表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/23

第4話 旧街道の赤い線

旧街道をしばらく進んだころ。


草むらが揺れた。


低い唸り声が聞こえる。


俺はリセの前に立った。


道の脇から、小型の迷宮狼が三匹、姿を現した。

普通の狼より体が薄く、毛の隙間に青白い迷宮光が走っている。


グランゼルから漏れた個体か。

旧街道の裂け目から湧いたものか。


どちらにせよ、今のリセには走れない。


「戦えますか」


リセが聞いた。


「戦えない」


「武器は?」


「刷毛」


「それは武器ではありません」


「知ってる」


狼が一匹、低く身を沈めた。


来る。


俺は塗料壺を開けた。


赤い帰還路用の塗料。

封鎖線にも応急で使える、古い調合だ。


「何をするんですか」


「道を見る」


「敵を見てください」


「敵を倒せないなら、道を見るしかない」


狼が跳んだ。


俺は横へ転がる。

牙が袖を裂いた。


石畳に肩を打つ。

痛い。


だが、足元が見えた。


《警告印:薄化》

《封鎖線:断線》

《魔物誘引:微弱》


古い印が、石畳の継ぎ目に残っている。


この街道は、昔は補修されていた。

迷宮から漏れた魔物を街道の外へ逸らすため、封鎖線と警告印が引かれていたのだろう。


だが、今は劣化している。


封鎖線は切れ、警告印は薄れ、誘引だけが半端に残っている。

そのせいで、魔物が街道へ寄ってきている。


「最悪だな」


「何が見えているんですか」


「古い線が腐ってる」


「また線ですか」


「線だ」


俺は赤い塗料を刷毛に含ませた。


狼が二匹目を跳ばす。


俺はリセを抱えるようにして、石垣の裏へ押し込んだ。

爪が俺の背をかすめる。


「ノルさん!」


「出るな」


痛みを無視して、石畳に刷毛を置く。


切れた封鎖線の端。

そこに赤を乗せる。


《封鎖線:断線》


赤が染みる。


《封鎖線:仮接続》


狼の動きが、少しだけ鈍った。


鼻を鳴らし、こちらを見る。

だが、さっきのように真っ直ぐ跳んでこない。


迷っている。


「効いてる……?」


リセが呟いた。


「倒してはいない」


「でも、死がこちらを少し見失ったように見えました」


「魔物が線を嫌がっただけだ」


「あなたには、全部そう見えるんですね」


「俺にはそれしか見えない」


俺はもう一本、赤を引いた。


誘引の残りを塞ぐ。

警告印の薄い場所に、仮の目印を足す。


正しい補修ではない。

下地処理もしていない。

雨が降れば流れるし、強い魔物には破られる。


だが、今だけなら。


狼たちが一斉に足を止めた。


鼻を鳴らし、耳を伏せる。

そして、俺たちから視線を外した。


一匹。

二匹。

三匹。


草むらの奥へ、すっと消えていく。


リセは、しばらく声を出さなかった。


「……倒していないのに、生き残りました」


「そういうこともある」


「冒険者なら、倒して素材にするところです」


「俺は冒険者じゃない」


「元補修員、でしたね」


「ああ」


刷毛を握り直した時、血を混ぜた指先だけが、妙に冷たかった。

痛みではない。

塗り終えた壁のように、感覚が一枚、乾いていた。


俺は立ち上がろうとして、少しふらついた。


背中が熱い。

袖も破れている。

血はそれほど出ていないが、無傷ではない。


リセが、警戒を残したまま手を伸ばした。


「傷を見せてください」


「治せるのか」


「少しなら」


「自分に使え」


「私の方は、たぶん普通の治癒では追いつきません」


リセは俺の背を見て、眉を寄せた。


「浅いです。でも、放置はよくありません」


彼女の手から、淡い白い光が滲む。


治癒術。

聖女らしい力だ。


だが、その光はすぐに揺らいだ。


リセが顔をしかめる。


「無理するな」


「これくらいはできます」


「塗膜に響く」


「また塗膜ですか」


「命に関わる」


「私の命です」


「なら余計にだ」


リセはしばらく俺を睨んだ。


そして、諦めたように手を下ろした。


「あなたは、人の言うことを聞かない人ですね」


「乾く前に触るなと言われても、触る奴は多い」


「……それは返事ですか」


「似たようなものだ」


リセは少しだけ息を漏らした。


笑ったのかもしれない。

疲れただけかもしれない。


俺は旧街道に引いた赤い応急線を見た。


乾きは鈍い。

下地も荒い。

持って一晩だろう。


それでも、次にここを通る誰かが、魔物に寄せられる危険は少し減る。


「行けるか」


「……はい」


リセは立ち上がった。


今度は、さっきより少しだけ早く、俺の肩へ手を置いた。


信じたわけではない。

だが、逃げるための足場としては、俺の線を見ていた。


今は、それで足りる。


俺たちは、ラストールへ向かって歩き出した。


その頃。


グランゼル迷宮の東側帰還路では、新人三人が同じ通路を三度歩いていた。


「おかしい。出口に向かってたはずだ」


「壁の矢印、さっきから見えたり消えたりしてるぞ」


「ザックさん、これ……」


ザックは舌打ちした。


「騒ぐな。線なんぞなくても戻れる」


そう言いながら、ザックの足も止まっていた。


通路の風向きが違う。


右から吹いていたはずの湿った風が、今は正面から来ている。

壁の赤い帰還路印は、半分剥がれ、濡れたように黒ずんでいた。


いつもなら、ここには乾いた赤い線が残っていた。

いつもなら、ノルが乾くまで見ていた。


資源調達班の女、ヘルガが壁に触れる。


「ここ、ノルさんの補修区域じゃなかった?」


「だったらなんだ」


「いつもは、こんなに薄くなってない」


「だから?」


「だから、まずいんじゃないの」


ザックは答えなかった。


奥から、羽音が聞こえた。


いつもなら、羽虫は封鎖線を越えなかった。


一匹や二匹ではない。

湿った暗がりの向こうで、小さな羽がいくつも鳴っている。


新人の一人が震える声を出した。


「封鎖線の向こうから、何か来てます」


ザックは斧を握り直した。


「来るなら斬ればいい」


その足元で、踏み荒らされた赤い線が、音もなく剥がれた。


グランゼルの事故は、まだ始まったばかりだった。


旧街道を進みながら、俺は一度だけ振り返った。


グランゼルの街明かりが、遠くに見える。


帰れる線は、あそこに残してきた。

だが、今の俺には、戻る管理証がない。


前を見る。


ラストール。

死にかけた迷宮街。


そこに聖灰があるかは分からない。

リセの《死亡■■》が、そこまで持つかも分からない。


だが、白い塗膜はまだ完全には剥がれていない。


なら、歩ける。


リセが胸元を押さえ、小さく息を吸った。


「ノルさん」


「なんだ」


「私は、まだあなたを信用していません」


「分かってる」


「でも」


リセは、割れた白い文字を見つめた。


「今は、あなたの線を信じます」


俺は少しだけ考えて、頷いた。


「今は、それで足りる」


信用ではなく、線。


俺には、その方が分かりやすかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ