第11話
緊張するとお腹が痛くなる。昔からそうだ。
お腹がしくしく痛むのは、私が今、緊張を強いられている証拠だ。
11月に入り、朝晩はかなり冷え込むようになった。唇がふるふると震えているのは、寒さのせいか、それともやはり緊張のせいか。
「寒いのか?」
気遣わしげに掛けられた声に、申し訳なさが込み上げてくる。
「平気だ。もっと場所を選ぶべきだったな?」
「俺は平気だよ」
晩秋の夕方はもう既に真っ暗だ。曇り空だったこともあり、暗くなる速度が早い。
暗闇の中、等間隔にしつらえてある外灯だけが、足元を照らしている。
もうどのくらいこの広い公園の中を歩き回っているのだろう。この公園に足を踏み入れたときには、まだ日が沈んではいなかった。
「亜美、俺ちゃんと受け入れるからさ。どんな返事でも、聞きたい」
このまま歩き続けることに耐えかねた太一が、私を促した。
「話がある」と、太一を連れ出したのは私。私から話し始めなければならなかったのに、言い淀む私に、太一は優しく手を貸してくれた。恐らく話の内容も、そのあとに訪れる何かも知っているというのに。
「長いこと付き合わせてごめん。ちゃんと話さないとな。返事を、しようと思う。太一の気持ちは、びっくりしたけど、すごく嬉しかったぞ。だけど、太一も知ってるだろ? 私は自分の夢を追いかけることで精一杯なんだ。今は、恋愛関係は私には必要ない」
「もし、お前がその夢を見続けながら、誰かを好きになってくれたらいいって思うよ。お前は恋愛を否定するけど、好きな相手がいることでプラスになるってこともあるんだからな。……それが俺だったらなおのこと良かったんだけどな」
「プラスにって太一は言うけど、マイナスにだってなるだろ?」
私がこれまで見てきた恋する女の子たちは、確かに楽しそうに嬉しそうにしていたが、それと同じくらい苦しそうに悲しそうにしていた。楽しいときにも悲しいときにも、周りが見えなくなっている彼女たちは、私から見れば普通の状態ではなかった。地に足がついていないように、ふわふわとしていた。
私は、そんな煩わしい状況にはなりたくない。
「亜美の夢に、そういう人生経験みたいなものも必要なんじゃないか? 薄っぺらい人間が何を作っても、人の心を動かすようなものは出来ないぞ。別に俺はそれを強制しているわけじゃないんだ。ただ、お前にそういう感情が芽生えたとき、自分のそれを無慈悲に否定することだけはするな。その相手がどんなやつでも」
「そういう感情を私がいつか抱くことになるのかは分からないけど、そうなったときは、否定しないように努力する」
努力か、そう言って太一は笑った。ちょうど外灯と外灯の間の暗い場所で、太一がどんな顔で笑っていたのかを窺い知ることは出来なかった。
「お前はまだ何も知らないからな。人を好きになるとどんな気持ちになるのか、自分がどんな風になるのか。だから、俺はまだこの気持ちを消さない。お前に特別が現れるまでな」
いつかそんな特別が現れるのかは、私には途方も無いことのように思えた。
誰かに恋い焦がれる自分を上手く想像することが出来ない。
「婆さんになるまで出来なかったらどうすんだ?」
「その時は俺も生涯独身を貫いて、お前の傍で静かに暮らすさ」
「バカか。そんなことになったら、私が珠美さんに恨まれるぞ」
自分のせいで誰かの人生をふいにさせるのだけはしたくない。
だが、卑怯な私は、大事な存在である太一が離れてしまわないことを望んでいる。だから、強くその申し出を突っぱねられないのだ。
「母さんがそんなことでお前を恨むかよ」
恨まないだろう。珠美さんなら、私の傍に一生ついてあげなさい、なんて言ってしまうかもしれない。
「恨まないかもしれないな。でも、孫が出来なかったら泣くんじゃないか?」
「俺に子供ができなかったとしても、弥一と佐一が嫁さんもらえば大丈夫だろ」
弥一と佐一というのは太一の弟だ。
確かにあの二人は健全な恋愛をして、結婚、出産とスムーズに人生を全うするだろう。
私に太一を止めるすべはないのだろうか。
「他の人、好きになった方がいいんじゃないか?」
「俺もそう思うけどな。今のところ、お前以外を好きになる予定はない。ただ、別にお前だけに固執してるわけじゃないぞ。もし、お前以上に好きになれる女がいれば、遠慮なくそっちに行く。だから、お前はそんなに深く考えなくていいんだ」
太一はモテる。
小学校の頃はそうでもなかったが、中学に入ってぐんと背が伸び始めてから女の子から騒がれるようになった。
これからも恐らく太一の周りには女の子が寄ってくるだろう。その中で、太一が好きになる子が出てくるかもしれない。そうでなくても、身近に真希がいる。あまりに近くに居過ぎて気付かないだけで、真希を好きになるときが来るかもしれない。
これらは全て私の希望的観測に過ぎないけれど、ないわけではない。
あまり深く思い詰めなくてもいいのかもしれない。
「分かった。あんたの勝手にすればいい」
「ああ、そうする」
「あぁ、もう寒いっ。そろそろ帰ろうぜ。今日の夕飯どうしようかな。これから作るの面倒だな」
「だったら、うちに来ればいいだろ。母さんも弥一らも喜ぶぞ」
「そうか? でも、レイとワットのご飯も作らないといけないしな。今日は遠慮しとくよ。鍋にでもすれば手間もかからない」
レイとワットという雛がピーピーと餌を求めて鳴いている姿を想像して吹き出した。
「どうした?」
「イヤ、なんでもない」
もう真っ暗だ。
家にいるレイとワットが腹を空かせてまっているかもしれない。
家に帰ると、真っ暗なことが当たり前だった私にとって、灯りのついた家はとても温かなものだった。そして、無邪気な笑顔で迎えてくれるレイをその時ばかりは愛おしいと思ってしまうのだ。
私は心なしか歩く速度を速めた。レイの笑顔が早く見たくなったのだ。無性に。
そんな私をこっそりと窺い、切ない苦笑を浮かべていた太一に気付くはずもなかった。