第21話
私は、最初の衝撃が落ち着くと急激に心が冷えていった。
「それは、ハハに対して恩義のようなものがあるからか?」
先生を睨み付けてそう言った。
ハハにどれだけ世話になったかは知らないが、私が娘だというだけで贔屓されるのは我慢ならなかった。先生に作品を見てもらいたいと思っている人間は吐いて捨てるほどいるはずだ。ズルはしたくない。
「勘違いしないでもらいたいんだけどね、正直その頃の彼女はまだまだ新人で、お世話になったとは言ったが、ミスばかりで世話したのはこちらなんじゃないかと思う程だったよ。恩義など感じようはずもない。今の彼女は相当出世したみたいだけどね」
私の睨みなど気にした風もなく、笑みを隠さずに――寧ろ笑みを深めて――語った。
「僕はただ純粋に君の作品を見たいと思うんだ」
それは私にとってあまりにも魅力的なことだと認めないわけにはいかない。相手は私が憧れていた絵本作家なのだ。
ハハのこと云々はこの際おいておいて、作品を見せるだけならいいのではないか。
その誘惑にはどうしたってあながえなかった。
「お、お願いします」
「良かった。いつでもいいからね。私の事務所に送ってくれても、直接来てくれても構わない。ただ、私はいつでも事務所にいるわけではないからね。私に会いたい時はメールしてくれればいいから」
まるで答えなど最初からそうなると解っていたかのような当然と言いたげな笑みに、こっそりと歯を食い縛る。
「有り難うございます」
レイの手を一層強く握り締めていた。
レイの空いているほうの手が繋がれた二人の手の上にそっと乗せられた。
私を落ち着かせるように、励ますように、ポンポンと弾ませる。
込めていた力を徐々に緩めた。
「レイ、ありがとな」
「うん?」
片野先生の事務所を後にした私たちは、家路を歩いていた。
美術館を出た後も手は繋がれたままだ。レイの強い要望のためである。
こちらを窺う気配を感じたが、前を見据えたまま続きを口にする。
「レイがいなかったらきっと落ち着いて話なんか出来なかった」
「そう? 俺でも少しは役に立てた?」
「少しどころか大分な。感謝してる」
レイがいなかったら間違いなく私は逆上し、原稿を見てもらう話もなかっただろう。イヤ、その話し自体片野先生から持ち出されることもなかったかもしれない。
「役に立てたなら良かった」
「楽しかったな、今日」
「本当?」
心配そうにこちらを覗き込んでくるレイに苦笑しつつしっかりと頷いた。
本当に楽しかった。最初はどんな茶番に付き合わされるのかとヒヤヒヤしたが、実際は私のことを考えて色々プランを練ってくれたんだと納得出来るような内容だった。
「良かった」
本気でホッとしたのだろう。肩の力がフッと抜けた。
そんなに肩に力が入っていたのか。今日のこのデートにどれだけ意気込んでいたのか。
「レイは楽しめたか?」
「楽しかったよ。嬉しそうな亜美を見ていたら幸せな気分になった」
「でも、レイ自身は楽しんでないだろ? 今日行ったところは、私の興味があることでレイの興味のあることじゃない。だから今度はレイが好きなところに行こう」
レイがなぜか驚いた顔をしている。何か変なことを言っただろうか。
「亜美、当たり前のように次の話をしたね。また、デートしてくれるんだ?」
ハッとした。
無意識だったのだ。無意識のうちに次の話をしていた。さも当たり前に。何の疑問も抱かなかった。何の違和感もなかった。
それが何を意味しているのか解りもしないままに。
「気が向いたらな」
素っ気なくそう答えた。
レイが隣にいること、レイに頼ること、一緒に出かけること。
当たり前が少しずつ増えていく。それをすんなりと受け入れている自分がいた。いつの間にか懐に潜り込まれていたのだろう。
「うん」
素っ気なく言い放ったのに、嬉々として頷くレイに無性に優しくしたくなった。
気付いたらレイの頭を撫でていた。ペットを愛でるように。
気持ちよさそうに目を細めたレイは、とても嬉しそうだ。
こんな簡単に幸せそうな笑顔が見られるんだ。私の行動一つで。それは私の行動でレイを簡単に傷つけられてしまうというのと同意義なのだ。
少し怖くなった。
私の何気ない一言や行為は、レイの笑顔を左右する。悪気ない一言でレイの笑顔を曇らせることがあるということだ。
自分の発言、行動に十分気をつける必要がありそうだ。だって私はレイの笑顔を守りたいのだ。
「今日は何が食べたい? レイの好きなヤツを作ってやるぞ」
「えっ、本当? そうだなあ、何がいいかな」
考え始めたレイをクスッと笑って眺めた。
笑われたことなど気付いてもいないレイは、あれでもないこれでもないとぶつぶつやっている。
レイと二人で帰りがけにスーパーに寄り、家に戻るとリビングでハハとワットが我々を待ち構えていた。
「お帰り。デートはどうだった?」
ニヤニヤと気味の悪い笑いを顔に張りつけたハハが私を見上げた。
「ハハに報告するか、そんなもん」
何が悲しくて親にデートの詳細や感想を語らなければならないのだ。
尚も聞き出そうとするハハを無視して自室へ向かう。私が誰かとデートするなんて稀――というか初めてかもしれない――なもんだから興味があるんだろうが、聞かれるほうの身にもなって欲しい。
ラフな格好に着替えて階下へ降りると、リビングにはハハだけがテレビを見て寛いでいた。
「ワットは?」
「レイと上に行ったわ」
レイは着替えなど一通りのことは出来るし、ワットに手伝わせることをよしとしないが、常に付き従っている。真面目なワットはそれが仕事なのだと疑ってもいないようだ。
「そっか」
「ねぇ、真面目な話、あなたはレイをどう思っている?」
ハハがテレビの電源を落とし、私を見上げてそう問う。本人の言の通り、至極真剣な顔をしている。
滅多に見せることのないその表情に、私は訝しげに顔を顰めた。