第1話 追放された外れ職《塗装工》の俺、聖女の《死亡確定》を塗り潰す
《死亡確定》、塗れました。
黒い文字の端に、白い塗料が一筋、乗った。
死が、薄い膜の下で軋んだ。
――半日前。
迷宮の奥で、硬いものが割れる音がした。
甲高い悲鳴。
続いて、石を砕くような鈍い音。
三叉路の壁に赤い封鎖線を引いていた俺は、刷毛を止めずに耳だけを向けた。
「おらぁ!」
ザックの声だった。
奥の通路から、黒い外殻を持つ小型魔物が転がってくる。
背中は斧で割られ、中から傷ひとつない青い魔石が覗いていた。
《鉱断ち》。
魔物の外殻だけを割り、内部の魔石や結界材を傷つけずに抜く。
ザックが花形扱いされる理由は、それだけで足りた。
「今日だけで青魔石が十二個ですよ!」
部下の歓声に、ザックは斧を肩に担いで笑った。
「ああ。迷宮ってのは、稼いでなんぼだ」
その言葉自体は、間違っていない。
迷宮資源は高く売れる。
魔石、鉱石、結界材、薬草。
それを持ち帰る資源調達班は、グランゼル迷宮管理部の花形だった。
戦える。
稼げる。
目に見える成果を出せる。
それに比べて、俺の仕事は地味だ。
床に線を引く。
壁の印を塗り直す。
薄くなった警告印を補修する。
二十年、それだけを続けてきた。
「おい、ノル」
ザックたちが三叉路へ戻ってきた。
俺は刷毛を動かしたまま言った。
「そこ、乾いてない」
ザックの靴底が、引いたばかりの封鎖線を踏んだ。
赤い線が潰れ、濡れた塗料が石床に広がる。
「知るかよ」
ザックは鼻で笑った。
「俺たちは魔石を持って帰ってきたんだ。線一本に遠慮して歩けってか?」
俺は潰れた線を見た。
「その線がないと、帰り道を間違える」
「帰り道?」
ザックは部下たちを振り返り、大げさに肩をすくめた。
「聞いたか? 線がないと帰れないらしいぞ」
笑い声が起きた。
「お前みたいな外れ職《塗装工》はいいよな。床に線を引いてりゃ仕事した気になれる」
俺は返事をしなかった。
三叉路は風が合流する。
湿気も溜まる。
ここは封鎖線も帰還路印も傷みやすい。
塗料を置くだけでは駄目だ。
古い膜を削り、石粉を払い、下地を作る。
そうしないと、線はすぐに浮く。
俺が下地用の細い刷毛を取ろうとした時だった。
ぐしゃり、と音がした。
ザックの靴が、俺の刷毛を踏んでいた。
毛先が二股に割れた。
片方は変に尖り、もう片方は根元から曲がっている。
石粉を払うための細い毛が、濡れた赤を吸ったまま、ぺたりと床に貼りついた。
俺は、少しだけ息を止めた。
怒鳴りはしなかった。
声を荒げると、手元がぶれる。
そういう癖は、線に出る。
まず見るべきなのは、壊れたものだ。
俺は、踏まれた刷毛と、潰れた封鎖線を見た。
「それは、下地用だ」
「だからなんだよ」
ザックは靴をどけた。
「支部長ダルトンから正式通達だ。ノル、お前は今日でクビだ」
部下の一人が、丸めた書類を俺に突き出した。
「老朽補修員の整理、か」
「聞こえよく書いてあるだけだ。実際はこうだよ」
ザックはにやりと笑った。
「稼げないおっさんはいらない。以上だ」
俺の首から、管理証が外された。
二十年、毎朝門番に見せてきた金属札だった。
それがザックの手に収まる。
「今後、グランゼル迷宮の管理区域への立ち入りは禁止。補修道具も支給停止。文句があるなら支部長に言え」
「この三叉路の補修は」
「もうお前の仕事じゃねえ」
ザックたちは歩き出した。
乾いていない封鎖線を、また踏んだ。
赤い線が靴跡で切れた。
封鎖区域の奥から、小さな羽音がした。
俺は目を細める。
踏み荒らされた線の端が、黒く濁っていた。
少し先の壁に塗られた帰還路印が、一瞬だけふっと消える。
ザックたちは気づかない。
「行くぞ。魔石を換金したら飲むぞ」
笑い声が遠ざかっていく。
俺は割れた刷毛を拾った。
毛先は死んでいた。
だが、柄はまだ使える。
「この三叉路だけは、終わらせる」
クビになった。
管理証もない。
それでも、ここをこのままにはできない。
俺は膝をつき、靴跡で潰れた封鎖線を削った。
《封鎖線:薄化》
《帰還路印:劣化》
いつもの表示が、俺の目に浮かぶ。
浮いた塗膜を落とす。
石粉を払う。
割れた刷毛の毛先を指で整える。
その時、封鎖区域側に小さな足跡を見つけた。
ザックたちの重い靴跡ではない。
もっと細い。
裸足に近い。
「誰か入ったのか」
封鎖区域は、本来なら人が入る場所じゃない。
俺は塗料壺を持ち、足跡を追った。
奥へ進むほど空気が冷たくなる。
古い封鎖印が壁に残っている。
半分剥がれ、読めなくなっていた。
角を曲がったところで、白い布が見えた。
聖衣だった。
泥と血で汚れた白い聖衣。
その中で、女が倒れていた。
歳は二十代後半くらい。
顔色は紙のように白い。
長い髪が床に広がり、唇がかすかに震えている。
俺が近づくと、女の上に黒い文字が浮かんだ。
《状態:毒》
《状態:出血》
《状態:骨折》
《状態:麻痺》
そこまでは普通だった。
状態表示だ。
冒険者なら、重傷時に見えることもある。
だが、その奥に別の文字があった。
《死亡確定》
黒い文字だった。
ただの表示ではない。
古い封鎖印のように、女の胸の少し上に貼りついている。
端が浮いていた。
下地との間に、ほんのわずかな隙間がある。
俺は思った。
塗れる。
女が目を開けた。
「……来ないで」
かすれた声だった。
「私に触らないでください」
「怪我をしている」
「分かっています」
女は自分の胸の上に浮かぶ黒い文字を見ていた。
「でも、もう駄目です」
「まだ息はある」
「息があるだけです」
女の指が、床を弱く掴んだ。
「それは、もう決まった死です。私は、そういうものを読む役目でした。だから分かります」
俺は白塗料の蓋を開けた。
「決まったかどうかは知らない」
「何を……」
「浮いている」
「え?」
「端が浮いているなら、押さえられる」
女の目が揺れた。
恐怖。
疑い。
困惑。
俺でも信用しない。
死にかけたところへ、塗料壺を持った男が近づいてくる。
助けに来たようには見えない。
「やめてください」
「死にたいのか」
「違います。でも、あなたが何をするつもりなのか分からない」
「塗る」
「意味が分かりません」
「俺も、全部は分からない」
刷毛を浸す。
《死亡確定》の端に白を置いた。
弾かれた。
黒い文字が、白を食った。
塗料が泡立ち、灰色に濁る。
女の顔がさらに青ざめた。
「ほら、駄目です。それは治癒でも、浄化でもない。そんなものを塗っても――」
「食いつきが弱い」
「聞いていますか」
「聞いている」
割れた刷毛の毛先を整えようとして、指先を切った。
血が一滴、白塗料に落ちた。
白が、わずかに重くなる。
俺はそれを見た。
「なるほど」
「何が、なるほどなんですか」
「食いついた」
濁った白を、もう一度置く。
今度は弾かれなかった。
「確」の端に、白が乗った。
黒い文字が震える。
指先が焼けるように痛む。
女が息を呑んだ。
「やめて」
「なぜ」
「分からない。でも、それは……私だけを見ていない」
「どういう意味だ」
「あなたの血を見てる」
女の声が震えた。
「その黒いものが、あなたの血にも反応している」
「なら、急ぐ」
「違う、そういう意味じゃ――」
俺は歯を食いしばり、刷毛を動かした。
一画。
もう一画。
「確」の中ほどが白に沈む。
続けて「定」の下を押さえる。
黒が暴れる。
白が軋む。
胸の奥から何かを持っていかれる感覚がした。
それでも、手は止めない。
乾くまで持てばいい。
《死亡確定》
その二文字の後ろ半分を、俺は白で塗り潰した。
《死亡■■》
女が息を吸った。
止まりかけていた胸が、大きく上下する。
俺は膝をついた。
視界の端で、自分の髪が一筋だけ白く変わるのが見えた。
さらに、薄い文字が浮かぶ。
《派生技能:上塗り》
名前はどうでもいい。
だが、女の目はその文字ではなく、塗り潰された死の方に止まっていた。
「……今のは、治癒でも浄化でもありません」
「だろうな」
「死の印を、上から押さえた。そんな聖務、私は知りません」
俺は返事をしなかった。
白く押さえた表面に、もう細いヒビが入り始めていたからだ。
女は、塗り潰された黒い文字を見ていた。
唇が震えている。
「……消えてない」
「消してはいない」
俺は息を整えた。
「上から押さえただけだ」
「そんなことを聞いているんじゃありません」
女の目に、恐怖が浮かんだ。
さっきより息は通っている。
だが、助かった人間の目ではなかった。
俺が逆の立場でも、同じ目をしたと思う。
「あなた、今……私の死に、何をしたんですか」
その問いに答える前に、白い塗膜の端が小さく割れた。
ピキッ。
黒が、また滲み始めていた。




