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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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落涙と爽々 【短編】

幸運の行方

作者: 高槻全壱
掲載日:2026/07/21

「そっちは、やめといた方がいいですよ」


 アスカはほんの親切心のつもりで、目の前を歩く老夫婦に声を掛けた。

 案の定、振り返った老人の顔には露骨な不快感が浮かんでいた。


「なんだあんた。妙な言いがかりはよしてくれ」


 怪訝そうに眉をひそめ、老婆の肩を抱き寄せるようにして、老夫婦はアスカが指差したのとは逆の方向へと足早に去っていった。

 気味悪がられるのは、いつものことだった。慣れてはいる。それでも、胸の奥に冷たい澱のようなものが溜まっていくのは防げなかった。


 彼女は幼い頃から、『何か悪いことが起こる』方角を、肌に突き刺さる気配として感知することができた。


 最初は小さな虫の知らせのようなものだった。だが、年齢を重ねるにつれて、その能力は凶悪なまでの具体性を帯びて彼女を苛むようになる。


 大きなスクランブル交差点の直下、戦時中の不発弾が爆発したとき。犠牲者は150人だった。

 楓山が大噴火を起こしたとき。遠く離れた自宅にいながら、アスカは地球の悲鳴を聞いていた。犠牲者は約365人。

 海外を襲った巨大ハリケーン〈ソドム〉の際は、なんと約1560人──。


 天災や大事故の規模が大きくなればなるほど、天文学的に膨れ上がる犠牲者の数字。そしてその現場が近ければ近いほど、アスカを襲う感覚は果てしない頭痛や吐き気となって膨れ上がり、とても立っていられなくなる。

 ただ現場に近づかなければいい。はじめはそんなささやかな願いだったものが、いつしか「犠牲者を減らしたい」という切実な願望へと変わっていった。だが、現実は残酷だった。


 見ず知らずの他人に「そっちは危ない」と告げたところで、返ってくるのは冷笑か、あるいは変質者を見る目だけ。そのたびに、救えなかった人々の名前も知らない顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。


「どうして、誰も私の話を信じてくれないの……」


 妄言を吐く怪しい女。それがこの世界におけるアスカの正体だった。そんな彼女を信じてくれる者など、どこにもいないのだと、絶望に打ちひしがれる毎日。

 それでも彼女の脳裏には、容赦なく次の破滅を告げる数字が鳴り響く。


 ある日、南東の方角で大災害が発生した。犠牲者は約3290人。数字は確実にインフレを起こしていた。

「このまま行ったら、一体どうなるの?」

 その最悪な予感は、すぐに最悪な形で的中することになる。

 次に起きた重大航空機インシデント──着陸に失敗した旅客機が、避難の遅れた大型国際空港のロビーに突っ込んだ。死傷者合わせて1万6000人という、目眩のするような甚大な被害。


「ああ、なんてことなの……。ものすごい数の人たちが、私が伝えることができないばっかりに死んでしまった……」


 アスカの感知は、もう小さな事故には牙を向かない。より巨大な、よりおびただしい死の群れだけを指し示す羅針盤へと変貌していた。

 膨れ上がる数字に比例して、彼女の精神は摩耗し、自暴自棄になった生活は荒れ果てていった。


 自死すら考えるほど憔悴しきったアスカを、この現世に繋ぎ止めてくれていたのは、同棲相手のマキタだけだった。


「大丈夫だよ、アスカ。俺がずっとそばにいるから」


 大きな手で優しく抱きしめられるたび、アスカは「こんな私でも、まだ生きていていいんだ」と思えた。

 マキタはアスカを深く愛していた。彼女がどんなに病める時も、心を閉ざす時も、決して見捨てずに隣にいた。家事も当たり前のように平等に負担し、いつか結婚して幸せな家庭を築こうと、心から願ってくれる誠実な恋人だった。

 出会いは、アスカが街で悪漢に絡まれていたところを、マキタが命がけで助けに入ってくれたことだった。あの瞬間から、二人の間には固く結ばれた絆があった。


 しかし、翌月。マキタに地方への出張仕事が入ってしまう。

「行かないで!」

 アスカは激しく懇願した。理屈ではない、胸を掻きむしるような嫌な予感がしていた。別れる寸前まで激しい喧嘩を繰り返したが、彼の仕事である以上、こればかりはどうにもならなかった。容認せざるを得なかった。


「一ヶ月で帰るよ。何かあったらすぐに電話するから。大丈夫、安心して」

「……わかったわ。行ってらっしゃい」


 渋々送り出したものの、胸のざわつきは収まらない。アスカは気がつけば、マキタの乗った電車の後を追っていた。

 離れた場所から同じ地下鉄に滑り込み、巨大なターミナル駅へ。そこから、北を目指す高速鉄道へと乗り換える。

 彼を引き返させるための嘘を必死に頭のなかで組み立てるが、マキタが彼女の体調を心配こそすれ、その予知能力自体は信じていないことをアスカは痛いほど知っていた。だから、どんな嘘も無駄に終わるだろう。


「何かいい方法はないかしら……」


 座席にもたれかかり、頭をフル回転させる。

 その瞬間だった。


 キーン、と鼓膜を鋭く引き裂くような耳鳴りが響いた。

 同時に、これまでの人生で一度も経験したことのない、凄まじい頭痛と吐き気がアスカを襲う。脳を直接ナイフで抉られるかのような激痛。


「き、きた……ちょうど、向かっている方角……!」


 なりふり構っていられる状態ではなかった。かつてない身体の変調が、彼女の許容量─リミットを完全に超えた。

 呼吸が浅くなり、視界の端からじわじわと光が失われていく。世界が急速に暗転し、やがて、自分の胸の鼓動さえ聞こえなくなった。

 アスカは泥のように、いや、まるで冷たい石の彫刻にでもなっていくかのように、深く、眠るように気を失った。


 次に目が覚めたとき。


 アスカは、自分がまだ高速鉄道のフカフカとしたシートに座っていることに気づいた。

 だが、何かが決定的に異常だった。


 自分以外の存在が綺麗さっぱり消え失せていたのだ。

 それだけではない。車窓の向こう流れていた景色はなく、代わりに鬱蒼と生い茂る、見たこともないほど濃い緑の草むらが辺りにひしめいていた。


 草むらのなかに、場違いな電車の座席がポツンと置かれている。アスカはまるで、世界そのものから取り残されてしまったかのような錯覚に陥った。


「ここは……どこなの……?」


 誰も答える者はいない。深い恐怖と、到底理解できない現状に、頭の中は混乱の極致に陥った。

「そうだ、ケータイ……!」

 震える手でスマートフォンを取り出し、ロックを解除する。しかし、画面の隅にあるアンテナマークは一本も立っていない。完全に圏外。やはり、どこか途方もない山奥に放り出されたことだけが知れた。


 シートベルトを外し、よろよろと立ち上がる。方角もわからないまま、行く手を阻む鋭い茂みを掻き分けて進んだ。どれほど進めばこの緑の地獄から抜け出せるのか、絶望が足元から這い上がってきた頃、唐突に視界が開けた。


「あれは……」


 アスカは息を呑んだ。

 そこにあったのは、凄惨な脱線事故の現場だった。アスカとマキタが乗っていたはずの高速鉄道の車両が、飴細工のようにぐしゃぐしゃに大破している。至る所から黒い煙が天を突くように噴き上がり、遠くからかすかな悲鳴が響いていた。


「マキタ!!」


 アスカは全速力で走った。どういうわけか、彼女は事故の衝撃の途中で奇跡的に投げ出され、体力を激しく消耗しているものの、擦り傷一つない無傷の体だった。

「どこにいるの!?」

 マキタが乗っていたはずの3番車両を探す。だが、目に飛び込んでくるのは、人間の腕や脚、そして頭部だったと思われる、黒焦げになった無残な肉塊の数々。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。恐怖に全身の血が凍りつきそうになりながらも、アスカはマキタを探すことを諦めきれなかった。


 やがて、サイレンの音とともに救助隊や自衛隊が現場に到着し、懸命な人命救助が始まった。

「あなた、怪我は!? 歩けるなら、あちらの仮設休憩所で休んでください!」

 他の乗客たちに比べれば奇跡としか言いようのない軽傷──というか無傷──だった彼女は、後回しにされる形で、ブルーシートで作られた休憩所へと案内された。


 手渡された紙コップの中の、温かい緑茶をじっと覗き込みながら、アスカは思考を巡らせた。

(ここは、深い山の中……。私のいつもの『計算』なら、今回は2万人以上の犠牲者が出るはずの規模だった。でも、この鉄道の乗客を合わせても、そんな数になるわけがない。そうか……私の感知は正しかったけれど、頭の中に浮かぶ『数字』の方は嘘だったんだ。ただの偶然だったんだ……)

 そうやって無理に理屈をこねることで、彼女は現実逃避をしていた。だからこそ、周囲の状況が「さらに異常なこと」に変わっている事実に気づくのが、人一倍遅れてしまった。


「おい! 俺はすぐに帰るぞ!」

「邪魔だ、どけ! 車を出せ!」

「もう終わりだ……すべて終わりなんだよ!!」


 突如として、休憩所の外が騒がしくなった。

 自衛隊の隊員、救急隊の救命士、警察官たち──本来なら命を救うためにここにいるはずの男たちが、血相を変えて怒鳴り合い、パニックに陥っている。アスカには理解できなかった。なぜ救助に来たプロフェッショナルたちが、あれほど慌ててこの場所を放棄しようとしているのか。山奥に取り残された彼女には、世界の現状を知る術など何一つなかった。

 ただ、その場を支配する雰囲気が、これまでのどんな事故現場よりも異様で、致命的なものであることだけは肌で理解できた。


「すみません! 事故現場の救助はどうなっているのですか!?」

 アスカは目の前を狂ったように走り去ろうとする、迷彩服を着た自衛隊員の男を呼び止め、すがるように問い詰めた。

「うるさい! それどころじゃないんだ!」

 男はアスカを激しく怒鳴りつけ、突き放すようにしてまた走り出そうとした。


 だが、次の瞬間。アスカは自分の目を疑う光景を目撃した。


 彼女を怒鳴りつけた男が、急に不自然に立ち止まった。次の瞬間、その身体がふわリと地面を離れ、目に見えない力に引かれるようにして、まっすぐ上空へと高速で吸い上げられていったのだ。


「えっ……???」


 あまりにも非日常的な光景に、アスカは息をすることさえ忘れた。男が吸い込まれていった夜空を見上げるが、そこには何も見えなかった。巨大な影も、機械の光もない。ただ、静まり返った田舎の山奥に、満天の星々が冷たく輝いているだけだった。


 呆然としたまま、どれほどの時間が過ぎただろうか。

 アスカがようやく我に返った頃には、あたりは不気味なほどの静寂に包まれていた。悲鳴も、怒号も、サイレンの音すらも消えている。生き物の気配が、何一つ感じられない。


 アスカは震えながら、現場に乗り捨てられていた救急車に近づいた。ドアを開けると、運転席に鍵が刺さったままになっているのを見つける。

「よかった……」

 もう、マキタの安否を気遣う余裕すら、その時の彼女の脳内からは消え去っていた。極限の恐怖が、彼女の心を麻痺させていた。アスカはむせび泣きながら救急車のエンジンをかけ、カーナビの地図だけを頼りに、人里を目指して車を走らせた。


 長い山道を抜けると、視界の先に入り組んだ街の明かりが見えてきた。

 地方の県庁所在地。人口は50万人を超える、この地方で一番大きな都市だ。


(あそこに行けば、人がいる。助けてもらえる)

 煌々と灯る街の光を見て、アスカは狂いそうな胸をなだめ、ホッと胸をなでおろした。人が作った温かい光。そこに帰れるという安心感が、彼女の身体を満たすはずだった。


 だが、救急車が中心街へと滑り込んだ瞬間、アスカの淡い期待は木端微塵に打ち砕かれた。


 街に入る幹線道路、ネオンが輝く中心街、昼間なら大勢の人で賑わうはずの繁華街──どこまで走っても、どこを曲がっても、人っこひとり存在しなかったのだ。


 信号機は規則正しく赤と緑を繰り返し、街頭は夜を明るく照らし、コンビニや商店の明かりもついたまま。自動ドアが開いたままアイドリングを続ける自家用車や、路頭に放置された買い物カート。人々の生活の痕跡だけが、まるで1秒前までそこに誰かがいたかのように生々しく残されている。

 それなのに、50万人の人間だけが、綺麗にこの世界から蒸発していた。


 雑踏の消えた無人の街を支配するのは、自動販売機の駆動音や、信号機の電子音といった、冷たい機械の音だけ。アスカは気が狂いそうだった。驚きや恐怖を言葉にすることすら無意味だと言わんばかりに、完全に無言のまま、ただ目を見開いてフロントガラスの向こうの現実を直視し続けた。


 商店街の入り口に車を停め、ふらふらと外に出る。どこの店のシャッターも降りていない。ただ、人がいない。


「─────は、────です」


 一瞬、アスカの耳が、静寂の隙間からかすかな「人の声」を捉えた。


「誰か、いますか!!!」


 アスカは狂ったように叫んだ。私以外にも、まだ誰かが生きている。彼女の心は一瞬にして希望と期待で満ち溢れた。声のする方へと、商店街のアーケードを全力で駆ける。


 だが、それも一瞬の狂おしい幻に過ぎなかった。

 声の主は、電気屋の店頭に並んだディスプレイから流れる、テレビのニュースキャスターの音声だった。


 失意に打ちひしがれながらも、アスカはテレビの画面に食い入るようにしがみついた。電波の向こうには、まだ人がいるかもしれない。何が起きたのか、手がかりが掴めるかもしれない。彼女は近くにあったリモコンを掴んで音量を最大に上げた。


『──皆さん、世界の終焉です。我々にできることは、もう何もありません──』


 画面の中のキャスターは、涙を流しながらそう告げていた。

 だが、アスカがどれだけ目を凝らしても、そのニュース番組は同じ映像、同じ言葉をただ延々と繰り返しているだけのループ再生だった。彼女が巻き込まれたあの壮絶な鉄道事故のことなど、ニュースは微塵も触れていなかった。ただ冷酷に、「世界の終わり」を告げるだけ。


──ピロン。


 静寂を切り裂いて、アスカのポケットの中で気の抜けた着信音が鳴り響いた。

 心臓が跳ね上がる。スマートフォンを引ったくるように取り出す。画面には「留守番電話が1件録音されました」という通知。電波の表示はやはり圏外のままだ。街に降りた一瞬だけ、奇跡的に微弱な電波を拾ったのだろう。


 アスカは震える指で着信履歴をタップし、マキタの番号へすぐに掛け直した。

 しかし、耳に届いたのは

『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか──』

 という、無慈悲な機械音声だけだった。マキタに彼女の電話が通じることは、二度となかった。


「そうだ……留守電、留守電を聞かなきゃ!」


 アスカは狂ったように画面を操作し、残された録音データを再生した。

 スピーカーから、ノイズ混じりの、しかし紛れもないマキタの優しい声が流れ出す。


『アスカ! 君の言っていたことは、本当だったんだね! でも聞いて、落ち着いて聞いてくれ。今、僕は大きな宇宙船の中にいるんだ。助けられたんだよ! 他の人たちもみんな一緒だ。なんだったら、世界中の人たちが彼らに救い上げられたんだ。……どうやら、僕たちの地球はもう寿命を迎えるらしい。限界なんだって。それで、彼らが全人類を救うために来てくれたんだ。アスカ、君は今どこにいるんだい? 俺は──』


 そこで、プツリと録音は途切れていた。


 テレビの電子音だけが響く無人の街で、アスカは立ち尽くしていた。

 マキタの声が残した言葉が、彼女の脳内で冷酷なパズルピースとなって、一つ、また一つと繋がり合っていく。


 どんどん規模の大きくなっていった、事件や事故、天災への予知。

 150人、365人、1560人、3290人、1万6000人──。

 あの数字のインフレは、災害の規模ではなく、これから地球に訪れる「終焉」へのカウントダウンだったのだ。

 そして、今回の『2万人以上』という彼女の予測。それは鉄道事故の犠牲者数などではなく、彼女の脳が受け止めきれなかった「約80億人」という全人類の数字の、ほんの端数、あるいはバグに過ぎなかった。


 アスカは、理解してしまった。

 自分だけが、この地球に取り残されてしまったのだという事実を。


 当初、地球を侵略しにきたと思われた宇宙人たちは、この星が破滅を迎える前に、すべての知的生命体を巨大な母船へと吸い上げ、救済していたのだ。彼らは誰も殺してなどいなかった。


 それなのに、なぜ自分だけがここにいるのか。


 アスカの超常的な『危機回避能力』それは、破滅という最大の災厄──宇宙人の地球規模のスキャンを本能的に察知した瞬間、彼女を救うために起動したのだ。あの鉄道事故の混沌の最中、彼女の能力は生命活動を極限まで縮小させ、呼吸を止め、心臓の鼓動すら消し去って、彼女の存在を『完全なステルス状態』にしてしまった。

 宇宙人の高度な生命波動検知器すらも、アスカを人間ではなく、ただの冷たい「石や草」として誤認し、通り過ぎてしまった。


 アスカの能力は、あまりにも優秀すぎたのだ。


 その頃、遥か上空の宇宙船内では、一人の男が群衆の中で狂ったように叫び続けていた。

「アスカ!! どこにいるんだアスカ!! くそっ、もう携帯も繋がらない……!」

 マキタは、アスカの能力を思い出し、「あいつのことだ、きっと安全な場所に避難して、先に救われているはずだ」と信じて彼女を探していた。

 だが、その切実な叫びも、救い上げられた80億もの大衆の雑音にかき消され、宇宙人の巨大なシステムも、たった一人の取りこぼしに気づくほど心の余裕はなかった。彼らは、80億という奇跡の救済を成し遂げた達成感の中にいたのだから。


 アスカは、生き延びた。

 地球上で、ただ一人のホモ・サピエンスとして。


 悲劇を回避するための手段であり、生き延びるための最大の「幸運」であったはずの己の能力を、アスカは心の底から呪った。この能力さえなければ、今頃はマキタの隣で、宇宙船の光の中で、新しい星へと向かっていたはずなのに。


 静まり返った無人の商店街。

 アスカの目から、一筋の静かな涙がこぼれ落ちた。

 マキタが生きてくれている。そのことだけが、彼女の絶望の淵でもたらされた唯一の救いだった。


 アスカはマキタが生き延びてくれたという事実に、微かな、しかしひどく切ない微笑みを浮かべた。彼の愛が確かにあったのだと確信した。

 そして、近くの魚屋のガラスケースの中に置かれていた鋭利な刃物を拾い上げると、その冷たい銀色の刃を、そっと自分の首筋に当てた。


 頭痛も、耳鳴りも、もう二度と彼女を苛むことはなかった。彼女に本当の幸福が訪れたのだった。

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