第18話
やっと出来上がった絵を私はじっくりと見つめた。
随分長いこと納得できなかったラストの絵が漸く完成したのだ。
「うん。いいかな」
「亜美? 出来た?」
またドアの前で待っていたのか、と私自身戸惑うほどの優しげな吐息がもれた。
「入ってくればいいだろ?」
おずおずとドアを開けて入ってくるレイに、苦笑を浮かべる。
前に私の部屋に入室したことが原因で一方的に避けていたためか、部屋に入るときは細心の注意を払っているように思われる。
あの一件から、ブラウン管テレビはレイたちの部屋へと移動された。
もう見れなくなってしまったテレビではあるが、部屋にずっとあったものがなくなると、なんだか心許ない気分になるものだ。しかしそれにもやがて慣れた。
「亜美。終わったの?」
「うん。終わったぞ」
レイの前に突き付けた。
それをまるで大事なものでも扱うように丁寧に手に取り――希望的観測ではあるが――、見入っているように見えた。
「亜美の絵は、綺麗で、柔らかくて、とても温かいね」
今回の絵はクレヨンを使用しているため、線が柔らかく見えるのだろう。
「そうか?」
「そうだよ」
その言葉のほうが余程柔らかく感じた。私の絵よりも何倍も。
レイの言葉を絵にしたら、きっとこんなものじゃない温かい絵が描きあがるだろう。
「ありがとう」
「どういたしまして」
無邪気な笑顔が、酷使した目には眩しすぎる。
耐え切れず目を細めれば、心配そうに眉を寄せるレイに覗き込まれてしまった。
「お礼に何がほしい?」
「お礼? 俺、何もしてないよ?」
きょとんと目を回すレイに、フッと息を洩らした。
「遠慮してただろ? 私に気を遣って、話し掛けないようにしたりしてくれていただろ?」
時折我慢するような、淋しそうな瞳で私を見ては、自分を律していたレイを知っていた。
お預けを食らった犬が主人を見上げる時のようなその視線に、心苦しくあった。けれど、私はその努力に有り難く甘えたのだ。
これを無事終えることが出来たなら、甘やかしてあげると心の中でひっそりと思いながら。
「いらないなら別にいいんだぞ?」
「いるっ。……でも、すぐには思い付かないから少し考えてもいい?」
正直今すぐに帰りたいと思った。
日曜の昼は、当たり前のごとく人が多く、それだけで疲労感がどっしりとのしかかっているようだ。
それでも私がここにいるのは、隣に幸せそうに笑うレイがいるからなのだ。
私の一日を欲しい、と言ったレイは朝から私を連れ出した。
デートと解釈した私は、それなりにめかし込んで今、ここにいる。
ここ、というのは映画館である。
どうやらレイは、典型的なデートというものを実行しようとしているようだ。
そもそも待ち合わせからベタな展開をやらされた。わざわざ家を出てから二手に分かれ、駅前で待ち合わせ。「待った?」「イヤ、今来たところ」みたいな真面目にやれば恥ずかしさに耐えかえぬようなものをやらされたのだ。
レイは、どこでそんなシーンを知りえたのだろう。
レイの国には日本についての資料が数多くあると聞いている。その中に、恥ずかしくなるような恋愛小説が紛れ込んでいたのかもしれない。それも少しばかり昔の。
とすれば、映画の後には何がくる?
喫茶店で映画の感想を語り合うのかもしれない。
その後は……。
嫌な予感がして、背中に汗がこぼれ落ちた。
海。
砂浜で二人。
「待てよ」
追いかける彼に、逃げる彼女。追い付き、抱き締められ、夕日がのぞむ砂浜で二つの影が重なった。
「無理っ」
突如立ち上がり、発狂した私を画面に集中していた会場内の客が一斉に見上げた。驚きと非難の入り混じったその多くの目に私はおずおずと一礼してから席に着いた。
「どうしたの?」
隣りに座っているレイが驚きの表情のまま私に問いかける。
出来ることならそっとしておいて欲しかった。
この場から今すぐに抜け出したいと思うほどの赤っ恥をかいた。
妄想に明け暮れていた私は、映画の内容など入ってくるわけもなく、大恥をかいた今、その精神では冷静さを保つことも出来ずにいた。
話の内容が頭に入って来ない。
早く逃げ出したい。
それしか考えられなかった。
拷問のような二時間を漸く耐え、エンドロールが始まるや否やレイの腕をとって会場を後にした。
いつもならエンドロールを見終えてから――エンドロールのあとにワンシーンある映画もあるので――会場をあとにするというのに。
映画館から一目散に逃げ出し、同じ館内にいた人から離れた場所まで来ると、漸く足を止めた。
「ごめん。レイ」
「俺は別にいいけど、どうした? 映画の内容全然頭に入ってなかったみたいだけど」
「うん。ホントにごめん。なんかちょっと考え事しちゃったみたいだ」
「勿体ない。とても面白い映画だったのに」
「うん。DVD出たら、借りることにする」
本当に勿体ないことをした。
テレビで何度も番宣をしていた話題の映画だっただけに、悔やまれるところだ。私自身、見に行こうかと目星をつけていたものだったのだ。
「亜美。お腹すいてない?」
「空いた。もう、こうなりゃやけ食いだ」
「それはお勧めできないけど」
「レイはあんまりこの辺の店は知らないだろ? 私に任せて貰ってもいいか?」
「亜美。実は、行ってみたい店があるんだけどいいかな?」
予想外の返答に驚いてレイを見上げた。
もしや、デートってことでレイなりにリサーチして来ているのではないか。
「そうか。じゃあ、レイの行きたいところでいいぞ」
レイが選んだのは、小さいながらもオシャレなイタリアンレストランだった。
まだ出来て間もないのか、立地があまりよくないのか、昼時だけれど店はあまりこんでいない。それがあってか、給仕の対応も丁寧で好感のもてるものだった。
「やっと笑顔になったね、亜美」
パスタを頬張り漸く映画館での恥を忘れかけた頃、フォークの手を止め、私を見て幸せそうに微笑んでいるレイが嬉しそうにそう言った。