第22話 生還率五十七%
マノンが台帳を開いた。
支部の空気は、いつもより浅く息をしている。
閉じていた店の戸が、半分だけ開いていた。
鍋の匂いが通りに出ている。
まだ弱い。
だが、街が完全に息を止めている匂いではない。
「第七迷宮、本補修後の暫定集計です」
マノンの指が数字をたどる。
読み終えてから、しばらく台帳を閉じなかった。
《第七迷宮:本補修後暫定生還率五十七%》
《未帰還者:減少》
《閉鎖勧告:継続観察》
「正式な三か月平均ではありません」
マノンが先に言った。
「ただ、再審査に回すだけの傾向は出ています」
四十二から五十七。
数字は上がった。
戻った者が増えた。
撤退できた者も増えた。
支部の隅で、誰かが小さく息を吐いた。
マノンではない。
街の者か、冒険者か。
どちらでもいい。
数字は、息の形になる。
アルヴァンは一瞬だけ目を細めた。
喜びかけた顔だった。
すぐに、怖がる顔へ戻る。
「戻るのか」
誰に言ったのでもない声だった。
戻るものは、また剥がれる。
支部長は、それを知っている顔をしていた。
「怖いですか」
マノンが聞いた。
アルヴァンは少しだけ笑った。
「怖い。閉じると決めるより、戻り始めたものを守る方が怖い」
支部長としては、正しい怖がり方だった。
ガレスも数字を見た。
「本部には上げます。常駐補修の推薦も、準備しておく」
「まだ早い」
俺は言った。
「早くねえです。遅いくらいだ」
「線はまだ仮だ」
「仮でも、人が帰ってる」
ガレスはそれ以上言わなかった。
推薦という言葉だけを残した。正式な形にするのは、まだ先でいい。
その日の夕方、エダが旧白鐘記録の写しを持ってきた。
「聖灰保管室の使用記録です。古いものだけかと思っていたんですが」
俺が持ち出した聖灰の正規記録も、その束にあった。
その横に、別の紙が挟まっている。
紙の端に、新しい押印があった。
小さな鐘印。
ラストール支部の印ではない。
「いつ押された」
「日付はありません。でも、インクが新しいです」
古い記録ではない。
乾いていない印だ。
過去の下地ではなく、今、誰かが上から触っている。
マノンが指で触れようとして、途中で止めた。
記録に触れる指ではなく、未帰還者欄で止まる指だった。
リセは紙を見なかった。
「見たくありません」
声は小さかった。
俺は刷毛を取らなかった。
今は、塗る場所ではない。
「また、紙を閉じる音がします」
「場所は」
「遠いです。鐘のある場所。でも、鐘は鳴っていません」
白鐘神殿。
名前を出さなくても、部屋の空気がそう読んだ。
俺は押印を見た。
乾いたと思っていた古い記録に、新しい印が乗っている。
下地は、まだ生きていた。
第七迷宮だけの問題ではない。
夜の支部は、昼より音がする。
人の声は減る。代わりに、紙をめくる音、戸棚の軋み、遠くの迷宮風が壁穴を抜ける音が残る。
俺は作業台で、白と聖灰の混ざり具合を見ていた。
リセは向かいではなく、少し斜めに立っている。
最初に会った時のように逃げる距離ではない。
かといって、信用しきった距離でもない。
作業の邪魔にならない位置だ。
「あなたの死は、まだ消えていません」
「知っている」
「塗らないんですか」
「まだ塗らない」
「塗れるのに?」
「塗れることと、塗っていいことは違う」
俺は白を練った。
少し硬い。聖灰が多い。
「俺の死は、まだ下地が見えない。上から白を置けば、一時的に隠せるかもしれない。だが、深く塗りすぎれば俺ごと剥がれる」
リセは手を膝の上で組んだ。
「あなたが死ぬ未来は、見たくありません」
その言葉は、部屋の中で浮いた。
告白の形ではない。祈りにも聞こえない。死読みとして見たくない、という言葉だった。
だが、言葉の端に別のものが付いていた。
俺は返事を選ばなかった。
選ぶと、余計な色が乗る。
「なら、そこに立つな」
「え?」
「灯りの影で、手元が暗くなる」
リセは一瞬だけ固まった。
それから、椅子を半歩ずらした。
「……そういうところです」
怒っているのか、呆れているのかは分からない。
ただ、椅子は扉から遠くなった。
エダが控えめに戸を叩いた。
入ってきた顔色は悪い。
「旧白鐘記録の件です」
手には、保管室の鍵束があった。
「さっき確認したら、聖灰保管室の使用記録に、また折り目が増えていました」
マノンも続いて入ってくる。
台帳を抱えているが、開いていない。
「誰かが触っています。支部の出入り記録には残っていません」
俺は手を止めた。
白が刷毛の先で固まる。
「鐘印は」
「あります。昨日より濃いです」
リセが立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る。
「紙を閉じる音が、近くなりました」
俺は白壺の蓋を閉めた。
作業は中断ではない。次の作業に移るだけだ。
「保管室を見る」
聖灰保管室の扉には、古い白線が引かれていた。
入っていい者と、入ってはいけない者を分ける線だ。
だが、線の端に小さな欠けがある。誰かが靴で擦った跡ではない。鍵束が当たった跡だ。
エダは鍵を持つ手を見た。
「私が、やったんでしょうか」
「分からない」
「覚えていません」
「覚えていないなら、そこから見る」
俺は扉の下を見た。
白い粉が少し落ちている。外へ向かってではなく、内側へ向かって擦れている。
中から開けた跡だ。
リセが息を止めた。
「中に、誰かいますか」
「今はいない」
「今は」
「跡はある」
扉を開けると、冷たい匂いがした。
聖灰は乾いていなければならない。だが、棚の一つだけ湿っている。
使用記録の頁が、そこに置かれていた。
昨日は帳面の中にあった頁だ。
切り取られている。
マノンが口元を押さえた。
リセは頁を見ない。
俺の袖を少しだけ掴んだ。
すぐ離した。
「すみません」
「線を踏んでいない」
「そういう問題では」
「今は、それで足りる」
頁には、新しい鐘印が押されていた。
乾いていない。
白鐘は、こちらを見ている。




