても食事をがっついたりする者はいない。
皿を手に取り、何を食べようか思案していると、隣に気配を感じ顔を上げた。
「なんだレイ。あんたもお腹が空いたのか?」
「空いてはいない」
空腹でもないのに、なぜか私の隣りに居座ろうとしているようだ。
「なんだ。じゃあ、どうした? もしかして私が一人なのを心配して来てくれたのか? それなら私は大丈夫だぞ。あんたは婚約者を探さなきゃならないんだろ? ほら、女性達があんたを見てる。皆話したがってるんじゃないのか」
「イヤ、俺は」
「なんだ? 何か言いたいなら、ちゃんと言わないと伝わらないぞ」
「俺は……、あなたといたいっ」
顔を真っ赤に染め上げて、上目遣いで私を悩殺しようとしている。勿論、無自覚でだ。
無邪気さは時に武器になるのか。
「そうか。なら、いればいいんじゃないか?」
そう答えると、パッと花開くように笑顔になった。
あっ、耳が生えた。ああっ、尻尾も。
勿論それは幻覚でしかなく、実際に生えているわけではない。だが私には、レイの頭とお尻にそれらが生えているように見えたのだ。まるで犬のように。
どうやら懐かれたようだ。尻尾をふりふりと大ぶりに振り、私に微笑みかけるレイは何とも可愛らしい生き物だ。
「これが凄く美味しいんだ。俺のお気に入りだよ。亜美殿にもぜひ食べて貰いたいんだ」
私の皿を横取りし、甲斐甲斐しく料理を取ってくれる。
料理自体は日本での食事と変わらない。料理の名前こそ違うようだが、その中身は同じものだ。レイがお気に入りだと言ったのは、スパゲティで、恐らくボンゴレだろう。
ニコニコと皿を手渡され賞味すると、やはりそれは日本で言うところのボンゴレだった。
「美味しいな。日本と変わらないから、私には馴染みやすいんだな」
「本当? じゃぁ、もっと食べて。これと、これとこれが俺のお勧め。それと、これは料理人がお勧めだって言ってたんだ」
これでもかと乗せられていく料理を渡された傍から片付けていく。突飛した料理はなく、全て味わったことのあるものだった。
日本の高級ホテルで料理を食しているのと変わらない。滅多に味わうことのできない高級感漂う料理を心行くまで味わうつもりでいた。
「んん、のど渇いた」
そう口にすれば、レイが飛んで行って飲み物を手にして戻って来た。
シャンパングラスに入ったそれは、とてもジュースとは思えなかった。未成年――19歳だ――の私がアルコールを摂取することはない、といわなければならないところだが、実のところいける口だ。ハハの晩酌に付き合わされているからなのだ。
ありがとう、と受け取ってまず一口。
甘みのあるそれは、カクテルのように飲みやすい。だが、恐らくアルコール度は強そうだ。大量摂取すると危険なことになりそうだ。
自分の摂取限度量は理解しているつもりでいる。この強さなら、二杯くらいで止めておいた方がいいかもしれない。
「レイ。あんたはもっとご令嬢たちと話しをした方がいいんじゃないか。さっきから心なしか鋭い視線を感じる。私が視線で串刺しになる前に挨拶の一つもして来い。私は少し夜風に当たって来る」
ポスト婚約者を狙うご令嬢たちの鋭い視線は始終感じていた。そんなものを一々気にしているわけではないが、一言も話せずに終わるのは彼女たちがあまりに可哀想だ。
それに、先ほどのお酒が思ったよりもアルコール度が高かったのか、少し酔いざましがしたかった。
「分かった。でも、すぐ戻って来るから。バルコニーで変な男に話しかけられても相手にしちゃダメだからね」
「はいはい、分かったよぉ」
手を振り、何度も振り返り私を確認するレイを見送った。
レイがご令嬢たちと話し始めたのを見届けると、バルコニーへと足を向けた。
バルコニーには人気はなかった。それをいいことに大きく伸びをする。
「おっ、目の前は海なのか?」
暗くて気付かなかったが、ザザンザザンと波の音が聞こえる。バルコニーから下を覗き込む。降りられない高さではない。
「ちょっとくらい抜け出してもいいよな?」
誰にともなく問い掛けた。
「いいよ」
そして、それに自分で答え、ドレスを捲くしあげ足を上げた。