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1話目 月明り

 玄関先に、重苦しい沈黙が降りた。


色褪せた引き戸の隙間から入り込む隙間風が、古い家特有の埃の匂いを運んでくる。目の前に立つ老人は、しわがれた手を所在なげに胸の前でこすり合わせ、ただ視線を床に落としていた。


「ですから、木村さん。これは今決断していただかないと、後々ご家族に多大な負担をかけることになるんですよ。ご長男様にも、ご迷惑はおかけしたくないでしょう?」


私の声は、ひどく穏やかで、親身に響くよう完璧に調整されていた。声とは裏腹な、ただ不安を煽るだけの巧妙な言葉の羅列。しかし、それは確実に老人の逃げ場を塞いでいた。


「いや、でも……私の一存では……それに、こんな高いものは……」


消え入るような声で、木村が抵抗を試みる。その顔には、困惑と、ほんのわずかな恐怖、そして諦めにも似た悲哀が浮かんでいた。しかし、私はその微かな抵抗の火種を、冷たい水で一息に消し去る術を熟知している。


「もちろん、ご不安はわかります。ですが、先日ご近所の佐藤さんも同じ理由で導入されましてね。皆様、最初はそう仰るんですが、後になって『あの時決断しておいて本当に良かった』と感謝してくださるんですよ。木村さんだけが取り残されるのは、私も心苦しいのですよ」


重ねられた嘘。購入を検討しているだけの佐藤さん。私は、クリアファイルから契約書を、音を立てずに老人の目の前に滑らせた。老人はビクッと肩を震わせ、力なくペンを握る。その細く震える指先が、私の成績という名の罪の束に、また一つ無価値な数字を刻み込んだ。


「……ありがとうございます。これでご安心ですね」


完璧な営業スマイルを浮かべながら、私は心の中で冷笑した。チョロい。情報弱者は、ただ恐怖を餌にすれば自ら網にかかる。


事務所に戻る道すがら、私は助手席で縮こまっている部下の田中を一瞥した。


「おい、田中。お前、今月の数字どうなってんだ?」


「す、すみません。今、数件交渉中でして……」


「交渉中? それで飯が食えんのか。いいか、お前のその甘い考えが俺の足を引っ張ってんだよ」


私は苛立ち交じりに舌打ちをし大きなため息をついた。田中のような、相手の顔色ばかりうかがう奴は、いつまで経っても数字を作れない。


「いいか、今月末までに数字が乗らなかったら、お前が先週取ったあのアパートの契約、俺の成績に付け替えるからな。どうせ俺のアドバイスのおかげで取れたようなもんだろ」


「……はい。申し訳ありません」


田中は青ざめた顔で、深く首を垂れた。その反論一つできない惨めな姿に、私は奇妙な全能感と優越感を覚えていた。他者を踏みつけ、這い上がる。それこそが、この無慈悲な世界で生き残る唯一の正解なのだ。


夜の帳が、あっという間に昼を食い尽くし、繁華街のネオンが、毒々しいほど色鮮やかに夜の街を彩っていた。


私は、行きつけのキャバクラの奥まったVIP席に深く腰を沈めていた。隣には、私が何を言っても「その通りですね」としか返さない、便利なだけの後輩の山下を座らせている。


「いやあ、今日の先輩の詰め、シビれましたよ! あのジジイ……いや、お客様もイチコロでしたね!」


女たちの媚びた高い笑い声と、重低音が響くBGM。安っぽい香水の匂いが入り混じる喧騒の中で、私は薄っぺらい称賛を並べ立てる山下を適当にあしらいながら、度数の高い酒を呷った。鼻の奥がアルコールで焼けるような感覚が心地いい。

他者を養分にして登り詰めた場所から見下ろす景色は、いつだって最高だった。私は今夜も、この小さな世界の絶対的な支配者として君臨していた。


ふと、手元に置かれたロックグラスに視線を落とす。


店の窓はすりガラス調のフィルムが張られており、ぼんやりとした夜空しか見えない。しかしフィルムのわずかな隙間から、グラスの中の丸い氷に、一筋の月光が差し込んでいた。


「……綺麗だな」


喧騒に掻き消されるほどの小さな声が、思わず口からこぼれた。

琥珀色の液面に揺れる、小さな白い光の塊。けばけばしいネオンの色彩をすべて圧倒してしまうほど、その月明かりは純粋で、煌びやかだった。周囲の騒がしさが嘘のように、グラスの中の小さな世界だけが、静寂に包まれているような錯覚を覚える。私はその美しい輝きに、しばし魅入られていた。


 だが、じっと見つめているうちに、背筋を微かな違和感が撫でた。

光が、強すぎるのだ。

隙間から落ちただけの月明かりのはずなのに、それはまるでグラスの底で自ら発光しているかのように、異常な白さを放っている。美しく研ぎ澄まされた光線が、氷の奥から私の瞳の奥を、真っ直ぐに射抜いてくるような感覚。

ただの天体の反射には到底思えない。何かが外で光っているのかと、すりガラスの向こうを透かして見ようとした、その時だった。


「先輩? どうかしましたか?」


女と談笑していた山下が、怪訝そうな顔で覗き込んでくる。


「……いや。なんでもない」


私は、得体の知れないその冷たい光を胃袋に閉じ込めるように、残った強い酒を一息に煽った。アルコールの熱が胃の腑に落ちていくのを感じながら、さっきの粟立つような感覚はただの酔いのせいだ、と自分に言い聞かせる。


そう、ただの酔いだ。


勘定を済ませ、重い扉を開けて外に出る。

火照った体に、深夜の刺すような夜風が吹き付けた。

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