2話目 笑う月
「ふぅ……」
ため息が、底のない闇に吸い込まれて消える。
火照った頬を撫でる秋の風は、冷水のように体にしみる。
俺、灰谷 怜は神頼みはしない。それはお金が無くなったら財布から一万円札がわいてくると言っているのと同じだからだ。
だから、俺はこの街の底から這い上がってきた。
親のコネもなければ、飛び抜けた才能があったわけでもない。あったのは、他人が躊躇する一線を、汚れても踏み越える度胸だけだ。
「……努力、したんだよ。俺は」
誰に言うともなく、乾いた言葉が漏れた。
綺麗事だけで飯が食えるか? 誠実さで家賃が払えるか?
答えは否だ。俺は知っている。正しさなんてものは、どうでもいいことだと。
あの老人だって、俺が売らなきゃ別の誰かに騙されていただけだ。部下の田中だって、俺の下で働けるだけマシだと思えばいい。
俺は間違っていない。泥水をすすり、靴底を舐めるような惨めさを味わい尽くして、ようやく俺はこの場所に立ったんだ。
「勝者」になるために、必死で生きてきた。その対価として、多少の手を汚すことの何がいけない?
俺は、自分を肯定した。そうしなければ、立っていられない気がしたからだ。
ふと、さっきのグラスの中の光を思い出し、何気なく夜空を見上げた。
だが、そこには何もなかった。
ビルの谷間に切り取られた夜空は狭く、重苦しい闇が垂れ込めているだけだ。ネオンの光も消え路地裏は、まるで底なしの井戸のようだ。
「先輩! タクシー、あっちの大通りで拾いましょう!」
後輩の山下が、景気のいい声を上げて通りへ向かって歩き出した。
俺は無言で頷き、ゆっくりとそのあとを追う。
コツ、コツ、と革靴の音が響く。
一歩進むごとに、ビルの影が後退し、視界が広がっていく。
喧騒と光の大通りへ。
「へい、タクシー!」
山下が手を挙げた瞬間だった。
俺の視界の隅に、強烈な違和感が飛び込んできた。
ビルの屋上の稜線を越え、夜空が大きく開けたその刹那。
「……は?」
喉の奥から、ヒュッという音が漏れた。
思考が、凍りついた。
そこにあったのは、俺が知っている天体ではなかった。
薄い青みがかった光を放つ巨大な円盤。
その表面にあるはずのクレーターは、偶然の陰影などではなかった。優しさをたたえたようなうっすらと開いている「目」と、ほほ笑んだ「口」。
それは、優しさをたたえたようなほほ笑んだ表情が張り付いている巨大な月。
その巨大な顔は、夜空の真上から、明確に俺を見下ろしていた。
しかし、その月の顔は非常に悍ましく見えた。
物理的な距離など無視して、その視線は俺の網膜を焼き、脳髄の奥底にある汚い記憶をまさぐってくる。
『……見ているぞ』
声が聞こえたわけではない。だが、その悍ましい笑顔は、言葉よりも鮮烈に俺の心臓を鷲掴みにした。
嘲笑。軽蔑。そして、逃れようのない断罪の予告。
「な、なんだ……あれは……」
足が震え、俺はその場にへたり込みそうになった。
周囲を行き交う人々は、スマホを見たり談笑したりしながら通り過ぎていく。誰も、あの空の異変に気づいていないのか?
この世界でたった一人、俺だけが、あの悍ましい笑顔の標的にされている。
月が、笑っている。
俺が積み上げてきた「罪」を、すべて知っているかのように。
「先輩? タクシー、来ましたよ」
山下の声に、俺は弾かれたように我に返った。
全身から嫌な汗が吹き出している。
震える指先を握り込み、俺は家の中でゴキブリを見つけた時のように視線をそらさず、自動ドアが開いたタクシーの後部座席へと滑り込んだ。
「……ああ、悪い」
シートに沈み込むと、古い革の匂いと、微かな芳香剤の甘ったるい香りが鼻をついた。
ドアが閉まる。外気が遮断され、一瞬の安堵が訪れるはずだった。
「運転手さん、とりあえず環状線沿いにお願いします」
山下が助手席で軽快に行き先を告げる。車体が滑るように動き出した。
流れる街の灯り。遠ざかる繁華街。
俺は恐る恐る、サイドウィンドウへと視線を向けた。
車が走れば、景色は変わる。あの悍ましい幻覚も、ビルの影に消えてくれるはずだ。
そう自分に言い聞かせ、ガラス越しに夜空を盗み見た。
「…………ッ!」
喉の奥で、悲鳴が凍りついた。
いた。
まだ、そこにいた。
タクシーがどれだけスピードを上げようと、どれだけ角を曲がろうと、あの巨大な青白い顔は、ピタリと窓枠に張り付いたまま離れない。
優しげに細められた巨大な目。口角の上がった、慈愛に満ちた唇。
その張り付いた微笑みは、ガラス一枚隔てたすぐそこから、車内の俺をじっと覗き込んでいた。
『逃げられるとでも思ったか?』
脳内に直接響くような圧迫感。
優しさの仮面を被った断罪者が、俺の罪の重さを楽しむように、どこまでも追ってくる。
「先輩、どうかしました? 顔色が悪いですよ」
バックミラー越しに、山下の能天気な視線と、運転手の無機質な視線が交差する。
俺は小さく首を振り、逃げ場のないシートの上で、ただ小さく縮こまるしかなかった。




