第12話 死亡予定、未確定
リセの名前が書かれた札は、死者記録庫の床に落ちていた。
拾わなかった。
触れば、何かが剥がれる。
そういう札だった。
マノンも、バルドも、エダも、声を出さなかった。
リセだけが、ゆっくり息を吸った。
「私の死は、もう記録されていたんですね」
断定ではない。
だが、ほとんど断定に近い声だった。
「まだ死んでない」
俺は言った。
「記録が先にあることもあります」
「そういうものか」
「白鐘神殿では」
そこでリセは言葉を止めた。
目が揺れている。
怒りか、恐怖か、諦めか。
俺には分からない。
分からないが、胸元の白い塗膜が小さく軋んでいるのは見えた。
《死亡■■》
《塗膜残存:四日未満》
黒が、少し濃くなっている。
ここに長く置くのは、手順としてよくない。
「戻る」
俺は聖灰壺を持った。
「札は」
マノンが聞いた。
「触るな」
「記録は」
「床に落ちた。死者記録庫から漏れた。そこまででいい」
「はい」
リセはまだ札を見ていた。
俺はその前に立った。
「見るな」
「私のものです」
「今は違う」
リセの目が俺を見る。
「どうしてそう言えるんですか」
「息がある」
「それだけですか」
「それだけだ」
リセは笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ、札から目を外した。
俺たちは旧白鐘管理区画を出た。
入口基準線に置いた白は、もうひび割れ始めていた。
聖灰を混ぜていない白だ。
長くは持たない。
外へ出ると、朝の光が眩しかった。
リセは支部へ戻るまで、一言も話さなかった。
支部の奥部屋で、俺は聖灰を広げた。
壺の中身は少ない。
全部使うわけにはいかない。
第七迷宮の本補修にも必要になる。
だが、リセの塗膜をこのままにしておくと、次はない。
「やるぞ」
俺は言った。
リセは寝台に座った。
「血は」
「使わない」
「聖灰だけで足りますか」
「足りるように塗る」
「足りなかったら」
「考える」
リセは少しだけ息を吐いた。
「あなたは、いつもそうですね」
「何が」
「できると言わない。でも、手は止めない」
答えずに、俺は白塗料を調合した。
白。
石灰。
結界材の削り粉。
聖灰を、耳かき一杯ほど。
混ぜる。
塗料が変わった。
白ではない。
灰を含んだ白。
重く、静かで、ざらつきがある。
死に触れる線の色だ。
《聖灰混合白:仮調合》
悪くない、では足りない。
今までの白より、下地に噛む。
リセの胸元を見る。
《死亡■■》
白い塗膜は、全体に細かく割れていた。
黒は、奥から押している。
中心に硬い釘のようなものがある。
前にリセが読んだものだ。
そこは触らない。
「黒の硬いところは避ける」
「はい」
「浮いた端だけ押さえる。前より深くは塗らない」
「深く塗ると?」
「たぶん、お前ごと剥がれる」
リセは顔をしかめた。
「怖いことを、普通に言いますね」
「怖いならいい」
「いい?」
「怖いなら、まだ死ぬ側に寄りきってない」
リセは黙った。
その目が、少しだけ変わった。
俺は刷毛を置いた。
《死亡■■》の端に、聖灰混じりの白が乗る。
弾かれない。
黒が食おうとする。
だが、白灰がざらりと押し返す。
いける。
一筋。
もう一筋。
前は、白が死に負けて泡立った。
今は違う。
聖灰が下地に噛む。
古い釘の周りを避けながら、浮いた塗膜だけを押さえる。
リセの呼吸が浅くなる。
「痛むか」
「遠いです」
「何が」
「死が」
俺は手を止めなかった。
「遠いなら、見るな」
「見えます」
「なら、言え」
リセは目を閉じた。
「黒い文字の下で、“確定”の形が崩れています」
刷毛が止まりかけた。
止めるな。
俺は手元だけを見た。
「消えたのか」
「分かりません。消えたのではなく、ほどけているように見えます」
白灰を置く。
黒が軋む。
塗りつぶした二字の奥で、硬かった線がほどけていく。
《死亡確定》
その最後の二字が、滲む。
白灰の下で黒が薄くなり、別の形に変わった。
《死亡予定:未確定》
確定ではない。
死は、まだある。
予定として残っている。
未確定になっただけだ。
だが、《死亡確定》ではない。
「リセ」
「はい」
「確定ではなくなった」
リセは目を開けた。
胸元の表示を見ている。
俺に見えているものと、同じかどうかは分からない。
ただ、彼女の指が、寝台の端からゆっくり離れた。
「……死が」
声がかすれた。
「少し、待ってくれています」
「待たせておけ」
「そんな言い方」
「急がれるよりいい」
リセは、笑った。
今度は、息が漏れただけではなかった。
小さく、頼りない。
それでも、笑ったと分かる顔だった。
マノンが部屋の隅で泣いていた。
今度は、俺も止めなかった。
刷毛を離す。
《死亡予定:未確定》
《塗膜状態:仮安定》
《再剥離:要経過観察》
まだ終わっていない。
本補修ではない。
仮安定だ。
それでも、最初に塗った白とは違う。
死の端を、少し押し戻した。
リセは胸元に触れた。
「ノルさん」
「なんだ」
「ありがとうございます」
俺は刷毛を拭いた。
「乾くまで見てから言え」
リセはまた少し笑った。
「では、乾くまで言い続けます」
「それは多い」
「多いくらいでいいです」
返す言葉がなかった。
支部の外から、声が聞こえた。
サシャとトマが、コレットの様子を聞きに来たらしい。
バルドの大きな声。
エダの短い返事。
マノンが鼻をすすりながら台帳を閉じる音。
ラストールは、まだ死にかけている。
第七迷宮の入口基準印は仮接続。
初級区画の奥は未補修。
旧白鐘管理区画の封印も危うい。
聖灰も少ない。
グランゼルでは、俺が残してきた線が剥がれているはずだ。
やることは多い。
俺は道具袋を見た。
割れた刷毛。
残り少ない赤。
聖灰を混ぜた白。
足りないものばかりだ。
それでも、線は引ける。




