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第19話

 レイが連れていってくれたお店の味は文句ないものだった。

 夢中でかき込む私の姿を眺める視線を何度か感じたが、それが気にならないほどに食事に集中していた。

 ぺろりとたいらげた私は、漸く顔を上げた。

 無遠慮なレイの視線を感じていたのに、私よりも先に食べ終えていたようだ。

「あんた速いな。ちゃんと噛んで食べたのか?」

「ちゃんと噛んで食べたよ。亜美、デザートは?」

「イヤ、いいや。私はデザートは別腹じゃないんだ」

 女の子は皆デザートは別腹だと言うと思われがちだが、私は違う。別の腹に入ってはくれない。

「これからどうするんだ?」

 どうか、海に行きたいとは言ってくれませんように。

 ギュッと目をつぶり心の中で必死に願った。

「亜美、大丈夫? 今日なんか変だよ? 具合悪いなら帰ろうか?」

「イヤ、大丈夫だ。具合が悪いならこんなに食ってないだろ? いいからどこに行きたいか言えよ」

「うん。美術館なんてどうかと思ってるんだ」

 海と言われると半ば諦めていた私の耳に飛び込んで来たのは思いもよらぬ言葉だった。

「え?」

 驚いている私の目の前にチケットを置いた。

「レイ、これ」

「亜美が好きかと思って」

 私には憧れて止まない絵本作家がいる。その絵本作家が有名美術館で個展を開くことは知っていた。

 行きたい、行きたいとずっと思っていたのだ。

「なんで知ってるんだ?」

 レイにその話をしたことはないはずだ。

 私は幼い頃にこの作家の絵本が大好きだったのだ。私の宝物となった絵本がこの作家のものだった。この人に憧れて私は絵本作家を目指したのだ。

「亜美が疲れてるときや行き詰まってるとき、いつもその人の絵本を読んでるよね。亜美の部屋にはこの人の絵本が沢山あるし、大切に扱っているのが分かる。見ていれば分かるよ」

 無邪気で呑気なレイだから、あまり周りのことは見ていないように思っていたところがある。だが、そうではないのだ。

 私のことを気にかけ、顔色を窺い、一生懸命に分かろう、知ろうとしてくれている。

 私が何も話さなくても、分かってくれようとしている姿に、少なからず心を打たれた。

「亜美? イヤだった?」

 俯いてしまった私に、慌てたような声が降りかかる。レイは私が怒ったと思っているのだろう。必死に取り繕うとしている。

「怒ってないぞ。感動しているんだ。自分のことを誰かに分かって貰えるって嬉しいことなんだな?」

 顔を上げてそう言った。

「ありがとな、レイ」

 心からのお礼を述べると、レイの頬が赤みをおび、口元が綻んで行く。

 レイは素直だ。

 子供のままの純粋さをそのまま持ち続けているような、その屈託のない笑顔に私は複雑な想いを抱く。これだけの純粋さを私が持っていたなら、もっといい絵本が描けるのではないかと思わずにはいられない。

 

 店を出て、美術館へ向かう。

「亜美。手を繋いでもいい?」

 その無邪気さでそう言われれば、断ることは難しい。子供に、手を繋いで、と言われているのと同等のように思える。子供に、手なんか繋げるか、と言ったなら、心底傷ついた顔をするだろう。その傷ついた表情をレイもしそうで、決して断ることが出来ない。

「ほら」

 手を差し出すと、嬉しそうに手を絡める。

 その無邪気な笑顔を見てしまうと、まあいいかと諦めるしかないと思ってしまう。

 きっとレイの無邪気な笑顔には敵わないのだ、私は。

「なんか緊張して来た」

「どうして? 見るだけなのに?」

「個展だぞ? もしかしてもしかしたら本人がいるかもしれないじゃないか」

 もし会えたらどうしよう。もし話が出来たらどうしよう。何と言えばいい? 何を聞けばいい?

 美術館に近づくほどに私の緊張は高まるのだった。

 繋いだ手が汗でぐっしょりと濡れている。申し訳なくて、手を話したいとは思うのだが、それをしたくないとも思っていた。レイの手の温もりが私を支えているような気がするのだ。もし今手を放してしまったなら、私はこの場で発狂しかねない。

「大丈夫だよ。落ち着いて」

「レイ、悪いな。私の手、緊張でベタベタだ」

「別に気にならないよ。大丈夫大丈夫」

 繋いだ手を少し持ち上げて、開いている手を添えて優しく撫でる。

 まるで子供をあやすような優しい行為に、私の心も少しずつ穏やかになっていく。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 美術館のいたる所に個展のポスターが貼られていた。

 片野あゆみ。

 それが私の憧れる絵本作家の名前だ。

 今更に考えてみれば、名前は知っているが片野先生の顔は知らないのだ。もし、会場に片野先生がいたとしても私は気付かずに終わることもあるかもしれないのだ。

 フッと全身の力が抜け、一気に気持ちが浮上した。

「ああ、力抜けた。私さ、考えてみれば片野先生の顔って知らないんだよ。だから、本人が目の前にいたって気付かず素通りしちゃうかもしれないんだ。緊張しても仕様がないよな」

「そうなんだ?」

 大きく頷いた。

 緊張がほぐれたら、俄然元気が出て来て、私はレイを強く引っ張った。

 早く見たくて仕方がないのだ。

 片野先生の個展は大きなホールで行われていた。

 私が小さな頃から子供たちに人気のあった片野先生の個展には、小さな子供から老人まで幅広い年齢層の人々で賑わっていた。

 今もなお人気のある片野先生の絵本。その実物の絵が間近で見られるとあって、私はいつにもなく興奮していた。

 隣りについて歩くレイに、何という絵本のどんな場面の絵かということを解説しながら一つ一つ丁寧に見て回る。時折、私の解説を聞きかじり感心していく通りすがりなんかもいた。

 この世界は、私にとって夢のような世界だった。

 何度見ても見飽きなくて、私は同じフロアを3度は回っただろうか。

 レイはそんな私に呆れるでもなく、ついて来てくれていた。

「あなたはそんなにこれらの作品が好きなんですか?」

「好きなんてもんじゃありませんっ。心から愛していますっ」

 背後から突如話しかけられ、振り返った私は興奮気味にそう言い放った。

 そこに立っていたのは、満面に笑みを広げた見知らぬ男だった。


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