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沈黙は罪ですか?


第1章「入学式では何も起きない」

 入学式の日の校舎は、よくできた背景画みたいだった。

 新しいのに新しく感じない白い壁、均等に並んだ窓、誰かの緊張を吸い取るような天井の高さ。アンナはその中を、流れに逆らわない程度の速さで歩いていた。

 制服の袖が少しだけ長い。直すほどでもないし、誰かに指摘されるほどでもない。そういう「ちょうどいいズレ」を、アンナは昔から選んできた。目立たず、でも完全には埋もれない位置。誰にも文句を言われない場所。

 体育館に入ると、すでに何列もの椅子が並べられていて、前の方から順に生徒が座らされていた。係の教師は淡々としていて、声に感情がない。それがアンナにはありがたかった。期待も失望も含まれていない声は、安全だった。

 座ると、周囲の気配が一斉に近づいた気がした。制服の布が擦れる音、カバンのファスナー、誰かの短い笑い声。どれも大きくはないのに、重なり合って、頭の奥でざわつく。

 アンナは前を向いたまま、呼吸の回数を数えた。

 こういうとき、考えすぎると失敗する。失敗というのは、泣くとか、倒れるとか、そういう大げさなことじゃない。ただ、顔に出る。それだけで十分だった。

 壇上では校長が話し始めていた。未来だとか可能性だとか、聞き慣れた単語が、整列して流れていく。アンナはそれを意味として受け取らず、音として聞いた。そうすると、どれも同じ高さの波になる。

 斜め前の席の女子が、何度か後ろを振り返った。視線が合いそうになるたび、アンナはわずかに焦点をずらす。見られること自体が嫌なわけじゃない。ただ、見られたあとに何かを期待されるのが、少し怖い。

 入学式は予定通り進み、予定通り終わった。拍手のタイミングも、立ち上がる順番も、すべて決められていた通りだ。誰かが取り返しのつかないことをする気配はなかった。

 それでいい、とアンナは思った。

 何も起きない日は、うまくいった日だ。

 クラス分けの掲示を見るために、人だかりができていた。アンナは少し距離を取り、端の方から名前を探す。自分の名前は、いつも思っているよりもあっさり見つかる。

 アンナ・ギルド。

 その文字を見た瞬間、胸の奥が一瞬だけ冷えた。理由はわからない。たぶん、知らない場所に自分の居場所が決められている、という事実そのものが、まだ体に馴染んでいないだけだ。

 教室に入ると、また椅子と机が整然と並んでいた。窓際の席、中央の列、黒板の前。アンナは後ろから二列目の、廊下側に座った。逃げ道がある席だ、と無意識に思う。

 周囲では、すでに小さな会話が始まっていた。出身中学の話、部活の話、誰が可愛いか、誰が面白そうか。アンナはそのどれにも参加せず、机の上に手を置いて、指先の感覚に意識を集中させた。

 弱い、という自覚はあった。

 でもそれは、壊れているという意味じゃない。壊れないために、選んできた結果だ。

 チャイムが鳴る。

 また、何も起きない一日が始まる。




第2章「名前を呼ばれる」

 出席番号順に、名前が呼ばれていった。

 担任の声は少し低く、教室の端まで届くように抑揚がつけられている。その抑揚が、アンナには余計に不安を煽った。名前という短い音に、意味以上の重さが乗せられている気がする。

 呼ばれた生徒は、手を挙げて短く返事をする。「はい」と言う声の高さや速さが、それぞれ微妙に違っていて、アンナはそこに無意識に耳を澄ませていた。元気すぎる声、緊張で裏返った声、すでに慣れたような落ち着いた声。

 どの声も、ここに来た理由を持っているように聞こえた。

 名前が一つ進むごとに、アンナの背中が少しずつ硬くなる。呼ばれるのはわかっているのに、その瞬間を待つのは、思っていたより消耗する作業だった。逃げ道のある席を選んだはずなのに、今は椅子に縫い止められている気分だった。

 「……アンナ・ギルド」

 一瞬、時間が薄く伸びた。

 自分の名前が、自分のものじゃない音として教室に落ちる。その感覚は、何度経験しても慣れない。

 「はい」

 声は、思ったよりも安定していた。

 それが少しだけ、怖かった。平気なふりが、あまりにも自然にできてしまったから。

 担任は特に反応を示さず、次の名前を呼んだ。アンナの返事は、もう教室の空気に溶けている。誰かが振り返る気配がしたけれど、視線が刺さるほどではなかった。

 それでいい、とアンナは思った。

 印象に残らないのは、失敗じゃない。

 出席確認が終わると、担任は簡単な説明を始めた。校則、提出物、これからの予定。重要なはずの話なのに、内容は頭に残らない。ただ、「これから」という言葉だけが、何度も耳に引っかかった。

 アンナはノートを開き、文字を書くふりをした。実際には、意味のない線を引いているだけだ。手を動かしていないと、名前を呼ばれた余韻が、胸の奥から浮かび上がってきそうだった。

 名前を呼ばれる、というのは、不思議な行為だ。

 存在を確認されること。

 ここにいると、はっきり言われること。

 アンナはそれを、必要以上に重く受け取ってしまう。名前を呼ばれたあとに、何かを期待されている気がしてしまうのだ。ちゃんと振る舞うこと、間違えないこと、壊れないこと。

 休み時間になると、教室の空気が一気に緩んだ。椅子が引かれ、机が鳴り、声が重なる。アンナの周りでも、何人かが顔を寄せ合って話し始めた。

 「さっきの自己紹介、緊張したよね」

 隣の席の女子が、アンナに向かってそう言った。

 一瞬、言葉の意味を測る。これは会話の入口だ、と理解するまでに、わずかな間が必要だった。

 「……うん」

 短く返す。否定でも肯定でもない、曖昧な返事。相手はそれを気にした様子もなく、別の話題を続けた。アンナはその声を聞きながら、胸の奥で小さく息をついた。

 呼ばれた名前は、もう過去のものになっている。

 でも、消えたわけじゃない。

 アンナは、自分の名前がまた呼ばれる日を、すでに想像していた。

 次は、どんな場面で、どんな声で、どんな意味を背負わされるのか。

 それを考えないようにしながら、アンナは窓の外を見た。校庭では、誰かが走っている。理由も目的もわからないけれど、確かに動いている姿だった。

 名前を呼ばれただけで、世界は少しだけ近づく。

 それが、アンナにはまだ、重い。



第3章「マリーは正しい」

 マリーは、最初からそこにいたみたいな顔をしていた。

 教室の中央、黒板がよく見える席。背筋は伸びていて、話すときも無駄に声を張らない。先生が質問をすると、少しだけ間を置いてから、ちょうどいい長さで答える。

 正しい、と思った。

 アンナがそう判断するまでに、時間はかからなかった。

 マリーの言葉には、余計な揺れがない。曖昧さを避けるように選ばれた単語、聞いている側が安心する語尾。誰かを置いていかないように配慮されているのに、迎合している感じはしない。

 クラスの空気が、少しずつマリーを中心に整っていくのがわかった。

 アンナは、その様子を廊下側の席から眺めていた。

 近づこうと思えば近づける距離。でも、わざわざ動く理由は見つからない。

 自己紹介の時間、マリーは名前と出身中学、それから「人と話すのが好きです」と言った。ありふれた内容なのに、不思議と軽く聞こえなかった。言葉と態度が、きちんと一致していたからだと思う。

 数人が頷き、誰かが微笑んだ。

 マリーはそれを当然の反応として受け取り、必要以上に喜びもしなかった。

 アンナの番が来たとき、教室はすでに落ち着いていた。

 マリーが作った空気の中で、アンナは立ち上がる。

 「アンナです。……よろしくお願いします」

 それだけ言って、座った。

 それで終わりだ。質問も、反応もない。アンナは胸の奥で、小さく安堵した。

 休み時間になると、何人かがマリーの席に集まった。

 部活の話、委員会の話、授業のこと。マリーは一つひとつに丁寧に答え、時々相手に質問を返す。そのやり取りは、見ていて引っかかりがなかった。

 正しい振る舞い。

 正しい距離感。

 正しい関心。

 アンナはそれを、少しだけ羨ましいと思った。

 マリーの正しさは、努力の結果に見えた。

 生まれつきでも、無理をしている感じでもない。「そうしたほうがいいと知っている」人の振る舞いだった。

 昼休み、アンナが一人でパンを食べていると、マリーが声をかけてきた。

 「隣、いい?」

 断る理由はなかった。

 アンナは小さく頷く。

 「さっきの自己紹介、緊張した?」

 マリーの声は、柔らかい。でも踏み込みすぎない。

 答えやすい質問だ、とアンナは思った。

 「少し」

 嘘ではないし、全部でもない。

 「わかる。最初って、どうしてもね」

 マリーはそう言って、笑った。その笑顔には、同情も評価も含まれていなかった。ただの共有だ。

 アンナは、その点にも感心した。

 正しさは、相手を測らない。

 しばらく他愛のない話をしたあと、マリーは席を立った。

 「またね」と言って。

 その言葉が、自然すぎて、アンナは少しだけ戸惑った。

 「また」が、本当に来る前提で使われる言葉だということを、忘れかけていたから。

 マリーが去ったあと、アンナは自分の手元を見つめた。

 正しい人のそばにいると、自分の曖昧さが浮き彫りになる。

 でも、不快ではなかった。

 責められていないし、急かされてもいない。

 ただ、自分はマリーにはなれない、と静かに理解しただけだ。

 アンナの弱さは、正しさの外側にある。

 それはまだ、言葉にならない。

 けれど、マリーの存在によって、輪郭だけが少しはっきりした。

 教室のチャイムが鳴る。

 マリーは、もう前を向いている。

 アンナも、同じように前を向いた。

 正しさの中に入らないまま。




第4章「ニッチは断言する」

 ニッチは、最初から浮いていた。

 制服はきちんと着ているのに、なぜか校則の外にいるように見える。姿勢が悪いわけでも、態度が乱暴なわけでもない。ただ、周囲と同じ方向を向いていなかった。

 最初にそれに気づいたのは、現代文の授業だった。

 教師が黒板に書いた問いは、正解が一つに見えない種類のものだった。登場人物の行動をどう解釈するか、なぜその選択をしたのか。教室には沈黙が落ちる。誰もが、間違えない答えを探している沈黙。

 その中で、ニッチは手を挙げた。

 「それ、意味ありますか?」

 教室の空気が、わずかに歪んだ。

 教師は一瞬だけ言葉に詰まり、それから問い返す。

 「どういう意味かな」

 「作者の意図とか、考えても無駄じゃないですか。読んだ人がどう感じたかで全部違うし。正解を決めようとするのが、もうズレてる」

 言い切る声だった。

 強くも大きくもないのに、断定だけがはっきりしている。

 数人が顔を見合わせ、誰かが小さく笑った。冗談として受け取ろうとする反応。でもニッチは、笑いに寄せなかった。視線は教師に向いたまま、揺れない。

 「でも、考えること自体に意味があるんだよ」

 教師はそうまとめて、先に進もうとした。

 ニッチはそれ以上、何も言わなかった。

 アンナは、そのやり取りを見ながら、胸の奥が少しざわつくのを感じていた。

 ニッチの言葉は、乱暴だった。でも、間違っているとも思えなかった。

 休み時間、教室の後ろの方で、ニッチの話題が出ていた。

 「なんかさ、めんどくさくない?」

 「空気読まなすぎ」

 「でも、ちょっとスッとした」

 評価は割れていた。

 マリーはその輪の少し外で、黙って聞いていた。否定も肯定もしない。その態度が、余計に「正しい側」に見えた。

 アンナは、自分がどこに立っているのかわからなかった。

 ニッチの断言に救われる気もしたし、同時に怖くもあった。

 断言するということは、逃げ道を消すことだ。

 少なくとも、アンナにはそう思えた。

 昼休み、アンナが廊下で自販機の前に立っていると、ニッチが隣に来た。

 特に挨拶もなく、ボタンを押す。

 「アンナだっけ」

 名前を呼ばれて、心臓が一拍遅れた。

 ニッチはアンナの反応を気にする様子もなく、続ける。

 「さっきの授業、どう思った?」

 問いは直接的だった。

 逃げるための選択肢が、用意されていない。

 「……難しいなって」

 アンナはそう答えた。

 本当のことだったし、便利な言葉でもあった。

 「でしょ。みんな、難しいって言えば安全だから」

 ニッチはそう言って、缶を受け取った。

 責める口調ではない。ただの事実確認のようだった。

 アンナは、それ以上何も言えなかった。

 ニッチの言葉は、アンナが普段隠している部分に、触れかけていた。

 弱いから、曖昧にする。

 壊れたくないから、選ばない。

 ニッチは、それを一言で切り捨ててしまいそうだった。

 「別に、はっきりしなくてもいいけどさ」

 ニッチは、意外にもそう付け加えた。

 「ただ、わからないなら、わからないって言えばいいと思う。どっちつかずでいるよりは」

 それは、助言なのか、挑発なのか。

 アンナには判断がつかなかった。

 ニッチは先に立ち去った。

 アンナは自販機の前に残り、選ばなかった飲み物のボタンを見つめた。

 断言する人は、強い。

 でも、強さはいつも正しさと同じ形をしているわけじゃない。

 アンナはその日、自分が「断言できない側」の人間だということを、改めて自覚していた。

 そしてそれを、まだ手放す気にはなれなかった。



第5章「ハンバートの親切」

 ハンバートの親切は、音を立てずに近づいてくる。

 気づいたときには、もう隣にいる、というタイプだった。

 最初は、プリントだった。

 アンナが机の中を探していると、すっと紙が差し出される。

 「これ、さっき配られてたやつ」

 声は低めで、穏やかだった。

 助けてもらった、というほど大げさでもない。でも、無視できるほど小さくもない。

 「ありがとう」

 アンナがそう言うと、ハンバートは軽く笑った。

 その笑い方に、裏はなかった。少なくとも、アンナにはそう見えた。

 ハンバートは、よく周囲を見ていた。

 誰が忘れ物をしたか、誰が居心地悪そうにしているか、誰が話の輪から外れているか。気づいていないふりをしている人より、よほど多くのことを把握している。

 それを、使わない人だった。

 だから余計に、安心できた。

 昼休み、アンナが一人で席に残っていると、ハンバートは向かいの椅子に座った。

 断りも確認もない。自然すぎて、拒否するタイミングがなかった。

 「一人、平気?」

 その聞き方は、ずるいと思った。

 「平気じゃない?」でも「一人が好き?」でもない。どちらでも逃げられる問い。

 「……平気」

 アンナはそう答えた。

 ハンバートは頷いて、それ以上踏み込まなかった。

 しばらく、どうでもいい話をした。授業が眠いとか、購買のパンがすぐなくなるとか。アンナが相槌を打つたびに、ハンバートは満足そうに話を続ける。

 その時間は、悪くなかった。

 でも、少しだけ、疲れた。

 ハンバートの親切は、常にアンナの反応を待っている。

 返事をしなければ気まずくなるし、応えれば関係が一歩進む。その「一歩」が、アンナには重い。

 放課後、アンナが一人で帰ろうとすると、ハンバートが追いついてきた。

 「方向、一緒だよね」

 確認の形をした断定だった。

 アンナは、頷くしかなかった。

 並んで歩く距離は、ちょうどいい。近すぎず、遠すぎない。ハンバートはアンナの歩幅に合わせているようだった。それが、ありがたくもあり、少し怖くもあった。

 「アンナってさ」

 名前を呼ばれる。

 第2章の感覚が、胸の奥で小さく動いた。

 「無理しないよね」

 それは、褒め言葉の形をしていた。

 でもアンナは、すぐに返事ができなかった。

 無理をしていないのか。

 それとも、無理ができないだけなのか。

 「そうかな」

 曖昧に返すと、ハンバートは笑った。

 「それがいいんだと思う」

 いい、という言葉が、アンナの中で引っかかった。

 誰にとって、いいのか。

 何に対して、いいのか。

 ハンバートは、それ以上説明しなかった。

 説明しない優しさは、時々、説明されるより厄介だ。

 駅前で別れるとき、ハンバートは言った。

 「困ったら、言って。俺、気づくの得意だから」

 その言葉は、頼もしくもあり、少しだけ支配的だった。

 気づかれる前提でいること。助けられる可能性を、最初から含んでいること。

 アンナは、小さく頷いた。

 帰り道、一人になると、胸が少しだけ軽くなった。

 同時に、罪悪感のようなものが残る。

 ハンバートは、何も悪くない。

 親切だったし、優しかった。

 それでもアンナは、自分の弱さが、誰かの親切を呼び寄せてしまうことを、どこかで知っていた。

 助けを求めているように見えるのかもしれない。

 実際、完全に否定はできない。

 アンナは、親切を拒むほど強くもなければ、受け入れるほど無防備でもなかった。

 その中間で、いつも立ち止まっている。

 ハンバートの親切は、その場所を正確に見抜いていた。

 それが、少しだけ、怖かった。





第6章「シルフは知っている」

 シルフは、いつも少し離れたところにいる。

 教室の中心にも、完全な端にもならない位置。誰かの隣に座っていても、その人の一部にはならない。不思議と、そういう距離感を保っていた。

 アンナがシルフの存在を意識したのは、自分の名前が、知らないところで使われている気配を感じたときだった。

 直接聞いたわけじゃない。

 ただ、視線が一瞬だけ集まって、すぐに逸れる。話していた声が、アンナの前で途切れる。そういう小さな断片が、いくつか重なった。

 原因は、シルフだと直感した。

 シルフは、何かを広めるために話す人じゃない。

 ただ、知っていることを、知っている相手に渡す。それだけだ。噂話というより、情報の移動に近い。

 「アンナってさ」

 昼休み、後ろの席から声が聞こえた。

 名前が出た瞬間、アンナの背中が少し強張る。

 「ハンバートと一緒に帰ってるよね」

 それは、事実だった。

 でも、事実はいつも、少しずつ形を変える。

 「仲いいんじゃない?」

 軽い調子だった。悪意は感じられない。

 アンナは振り返らず、曖昧に笑った。

 その日の午後、アンナは廊下でシルフとすれ違った。

 シルフは、アンナの方を一瞬だけ見て、軽く会釈した。それだけだった。

 呼び止める理由も、責める理由もない。

 シルフは何もしていない。少なくとも、意図的には。

 アンナは、その無関心さに近い態度が、少し羨ましかった。

 放課後、トイレの前で、シルフと二人きりになった。

 偶然だ。けれど、逃げるほどでもない距離。

 「最近、ちょっと注目されてるね」

 シルフは、天気の話をするみたいな調子で言った。

 「……そうかな」

 アンナは、否定も肯定もしなかった。

 シルフは、その反応を予想していたみたいに、続ける。

 「別に悪い意味じゃないよ。目立たない人が、急に誰かと一緒にいると、みんな気になるだけ」

 目立たない人。

 その言葉は、アンナの中で静かに沈んだ。

 「マリーは正しいし、ニッチはうるさいし、ハンバートは優しい」

 シルフは、誰かの評価を並べるように言った。

 「で、アンナは……わかりにくい」

 責める口調じゃない。

 むしろ、観察結果の報告だった。

 アンナは、言い返さなかった。

 わかりにくい、というのは、昔からよく言われてきた言葉だ。

 「でもね」

 シルフは、少しだけ声を落とした。

 「わかりにくい人のこと、みんな勝手に補完するんだよ」

 アンナは、その意味をすぐには掴めなかった。

 でも、嫌な予感だけは、確かにあった。

 「アンナが何も言わないから、みんなそれぞれ、アンナ像を作る」

 シルフは淡々と続ける。

 「ハンバートと仲がいいアンナ。マリーと距離があるアンナ。ニッチに何か言われたアンナ」

 どれも、完全な嘘ではない。

 でも、どれも、アンナそのものではなかった。

 「訂正しないの?」

 その問いは、責任を突きつけるものだった。

 アンナは、少し考えてから答えた。

 「……訂正するほど、はっきりしてない」

 シルフは、それを聞いて、少しだけ笑った。

 「だと思った」

 それ以上、何も言わなかった。

 シルフは洗面台に向かい、手を洗い、さっとその場を離れた。

 残されたアンナは、鏡に映る自分を見た。

 表情は、いつもと変わらない。安心するほど、変わっていない。

 でも、教室に戻ると、空気が少しだけ違っていた。

 誰かがアンナを見て、何かを判断している。その気配が、確かにあった。

 アンナは、その視線を受け止めなかった。

 でも、無視もできなかった。

 シルフは、知っている。

 誰が何を見て、何を言って、どこまで広がっているか。

 そして、そのすべてを、操作しない。

 それが、いちばん厄介だった。





第7章「エイデンの理屈」

 エイデンは、無駄なことを言わない。

 それは口数が少ないという意味じゃなく、言葉を使う前に、必要かどうかを必ず考える、という感じだった。

 アンナがエイデンとちゃんと話したのは、放課後の委員会決めのときだった。人が足りなくて、誰かが残らなければいけない場面。沈黙が続く中で、エイデンが口を開いた。

 「アンナ、時間ある?」

 名前を呼ばれた瞬間、アンナの中で小さく警戒心が立ち上がる。

 でも、エイデンの声には、圧も含みもなかった。

 「今日は特に予定ないって、さっき言ってたよね」

 事実の確認だった。

 アンナは、頷いた。

 「じゃあ、残るのが一番合理的」

 合理的。

 その言葉は、アンナの感情を一度、横に置く。

 「無理なら言って。強制じゃない」

 エイデンはそう付け加えた。

 でもアンナは、その言葉を「選択肢」としては受け取れなかった。

 「……大丈夫」

 そう答える自分の声を、少し遠くから聞いている感覚があった。

 委員会の作業中、エイデンは効率よく指示を出した。誰が何をやるべきか、どうすれば時間が短縮できるか。感情の入り込む余地はなく、作業はスムーズに進んだ。

 アンナは、そのやり方に安心していた。

 考えなくていい。感じなくていい。決められた通りに動けばいい。

 作業が終わり、教室に二人きりになる。

 「アンナってさ」

 エイデンは、ファイルを閉じながら言った。

 「自分のこと、後回しにするよね」

 その言葉は、ニッチの断言とも、ハンバートの親切とも違った。

 分析だった。

 「困ってるかどうか、聞かれたら否定する。でも、余裕があるようにも見えない」

 アンナは、返事ができなかった。

 否定したかった。でも、どこを否定すればいいのかわからなかった。

 「それ、悪いことじゃないよ」

 エイデンは、淡々と続ける。

 「ただ、長期的には負担が大きい」

 長期的。

 アンナは、その言葉のスケールについていけなかった。今日と明日で精一杯なのに。

 「理由、ある?」

 責める口調じゃない。

 でも、逃げ道もなかった。

 「……癖みたいなもの」

 アンナは、そう答えた。

 エイデンは少し考えてから頷く。

 「なら、直す必要はない」

 意外な言葉だった。

 「ただ、自覚した方がいい。自覚してるのと、してないのとじゃ、結果が変わる」

 アンナは、その言葉が少し怖かった。

 自覚する、というのは、弱さを認めることに近い。

 「アンナは、選ばないことでバランス取ってる」

 エイデンは、はっきり言った。

 「どっちも取らない。どっちも失わない。その代わり、どっちにも行けない」

 言葉は正確だった。

 正確すぎて、逃げ場がなかった。

 アンナは、机の端を指でなぞった。

 それが、図星だと認めるサインみたいで、少し嫌だった。

 「それでもいいと思うよ」

 エイデンは、少しだけ声を和らげた。

 「ただ、誰かが踏み込んできたとき、断れなくなる」

 ハンバートの顔が、一瞬だけ浮かぶ。

 アンナは、何も言わなかった。

 「論理的には、今のままだと不利」

 エイデンは、結論を述べた。

 その結論に、感情は含まれていない。

 アンナは、息を吐いた。

 責められている感じはしない。でも、守られている感じもしなかった。

 「ありがとう」

 そう言うと、エイデンは首を振った。

 「礼は要らない。共有しただけ」

 それが、エイデンなりの誠実さだった。

 帰り道、アンナは一人で考えていた。

 自分の弱さが、誰かの理屈で説明できてしまうこと。

 説明できるということは、管理できるということだ。

 それは、安心でもあり、恐怖でもあった。

 アンナはまだ、選ばない。

 でも、選ばない理由を、初めて言葉として突きつけられた。

 それが、静かに重く残っていた。




第8章「プルーストは覚えている」

 プルーストは、昔のことをよく覚えている。

 それは記憶力がいい、というより、忘れないことを選んでいる人の覚え方だった。

 アンナとプルーストは、中学が同じだった。

 クラスは違ったし、特別に仲が良かったわけでもない。ただ、名前と顔と、いくつかの場面を共有している。その程度の関係だ。

 それでも、プルーストはアンナを見つけると、少しだけ表情を変えた。

 「久しぶり」

 廊下でそう声をかけられたとき、アンナは一瞬、誰かわからなかった。

 でも、その声の抑揚で思い出す。

 「……プルースト?」

 名前を呼ぶと、プルーストは満足そうに頷いた。

 「覚えてたんだ」

 その言い方に、アンナは少しだけ居心地の悪さを感じた。

 覚えているのは当たり前のはずなのに、確認されると、重みが出る。

 プルーストは、今のクラスのことをあまり話さなかった。

 代わりに、中学の話をした。部活のこと、先生の癖、あのときの行事。アンナが意識的に思い出さないようにしていた断片を、丁寧に拾い上げる。

 「アンナってさ、あのときも、間に立ってたよね」

 その言葉で、アンナの中に、古い光景が浮かんだ。

 誰かが揉めていて、どちらの味方にもならず、ただ話を聞いていた自分。

 結局、何も変わらなくて、でも誰からも責められなかった、あの時間。

 「覚えてない?」

 プルーストは、責めるでもなく聞いた。

 アンナは、少し考えてから答える。

 「……覚えてる」

 覚えている。

 忘れたわけじゃない。しまい込んでいただけだ。

 「助かったって、あとで言われてたよ」

 プルーストは、当時のことのように言った。

 「アンナがいたから、爆発しなかったって」

 アンナは、その言葉に返す言葉を見つけられなかった。

 助けたつもりはなかった。ただ、逃げなかっただけだ。

 「今も、同じ感じする」

 プルーストは続ける。

 「誰にも肩入れしないで、場を保つ役」

 それは、エイデンの理屈と重なっていた。

 選ばないことで、崩れないようにする。

 「それ、しんどくない?」

 プルーストは、初めて感情を含んだ声で聞いた。

 アンナは、すぐに答えられなかった。

 しんどいかどうかを考える前に、それが当たり前になっていたからだ。

 「……慣れてる」

 それは、正直な答えだった。

 プルーストは、少しだけ困ったように笑った。

 「慣れるとさ、痛いのかわからなくなるよね」

 その言葉は、アンナの中で静かに波紋を広げた。

 痛いかどうか。考えたことがなかったわけじゃない。でも、考え続けると、動けなくなる。

 放課後、アンナは一人で帰りながら、昔の記憶を辿っていた。

 あの頃も、誰かの間に立って、何も選ばず、何も壊さずにいた。

 結果として、誰からも強く嫌われなかった。

 でも、誰かに深く覚えられることもなかった。

 プルーストだけが、覚えていた。

 それが、少しだけ、怖かった。

 覚えている、ということは、見ていた、ということだ。

 見られていた自分は、今の自分と、そんなに違わない。

 アンナは、歩きながら、自分の胸に手を当てた。

 痛みは、はっきりとはしない。でも、何も感じないわけでもない。

 選ばないことで守ってきたもの。

 同時に、置き去りにしてきたもの。

 プルーストの記憶は、それを静かに照らしていた。





第9章「マリーは崩れる」

 マリーが崩れたのは、突然ではなかった。

 でも、誰もその兆しを「崩れ」とは呼ばなかった。

 最初は、小さな遅れだった。

 朝のホームルームに、わずかに間に合わない。提出物の期限を、一日だけ過ぎる。どれも致命的ではないし、言い訳もできる範囲だった。

 それでも、アンナは気づいていた。

 マリーの正しさに、微細なズレが生じていることを。

 授業中、マリーは以前ほど発言しなくなった。

 問いかけがあっても、手を挙げる前に一瞬、躊躇する。その間が、アンナにははっきり見えた。

 正しさは、迷わないことじゃない。

 迷いを見せないことだ。

 マリーは、それができなくなっていた。

 昼休み、いつものように人が集まる席に、マリーの姿はなかった。

 代わりに、空いた椅子だけが残っている。

 「今日、どうしたんだろ」

 誰かが言った。

 心配というより、空白を埋めるための言葉だった。

 アンナは、返事をしなかった。

 なぜか、自分がその席に座ってはいけない気がした。

 午後の体育で、マリーは転んだ。

 派手ではない。足を取られて、バランスを崩しただけ。でも、そのまま立ち上がれなかった。

 保健室に運ばれる途中、マリーはアンナと目が合った。

 助けを求める視線ではない。ただ、見られた、という確認。

 アンナは、その視線から逃げなかった。

 逃げなかったけれど、何もできなかった。

 放課後、噂は静かに広がった。

 「疲れてるらしいよ」

 「真面目すぎたんじゃない?」

 「前から無理してたよね」

 すべて、もっともらしい言葉だった。

 正しさが崩れると、人は理由を用意したがる。

 アンナは、その輪の外にいた。

 シルフの視線が、一瞬だけこちらを向く。知っている、という目だった。

 その日、アンナは思い切って保健室に行った。

 理由ははっきりしない。ただ、行かないといけない気がした。

 ベッドのカーテンの向こうで、マリーは天井を見ていた。

 制服のまま、靴を脱いで、何もしていない。

 「……アンナ?」

 声は、少しだけ弱っていた。

 アンナは、頷く。

 「来てくれたんだ」

 その言葉に、アンナは戸惑った。

 来ることが、そんなに特別なことだと思われるとは思っていなかった。

 「大丈夫?」

 ありきたりな言葉しか出てこない。

 でも、今はそれでいい気がした。

 マリーは、少し間を置いてから言った。

 「大丈夫じゃないかも」

 それは、初めて聞く言葉だった。

 正しくないマリーの声。

 「ちゃんとしてたつもりだったんだけど」

 マリーは、視線を天井から外さなかった。

 「ちゃんとしてるって、誰のためなんだろうって、最近わからなくなって」

 アンナは、何も言わなかった。

 慰めも、否定も、用意できなかった。

 でも、黙って聞くことならできた。

 「アンナってさ」

 マリーは、ゆっくり言った。

 「何も言わないのに、ちゃんと見てるよね」

 その言葉に、アンナの胸が少しだけ締めつけられた。

 「それ、ずるいと思ってた」

 マリーは、小さく笑った。

 「私は、正しくいなきゃ存在できない気がしてたから」

 正しさの裏側。

 アンナは、それを初めて、はっきりと見た。

 「アンナは、壊れない場所にいる」

 マリーの声は、羨望に近かった。

 アンナは、首を振った。

 「……壊れないんじゃない。壊れたくないだけ」

 その言葉は、自然に出ていた。

 選ばない理由を、初めて他人に向けて口にした。

 マリーは、その言葉を、ゆっくり受け取った。

 「そっか」

 それだけ言って、目を閉じた。

 保健室を出たあと、アンナは廊下を歩きながら考えていた。

 正しさは、強さじゃない。

 弱さを隠すための形でもある。

 マリーが崩れたことで、アンナの立っていた場所も、少し揺れた。

 選ばないことで保ってきた均衡が、絶対ではないと知ってしまったからだ。

 それでもアンナは、まだ決めない。

 でも、何かが終わりに近づいている予感は、確かにあった。





第10章 アンナは、笑うのが下手だった

アンナは、自分が弱い人間だということを、わりと早い段階で理解していた。

怒鳴り返せない。言い返せない。空気が悪くなると、無意識に自分の存在を薄くしようとする。教室の中でアンナは、いつも「いないふり」がうまかった。

都内の私立高校。校舎は新しく、ガラス張りの廊下はやけに明るい。明るすぎる場所では、影はくっきりと浮かび上がる。アンナはその影の側だった。

成績は悪くない。欠席もほとんどない。教師から見れば「手のかからない生徒」。

けれどそれは、何も言わないという意味での優等生だった。

クラスメイトのマリーは、正反対だった。

声が大きく、よく笑い、中心にいる。悪気なく人の輪郭を踏み越えるタイプで、アンナのことも「アンナって大人しいよね」と軽く分類していた。

「ねえアンナ、これ配るの手伝って」

断れなかった。

断る理由が見つからなかったし、断ったあとの空気を想像するほうが怖かった。

放課後、委員会の資料を配り終えた廊下で、アンナは一人になった。窓の外では、部活の掛け声が響いている。生きている音がする、とアンナは思った。

――私は、生きてるのかな。

そんなことを考える自分が、少し大げさに思えて、すぐに首を振った。

そのとき、階段の踊り場で誰かが言い争う声がした。

「だからさ、そういうのウザいって言ってんじゃん」

男の声。

続いて、低く押し殺した声が返る。

「……別に、あなたに関係ないでしょ」

アンナは立ち止まった。

聞いてはいけない気がした。でも、足が動かなかった。

そこにいたのは、同じ学年のアンナと、名前だけ知っている男子――エイデンだった。

成績優秀で、教師ウケが良く、笑顔が上手な生徒。表向きは。

「被害者ぶるのやめなよ。そういうの、みんな困ってるから」

エイデンの声は穏やかだった。だからこそ、残酷だった。

アンナは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。

それは怒りではなく、既視感だった。

――ああ、これだ。

言葉を奪われる瞬間。

相手が正しく見えて、自分だけがおかしい気がしてくる、この感じ。

アンナは何もできなかった。

声を出せなかったし、割って入る勇気もなかった。

ただ、その場面を「見てしまった」ことだけが、あとから重くのしかかってきた。

その日の帰り道、アンナはスマホを握りしめながら歩いた。

誰かにメッセージを送りたかった。でも、送る相手も、送る言葉もなかった。

家に着いて、制服を脱ぎ、ベッドに座り込む。

鏡に映った自分の顔は、ちゃんと笑っているようで、どこか空っぽだった。

「弱いな……」

小さく呟いて、アンナは口を閉じた。

弱いことを責める声は、もう十分すぎるほど、内側にあった。

それでも。

あの階段の踊り場で見た光景が、何度も頭に浮かぶ。

アンナはまだ知らなかった。

この「見てしまったこと」が、彼女の静かな日常を、少しずつ壊していく引き金になることを。

そして――

弱さを抱えたまま、選ばなければならない瞬間が、必ず来るということを。





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