第25話
朝早い時間には穏やかだった筈なのに、家を出た時にはキツい北風が吹きすさんでいた。
あまりの寒さに鼻を啜ると、隣を歩くレイも鼻を啜っていた。
「レイは寒いの苦手か?」
「うん、ちょっと。オルブライトではこんなに気温が下がることはないから」
聞き慣れない単語に首を捻るが、それがレイの国の名前であることに一拍おいてから気付いた。
当たり前に知っている事実なのに、たまにふとレイがこの国の人間でないことを忘れてしまう。それだけレイがここにいることに馴染んでしまっているのだ。
「そうか。ごめんな、こんな日に付き合って貰って」
「大丈夫だよ。これくらい平気だから」
鼻の頭と頬を赤くして、すんすんと鼻を鳴らしていてはあまりその言葉に説得力はないが、戻るつもりはなさそうだ。
「ありがとな」
私は何度レイに『ありがとう』を言っただろうか。レイの私に向ける好意が、確実に私を支えているのは確かだ。
「どういたしまして」
歯をむき出しにして微笑むが、その歯が噛み合わずにガチガチと音を立てている。
首に巻いているマフラーを取ると、風晒しになっていたレイの首に巻いてやった。
「亜美っ」
「私は大丈夫だ。レイより日本の寒さに慣れている」
強がりじゃなく、私にはこれくらいの寒さならなんとかなるだろう。歯を鳴らすほどの寒さには感じない。レイを見ていると余計に寒さを感じるし、付き合って貰って風邪を引かれては申し訳ない。
「ありがとう。あったかい」
私の体温が少しは残っているだろう。
「うん」
マフラーに頬擦りする姿になぜか照れを感じた。
木枯らしが吹き荒ぶ町をみな首をすくめて行き交う。その中でレイが一番寒そうで、申し訳なくて、何度も引き返すことを勧めた。
今日、私が向かうのは片野先生の事務所で、先日の約束どおり作品を読んで貰いに行くのだ。
事務所の方には今日向かうと一報を入れているので私はどんな事情があっても向かわねばならないが、レイは無理をしてついてこなくてもいいのだ。勿論私のために出て来てくれたのは嬉しいし、私としてもレイがいてくれるのは心強い。
結局私は、それ以上強くレイに帰れとは言えないのだ。
「ほら」
だからこっそりと用意しておいたカイロをレイの手の中に押し込んだ。
「ありがとう」
お礼を言いたいのは私で、感謝されるほどの何かをした覚えはない。
「また、どこかに行くか? 今度はレイが好きな所に」
「いいの? 行きたい。俺、今日がいい。事務所に行った後。駄目かな?」
一瞬にして寒さなど忘れてしまったようだ。
「今日はこれからもっと寒くなるって聞いたぞ。予報では雪が降るかもしれないってことだったし、もっと暖かい日に改めての方がいいんじゃないか?」
早朝には薄らと日が射していたが、太陽はどんよりとした雲に覆われてしまった。なまり色の雲からはいつ雨や雪が落ちてきてもおかしくはない。
「今日がいいんだ」
レイには珍しい断固とした態度に思わず頷いてしまった。
「解った」
嬉しそうに微笑んだレイの表情からいつもの無邪気さを感じられなかったのは、私の気のせいだったろうか。
事務所を訪れた私たちだったが、結局のところ片野先生に会うことは出来なかった。先生に急な来客が入ったらしい。
事務員さんに待つことを勧められたが、自分の作品を託し、逃げるように出て来てしまった。
恐らく先生の来客はそう長くはかからなかっただろう。事務員さんの言動からそう窺えた。
待たなかったのは、怖かったからだ。事務所まで来た私は、急に怖くなって逃げたのだ。
先生に来客があったことを言い訳にして。
「良かったの、亜美」
「うん、またゆっくり会いに行く」
私にはまだ憧れの作家に目の前で拙い作品を読まれる覚悟が出来ていないのだ。
「ごめんな、せっかく付き合ってくれたのに。レイが好きな所に行くか」
釈然としない顔をしているレイに口角を上げてみせる。
「戻ろう、亜美。その方がいい」
「もう一度先生と何らかの接触はあるはずなんだ。会って話すのか、電話か、メールかもしれないけどな。片野先生は私の作品について意見をくれるだろう。今日持って来たのは一作じゃないんだ。だから、その場で待つのは先生の時間を取らせてしまうことになる。私自身、目の前で読まれるのが怖いってのもあるけどな」
まだ納得していないようなレイではあったが、次の言葉を口にしたらすぐに黙った。
「じゃあ、今日のデートはなしにするか」
その威力は凄まじかったようだ。
「行こう」
腕を強く引かれた。あんなに渋っていたというのに。
「で、どこに行くんだ?」
「観覧車がある大きな公園があるでしょ? 水族館に行った後観覧車に乗りたい」
レイが言わんとする公園はすぐに解った。行き方など調べなくても知っている。何度か真希に連れていかれたことがあるのだ。
「よし、行くか」
電車に乗ってその公園までは比較的近い。
あっという間に着いたその公園の中を真っ直ぐと歩いていく。どんよりと曇り空の今日のような日には公園はひっそりと寂しい。大きな観覧車がゆっくりと動いているが、誰かが乗っている感じはしない。
隣を歩くレイを窺う。
嬉しそうに歩いているようだが、どこかしらに憂を感じる。あれからずっとそんな状態が続いている。一見私と笑顔で会話しているように見えるが、その笑顔には何かしらの悩み、悲しみ、憂鬱といったものが感じられるのだ。私だとて伊達にレイの隣にいたわけではない。
「レイ。やっぱりなんかあったのか?」
「うん? 何にもないよ。さあ、行こう。きっと今日は人が少なくて貸し切り状態かもしれない」
はしゃいでみせるレイに疑いの眼差しを送るが、レイはそれを器用に交わした。
何かがある、もしくはあったのは確かだと思う。だがレイはそれを決して口にするつもりはないようだ。
何かあれば相談してほしいと思うのは、私の身勝手なのだろうか。レイの気持ちに応えられない私には、何をする権利もないのか。
「レイ。何があったかもう聞かない。だけど、私とのデート中には何も考えるな。いつもの笑顔を見せてくれよ」
「解った」
微笑んだレイの笑顔はいつもの無邪気なものだった。