第29話
酷く酷く悲しい夢を見た。内容は起きた途端に忘れていた。だが、頬は涙に濡れていた。とても大事な何かをなくしてしまったような喪失感がまざまざと残っている。起きた後もなお続く悲しみに小さなため息を吐いた。
「起きた? 大分うなされていたわね」
ハハが今にも泣き出しそうな、心配そうな顔で覗き込んだ。幼い頃から私が具合を悪くするとそんな顔をする。それが具合の悪い私を不安にさせることを知らずに。
「ハハ、レイは?」
私が何かあった時には、必ずレイがいてくれた。いや、何かがなくてもレイは傍にいてくれていた。そのレイの姿が見えない。
「今は何も考えずに、ゆっくり休みなさい」
「いないんだ? ……帰ったんだろ、レイは」
意識を失う前、ハハが言った言葉は私の脳裏に刻み込まれていた。あの時は到底理解できなかった事実が、今は嫌でも解る。
「亜美、あなたは高熱で倒れたの。今は休んで体を治すべきだわ」
それが事実でないのなら、何馬鹿なこと言っているの、と一笑にふしたはずだ。ハハがそうしないのは、それが事実だからだ。
「……解ってたよ。レイが近いうちに帰ってしまうことは。あれだけみんなおかしければ、嫌でも気付く。でも、こんなに早いとは思わなかった」
まさか、ずっと一緒にいると言った翌日に行ってしまうだなんて誰が予期するだろうか。
予感はしていてもそれはまだ先のことで、私はその覚悟を少しずつ固めていくのだと思っていた。
「嘘は吐かなくていい。そうされたほうが余計辛い」
ハハは何も悪いことなどしていないのに、すまなそうな困ったような表情を浮かべた。
「レイもワットも帰ったわ。国王に帰ってくるよう言われたんですって」
小さく頷いた。
「解った。もう少し寝るよ」
ゆっくり休むのよ、と言ってベッドから離れていく。パタンとドアが閉まる音を聞いた途端に耐えていた涙が溢れだす。
まだハハがすぐそこにいそうで、息を殺した。息を詰めれば詰めるほど、涙は溢れ嗚咽が漏れた。
レイは、昨夜わたしにありがとうと言った。それは、写真へのお礼だと思っていたが、今思えば別れの挨拶だったのではないか。
最後の最後まで私を困らせて、楽しませてあっという間に姿を消してしまった。
「ずっと傍にいるって言ってただろっ」
その言葉にいつでも答えてくれていたはずのレイがいない。レイの笑顔が、拗ねた顔が、照れた顔が、怒った顔が、もう見られない。
「レイっ」
目をつぶればレイの笑顔を思い浮べることが出来る。けれど、目を開けるとそこにはレイはいない。ならばずっと目を閉じていればこんなに苦しくないのか。それは違う。いずれ脳裏に焼き付いたあの笑顔も薄れ、消えていってしまうだろう。この苦しみさえも消えてしまう。
この苦しみが消えてほしいのか、消えてほしくないのか。
あの笑顔が消えてしまうのなら、どんな苦しみも消えてほしくはない。
「レイなんか嫌いだっ」
苦し紛れに呟いた言葉が虚しく部屋の中を漂ってシャボンのように消えた。
声を懸命に抑えていたせいか、頭が痛い。風邪を引いたがための痛みなのか、別れを経験したための痛みなのか、それすら解らなかった。
健康優良児の私が久しぶりに引いた風邪は、長いこと私を苦しめた。
レイを失った私の心が、病を撃退するだけの力を持っていないためかもしれない。浮上しない気力を餌に風邪のウィルスは増殖しているのだろう。
熱は下がらず、喉がガラガラでしわがれた声しか出ない。吐き気や腹痛を感じることはないが、熱に犯された頭は脳みそが腐ってしまったように何も考えられない。
「ちょっとあんた大丈夫なの? しっかりしなさいよ」
いつにない私の弱った姿に真希が毎日様子を見に来てくれるが、私の心の光にはなってくれない。
レイが来る前の自分がどうだったか、まるで思い出せない。私はどうやって生きていたんだろうか。
「真希。なんか苦しいんだ。私、どうしたんだろうな?」
「肉体的にも風邪を引いているけど、心も風邪を引いてるのよ。考えても苦しいときは何も考えなければいいわ。今は何も。考えなきゃならない時っていうのは決まってるのよ。今はその時じゃない」
説教をしているような口ぶりだがその声は限りなく優しい。
優しくされればされるだけ、苦しくなるのは何故だろうか。私は叱られたいんだろうか。解らない。
「真希ちゃん、いつも来てくれてありがとう。でも、あんまり風邪っ引きの近くにいたら風邪を貰っちゃわないかしら?」
トレイに飲み物やらお菓子やらを載せてやってきたハハが真希に声をかける。トレイにコップが二つ乗っているところを見ると、自らもここに留まるようだ。
「大丈夫。私の方が亜美より体は強いから。それに風邪を引いたら学校を休めるからいいの」
「そう?」
にっこりと微笑む真希に納得したのかハハも微笑む。どうでもいいがお茶会を開くのであれば、下のリビングでやってくれないだろうか。
食欲のない私はお菓子を見てもそそられない。いつもなら真っ先に手を伸ばすのだが。
「亜美の風邪長引いてるね」
「そうなのよね。病院で貰った薬はきちんと飲んでるんだけどね」
「気の持ちようだと思うけど……」
「ねぇ」
私の方を窺いながら、私の話題を口にするのは止めてくれないだろうか。少しも寝れやしない。だが、それを口にすることすら面倒で、心の中で呟くだけにとどめた。
私の反論がないことに諦めたのか、どちらかの溜息が聞こえる。
「久美さん、仕事は良いの?」
「ええ、私もいつも働き詰だからね。会社の同僚から娘が病気の時くらい休みなって追い出されちゃったのよ。だから、今週一杯は休むつもり」
そんなに休んで大丈夫なんだろうか。恐らく私の為に有給を使っているんだ。
「そうなんだ」
しばらく私の話題とは関係のない真希の学校の話やハハの出している雑誌の話などをなぜか私の部屋で繰り広げていた。そのうち二人の声が心地よい子守唄と化し、私はうつらうつらと眠りへと誘われていった。
「心配なのよ。このまま何も口にせずに、死さえ考えているんじゃないかって」
私がすっかりと眠りについたと思ったのだろう。ハハの悲痛な叫びが口から零れた。




