第13話
ベランダ。
それは私のお気に入りの場所だ。うちのベランダは、バーベキューをすることも出来るほどのちょっとした広さがある。
いつも腰掛ける椅子に座り、夜気を肌に感じながら、スケッチブックに線を走らせていく。
部屋からの灯りと月の光で、十分に手元は明るい。
「亜美、寒くない?」
部屋から出てきたレイが、気遣わし気に問い掛けてくる。
「慣れてるから平気だ」
椅子を私の隣に寄せて、レイが私の手元を覗き込む。
「レイは寒くないのか?」
「俺も平気」
「そうか? 風邪引くなよ?」
「大丈夫。亜美はいつも絵を描いているね。それが夢?」
そういえば、レイにもう一度会えたら夢を教えると約束していた。
とくに教えることも、聞かれることもなかったので、そのままになっていた。
「そういえば、言ってなかったな。知りたいのか?」
「知りたい。教えてくれる?」
レイを見ると、真っ直ぐな瞳が私を見据えていた。どこまでも真っ直ぐな瞳に戸惑いを感じる。
「ちょっと待ってな」
その瞳から逃げるために席を立ったわけではない。
私の夢を語るためには、見せた方が早いと思ったのだ。
再びベランダに戻ると、レイに膝掛けとそれを渡した。
「あんた平気って言ってるくせに、寒そうだから」
「ありがとう。これは?」
「それは私が初めて作ったもの。処女作ってやつだな。私の夢はそれだよ」
「読んでもいい?」
「そのために持って来たんだ」
頷いて読み始める。
読み終わるまで大して時間はかからない。
くすぐったさを感じながら、月を見ていた。
今日は満月なのか。
どうりで明るかったわけだと、納得した。
月は私とレイを見守っているかのように、そこにいた。私が見上げても動じることもなく、堂々とした姿をさらしている。その月に吸い込まれてしまいそうな気がして、身体が急に浮き上がったような気さえしてきた。
「亜美?」
「あ、ああ」
月に魅入られていた。
「読んだよ。これは絵本だよね? 亜美の夢は、絵本を作る人なの?」
私の処女作を大事そうに撫でるレイを見て嬉しくなった。
「ああ、絵本作家になるのが私の夢だ。話も絵も全て自分で手掛ける、そういう絵本作家になりたいんだ」
「どうして、と聞いてもいい?」
「好きなんだ、絵本が。ただ単純に。幼い頃は、ぬいぐるみを貰うよりも絵本を貰うほうが嬉しかった。気に入った絵本は毎日毎日読んで、ぼろぼろにしていた。恩返しといったら大袈裟だけどな、幼い頃楽しませてもらったから、今度は私が書いた絵本で子供たちに楽しんでもらいたいんだ」
いつか、毎日読んでも飽きないくらいの絵本が作れたらいい。
それこそ、ベッドで抱いて寝るほどに。過去の私がそうだったように、誰かの宝物になれるようなものをいつか。
「いい夢だね」
「私には似合わない夢だけどな」
誰かに自分の夢をここまで詳細に語ったことはない。
太一や真希は私がどれだけ絵本が好きか知っているので、話す必要もなかった。私が絵本作家を目指すのは、自然な流れだったのだから。
「いつか、これが世に広まるかもしれないんだね」
「そうなればいいな」
「もし、亜美の絵本が形になったら、俺に読ませてくれる?」
「いいぞ。でも、あんたが読んで楽しいかは分からないぞ? 基本的に子供向けだからな」
「構わない。亜美の作品を一番に読めたらいいのに」
遠慮がちにそう言った。
何をそんな申し訳なさそうなんだろう。
「別にいいぞ。最初に読ませてやるよ。でも、ちゃんと感想を聞かせてくれよ。お世辞抜きの本音をな」
「本当? ありがとう、嬉しいよ」
「何がそんな嬉しいんだ?」
「亜美の作品を一番に読めるなんて、俺が特別な存在みたいだよね。だから嬉しいんだ」
うかれているレイに、別に特別なわけではない、とは言えなかった。
ただ、感想を聞きたいから読ませるだけなのだ。他意はない。
「良かったな?」
「うん」
無邪気に頷いてみせるレイに苦笑しか向けられない。
「なあ、ずっと気になってたこと、聞いてもいいか?」
「え、なになに? 俺がどうして亜美を好きになったのか、とか? それはね――」
「イヤ、それはいいや」
それを聞いたところで恐らく私は理解できないだろう。私が赤面するような甘い幻想を並べたてられたら、砂を吐いてしまいそうだ。
「私が聞きたいのはそんなんじゃない。ずっと不思議に思ってたんだ。レイは日本に来てから一度も驚かないなって。だって日本には初めて来たんだろう? あんたの国とは大分違うだろうし、目を瞠るものや珍しいものが多くあるものだろ? なんでだ?」
そう、私はずっと気になっていたのだ。
初めて日本に来たにもかかわらず、何を見ても驚くこともないレイを。かつて知ったる国を歩くように何物にも動じない姿に首を傾げた。
車を見て、信号を見て、飛行機を見て、電車を見て、高層ビルを見て、自分たちとは違うファッションを見て驚かないのか。
「王族はね、勉強させられるんだ。俺達の世界と繋がっている異なる世界のことを。日本のことに関することも小さい頃から学んでいたから驚かずに済んだ。とはいっても、乗り物や建物の大きさや高さを見て驚いたよ。だけど、驚きを外には出さないように教育されているんだ」
「驚いちゃいけないのか?」
「父上には、何物にも動じてはならないと言われてきた。それが王族には必要だとね」
例えば外交のときに、不安や恐れを顔に出すことは出来ない。相手に弱みを見せれば、交渉もうまくいかない。そういった帝王学や外交術を幼い頃から存分に身についているのだろう。
レイは無邪気なだけの男の子ではないのだ。
その無邪気さもレイの処世術の一つなのかもしれない。考えてみれば、こんなに無邪気な16歳はいるはずもないのだ。
「あんたはそれを苦痛だと思ってたのか?」
「考えたこともない。当たり前のことだと思っていたから。俺が王位を継ぐことはないだろうけど、それでも王族としての誇りは守らなければならなかったからね」
「あんたは偉いな」
短い一言を放った私に、レイは泣きそうな瞳を向けた。
「ありがとう」
レイがなにを思っているのか私には分からなかった。