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第3話 帰れる線は、まだ残っている

グランゼル迷宮を出る時、門番は俺を止めた。


「ノルさん。管理証は?」


「ない」


「え?」


「今日でクビになった」


門番は、俺の顔と、俺の肩に寄りかかるリセを交互に見た。


リセは、泥と血で汚れた聖衣を着ている。

血の気が抜け、唇だけが薄く震えていた。

目だけが、妙に静かだった。


俺の肩を借りながらも、リセは俺に体を預けきっていない。

片手で胸元を押さえ、もう片方の手は、いつでも俺から離れられるように軽く浮いている。


俺でもそうする。


死にかけたところを、得体の知れない塗料で生かされた。

助かったからといって、すぐ体重を預けられるものじゃない。


「その人は?」


門番が聞いた。


「怪我人だ」


「神殿の方ですよね。報告を――」


「確認している時間はない」


俺は言った。


リセは何も言わなかった。


助けを求めない。

言い訳もしない。

ただ、胸元のひびを見ている。


助かる道を探していない。

もう一度、自分の死が戻ってくるのを、静かに待っている。


そういう目だった。


それが、余計にまずかった。


俺には見える。


リセの胸元の少し上。

空中に貼りついた黒い文字。


《死亡■■》


白く塗った部分に、細いヒビが入っている。

その下から、黒が滲み出していた。


《塗膜残存:六十九時間未満》


さっきより減っている。


「通してくれ」


「でも、管理証がないと、外へ出すにも確認が――」


「俺はもう管理部の人間じゃない」


自分で言って、胸の奥が少し重くなった。


だが、同時に分かったこともある。


「だから、命令を待つ理由もない」


門番は唇を結んだ。


長い沈黙のあと、横へ退いた。


「……お疲れさまでした、ノルさん」


「ああ」


それだけ返して、俺は門を出た。


背後で、グランゼル迷宮の鉄門が重い音を立てて閉まる。


二十年通った門だった。


毎朝、まだ眠い街を抜け、あの門をくぐった。

壁の湿り具合を見た。

床の欠けを見た。

誰にも見られない線を引き直した。


今日から、俺はあそこに入れない。


リセが小さく言った。


「悔しくないんですか」


「何が」


「あんなふうに追い出されて」


街は夕方の色に沈んでいた。


酒場の前では、資源調達班の連中が笑っている。

魔石袋を抱えた若い冒険者が、得意げに店へ入っていく。

ザックたちも、今ごろ換金所にいるだろう。


魔石を並べ、酒を飲み、自分たちの成果を語る。


踏み荒らした封鎖線のことなど、もう忘れているはずだ。


「悔しいより、気になる」


「何がですか」


「三叉路の封鎖線。乾く前に踏まれた」


リセは黙った。


少しして、俺を見る。


「あなたは、自分の扱いより、線の心配をするんですね」


「線が切れると、誰かが迷う」


「迷うだけですか」


「人が戻らない」


俺は、街へ続く石畳を見た。


「魔石袋だけ戻ることはある」


「……」


「だから困る」


「あなたを追い出した人たちでも?」


「迷うのは困る」


「なぜ」


「帰れなくなるからだ」


リセは眉を寄せた。


納得した顔ではない。

理解できないものを見る目だった。


「……あなたは、善人なんですか」


「知らん」


「自分で分からないんですか」


「俺は補修員だった。壊れているものを直す。薄くなった線を塗り直す。それだけだ」


「もう、補修員ではないでしょう」


「そうだな」


言われてから、少しだけ胸の奥が重くなった。


元、補修員。


それが今の俺だ。


リセは俺の肩から少し距離を取ろうとした。

足元がふらつき、すぐに壁に手をつく。


「無理するな」


「無理はしています」


「なら、肩を貸す」


「信用したわけではありません」


「分かってる」


「あなたが何をしたのか、私はまだ分かっていません。助けられたのは事実です。でも……」


リセは胸元を押さえた。


「私は、あれを治癒とは思えません」


「俺も治した覚えはない」


「祝福でも、解呪でもありません」


「塗っただけだ」


「その“だけ”が、おかしいんです」


リセの声に、わずかに震えが混じる。


「私は死を読む役目でした。人の死期や、死に近づく印を見ることができました。でも、死に色を塗る人間なんて見たことがない」


「俺も初めてやった」


「初めてで、人の死に触ったんですか」


「浮いていたからな」


「その言い方、やめてください」


リセは顔をしかめた。


「私にとっては、私の死です」


「すまない」


謝ると、リセは少し驚いた顔をした。


そして、気まずそうに目を伏せる。


「……いえ。助けてもらったのは、事実です」


「礼はいらない」


「礼を言うかどうかは、私が決めます」


「そうか」


「でも、まだ言いません」


「分かった」


リセはまた、俺を横目で見た。


「怒らないんですね」


「怒る理由がない」


「変な人です」


「線を見る癖が抜けないだけだ」


リセは返事に迷ったようだった。

それから、小さく息を吐いた。


「それを、変と言うんです」


街を抜けると、旧街道に出た。


ラストールへ続く道だ。


昔は商人や冒険者がよく通ったらしい。

今は石畳の継ぎ目に草が伸び、道端の石標も半分苔に沈んでいる。


リセの歩き方が、だんだん遅くなった。


「休むか」


「休んだら、間に合いません」


「倒れても間に合わない」


俺は道端の崩れた石垣を見つけ、そこへリセを座らせた。


リセは抵抗しようとしたが、息が続かず、そのまま腰を下ろした。


胸元の《死亡■■》に、またヒビが入る。


ピキッ。


小さな音なのに、やけに耳に残った。


リセの肩が震える。


「見えていますか」


「ああ」


「私にも、見えています」


「痛むのか」


「痛いというより……近づいてくる感じです」


「死が?」


リセは頷いた。


「さっきまで、私のすぐ上にありました。あなたが塗ってから、少し遠ざかりました。でも、また近づいています」


「原因は分かるか」


「分かりません」


リセははっきり言った。


「分かるのは、死が戻ってきていることだけです。どうして戻るのか、どうすれば完全に止まるのか、私には分かりません」


「聖灰があれば、何とかなる可能性は?」


「可能性はあります」


「断言はしないんだな」


「できません」


リセは苦い顔をした。


「私は神殿で、死に近い印を読む訓練を受けました。けれど、死を塗り替える訓練なんて受けていません」


「それはそうだろうな」


「だから、あなたが私に説明を求めても、私は困ります」


「求めてない」


「さっきから、原因や材料を聞いています」


「分かる範囲でいい」


リセは少しだけ黙った。


「……あなたは、本当に私を利用する気がないんですか」


「利用?」


「死を読む聖女は、役に立ちます」


リセの目が、暗くなる。


「誰が死に近いか分かる。どの道が危ないか分かる。誰を前に出せば死ぬかも、場合によっては分かる。だから、欲しがる人はいます」


「俺は欲しくない」


「即答ですね」


「死にかけている人間を欲しがる余裕はない」


「では、なぜ助けたんですか」


「倒れていたからだ」


「それだけで?」


「それだけだ」


リセは、今度こそ本当に言葉を失った。


信じたわけではない。

疑いが消えたわけでもない。


ただ、俺の答えをどう扱えばいいのか、決めかねているようだった。


しばらくして、リセは何も言わないまま立ち上がった。


俺は肩を貸す。

リセは迷ってから、その肩に手を置いた。


信用ではない。

安心でもない。


ただ、今はこの肩を借りるしかないと認めた。

それくらいの距離だった。


それで十分だ。


俺たちは、ラストールへ向かって歩き出した。

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