沈黙は罪ですか?
第1章「入学式では何も起きない」
入学式の日の校舎は、よくできた背景画みたいだった。
新しいのに新しく感じない白い壁、均等に並んだ窓、誰かの緊張を吸い取るような天井の高さ。アンナはその中を、流れに逆らわない程度の速さで歩いていた。
制服の袖が少しだけ長い。直すほどでもないし、誰かに指摘されるほどでもない。そういう「ちょうどいいズレ」を、アンナは昔から選んできた。目立たず、でも完全には埋もれない位置。誰にも文句を言われない場所。
体育館に入ると、すでに何列もの椅子が並べられていて、前の方から順に生徒が座らされていた。係の教師は淡々としていて、声に感情がない。それがアンナにはありがたかった。期待も失望も含まれていない声は、安全だった。
座ると、周囲の気配が一斉に近づいた気がした。制服の布が擦れる音、カバンのファスナー、誰かの短い笑い声。どれも大きくはないのに、重なり合って、頭の奥でざわつく。
アンナは前を向いたまま、呼吸の回数を数えた。
こういうとき、考えすぎると失敗する。失敗というのは、泣くとか、倒れるとか、そういう大げさなことじゃない。ただ、顔に出る。それだけで十分だった。
壇上では校長が話し始めていた。未来だとか可能性だとか、聞き慣れた単語が、整列して流れていく。アンナはそれを意味として受け取らず、音として聞いた。そうすると、どれも同じ高さの波になる。
斜め前の席の女子が、何度か後ろを振り返った。視線が合いそうになるたび、アンナはわずかに焦点をずらす。見られること自体が嫌なわけじゃない。ただ、見られたあとに何かを期待されるのが、少し怖い。
入学式は予定通り進み、予定通り終わった。拍手のタイミングも、立ち上がる順番も、すべて決められていた通りだ。誰かが取り返しのつかないことをする気配はなかった。
それでいい、とアンナは思った。
何も起きない日は、うまくいった日だ。
クラス分けの掲示を見るために、人だかりができていた。アンナは少し距離を取り、端の方から名前を探す。自分の名前は、いつも思っているよりもあっさり見つかる。
アンナ・ギルド。
その文字を見た瞬間、胸の奥が一瞬だけ冷えた。理由はわからない。たぶん、知らない場所に自分の居場所が決められている、という事実そのものが、まだ体に馴染んでいないだけだ。
教室に入ると、また椅子と机が整然と並んでいた。窓際の席、中央の列、黒板の前。アンナは後ろから二列目の、廊下側に座った。逃げ道がある席だ、と無意識に思う。
周囲では、すでに小さな会話が始まっていた。出身中学の話、部活の話、誰が可愛いか、誰が面白そうか。アンナはそのどれにも参加せず、机の上に手を置いて、指先の感覚に意識を集中させた。
弱い、という自覚はあった。
でもそれは、壊れているという意味じゃない。壊れないために、選んできた結果だ。
チャイムが鳴る。
また、何も起きない一日が始まる。
第2章「名前を呼ばれる」
出席番号順に、名前が呼ばれていった。
担任の声は少し低く、教室の端まで届くように抑揚がつけられている。その抑揚が、アンナには余計に不安を煽った。名前という短い音に、意味以上の重さが乗せられている気がする。
呼ばれた生徒は、手を挙げて短く返事をする。「はい」と言う声の高さや速さが、それぞれ微妙に違っていて、アンナはそこに無意識に耳を澄ませていた。元気すぎる声、緊張で裏返った声、すでに慣れたような落ち着いた声。
どの声も、ここに来た理由を持っているように聞こえた。
名前が一つ進むごとに、アンナの背中が少しずつ硬くなる。呼ばれるのはわかっているのに、その瞬間を待つのは、思っていたより消耗する作業だった。逃げ道のある席を選んだはずなのに、今は椅子に縫い止められている気分だった。
「……アンナ・ギルド」
一瞬、時間が薄く伸びた。
自分の名前が、自分のものじゃない音として教室に落ちる。その感覚は、何度経験しても慣れない。
「はい」
声は、思ったよりも安定していた。
それが少しだけ、怖かった。平気なふりが、あまりにも自然にできてしまったから。
担任は特に反応を示さず、次の名前を呼んだ。アンナの返事は、もう教室の空気に溶けている。誰かが振り返る気配がしたけれど、視線が刺さるほどではなかった。
それでいい、とアンナは思った。
印象に残らないのは、失敗じゃない。
出席確認が終わると、担任は簡単な説明を始めた。校則、提出物、これからの予定。重要なはずの話なのに、内容は頭に残らない。ただ、「これから」という言葉だけが、何度も耳に引っかかった。
アンナはノートを開き、文字を書くふりをした。実際には、意味のない線を引いているだけだ。手を動かしていないと、名前を呼ばれた余韻が、胸の奥から浮かび上がってきそうだった。
名前を呼ばれる、というのは、不思議な行為だ。
存在を確認されること。
ここにいると、はっきり言われること。
アンナはそれを、必要以上に重く受け取ってしまう。名前を呼ばれたあとに、何かを期待されている気がしてしまうのだ。ちゃんと振る舞うこと、間違えないこと、壊れないこと。
休み時間になると、教室の空気が一気に緩んだ。椅子が引かれ、机が鳴り、声が重なる。アンナの周りでも、何人かが顔を寄せ合って話し始めた。
「さっきの自己紹介、緊張したよね」
隣の席の女子が、アンナに向かってそう言った。
一瞬、言葉の意味を測る。これは会話の入口だ、と理解するまでに、わずかな間が必要だった。
「……うん」
短く返す。否定でも肯定でもない、曖昧な返事。相手はそれを気にした様子もなく、別の話題を続けた。アンナはその声を聞きながら、胸の奥で小さく息をついた。
呼ばれた名前は、もう過去のものになっている。
でも、消えたわけじゃない。
アンナは、自分の名前がまた呼ばれる日を、すでに想像していた。
次は、どんな場面で、どんな声で、どんな意味を背負わされるのか。
それを考えないようにしながら、アンナは窓の外を見た。校庭では、誰かが走っている。理由も目的もわからないけれど、確かに動いている姿だった。
名前を呼ばれただけで、世界は少しだけ近づく。
それが、アンナにはまだ、重い。
第3章「マリーは正しい」
マリーは、最初からそこにいたみたいな顔をしていた。
教室の中央、黒板がよく見える席。背筋は伸びていて、話すときも無駄に声を張らない。先生が質問をすると、少しだけ間を置いてから、ちょうどいい長さで答える。
正しい、と思った。
アンナがそう判断するまでに、時間はかからなかった。
マリーの言葉には、余計な揺れがない。曖昧さを避けるように選ばれた単語、聞いている側が安心する語尾。誰かを置いていかないように配慮されているのに、迎合している感じはしない。
クラスの空気が、少しずつマリーを中心に整っていくのがわかった。
アンナは、その様子を廊下側の席から眺めていた。
近づこうと思えば近づける距離。でも、わざわざ動く理由は見つからない。
自己紹介の時間、マリーは名前と出身中学、それから「人と話すのが好きです」と言った。ありふれた内容なのに、不思議と軽く聞こえなかった。言葉と態度が、きちんと一致していたからだと思う。
数人が頷き、誰かが微笑んだ。
マリーはそれを当然の反応として受け取り、必要以上に喜びもしなかった。
アンナの番が来たとき、教室はすでに落ち着いていた。
マリーが作った空気の中で、アンナは立ち上がる。
「アンナです。……よろしくお願いします」
それだけ言って、座った。
それで終わりだ。質問も、反応もない。アンナは胸の奥で、小さく安堵した。
休み時間になると、何人かがマリーの席に集まった。
部活の話、委員会の話、授業のこと。マリーは一つひとつに丁寧に答え、時々相手に質問を返す。そのやり取りは、見ていて引っかかりがなかった。
正しい振る舞い。
正しい距離感。
正しい関心。
アンナはそれを、少しだけ羨ましいと思った。
マリーの正しさは、努力の結果に見えた。
生まれつきでも、無理をしている感じでもない。「そうしたほうがいいと知っている」人の振る舞いだった。
昼休み、アンナが一人でパンを食べていると、マリーが声をかけてきた。
「隣、いい?」
断る理由はなかった。
アンナは小さく頷く。
「さっきの自己紹介、緊張した?」
マリーの声は、柔らかい。でも踏み込みすぎない。
答えやすい質問だ、とアンナは思った。
「少し」
嘘ではないし、全部でもない。
「わかる。最初って、どうしてもね」
マリーはそう言って、笑った。その笑顔には、同情も評価も含まれていなかった。ただの共有だ。
アンナは、その点にも感心した。
正しさは、相手を測らない。
しばらく他愛のない話をしたあと、マリーは席を立った。
「またね」と言って。
その言葉が、自然すぎて、アンナは少しだけ戸惑った。
「また」が、本当に来る前提で使われる言葉だということを、忘れかけていたから。
マリーが去ったあと、アンナは自分の手元を見つめた。
正しい人のそばにいると、自分の曖昧さが浮き彫りになる。
でも、不快ではなかった。
責められていないし、急かされてもいない。
ただ、自分はマリーにはなれない、と静かに理解しただけだ。
アンナの弱さは、正しさの外側にある。
それはまだ、言葉にならない。
けれど、マリーの存在によって、輪郭だけが少しはっきりした。
教室のチャイムが鳴る。
マリーは、もう前を向いている。
アンナも、同じように前を向いた。
正しさの中に入らないまま。
第4章「ニッチは断言する」
ニッチは、最初から浮いていた。
制服はきちんと着ているのに、なぜか校則の外にいるように見える。姿勢が悪いわけでも、態度が乱暴なわけでもない。ただ、周囲と同じ方向を向いていなかった。
最初にそれに気づいたのは、現代文の授業だった。
教師が黒板に書いた問いは、正解が一つに見えない種類のものだった。登場人物の行動をどう解釈するか、なぜその選択をしたのか。教室には沈黙が落ちる。誰もが、間違えない答えを探している沈黙。
その中で、ニッチは手を挙げた。
「それ、意味ありますか?」
教室の空気が、わずかに歪んだ。
教師は一瞬だけ言葉に詰まり、それから問い返す。
「どういう意味かな」
「作者の意図とか、考えても無駄じゃないですか。読んだ人がどう感じたかで全部違うし。正解を決めようとするのが、もうズレてる」
言い切る声だった。
強くも大きくもないのに、断定だけがはっきりしている。
数人が顔を見合わせ、誰かが小さく笑った。冗談として受け取ろうとする反応。でもニッチは、笑いに寄せなかった。視線は教師に向いたまま、揺れない。
「でも、考えること自体に意味があるんだよ」
教師はそうまとめて、先に進もうとした。
ニッチはそれ以上、何も言わなかった。
アンナは、そのやり取りを見ながら、胸の奥が少しざわつくのを感じていた。
ニッチの言葉は、乱暴だった。でも、間違っているとも思えなかった。
休み時間、教室の後ろの方で、ニッチの話題が出ていた。
「なんかさ、めんどくさくない?」
「空気読まなすぎ」
「でも、ちょっとスッとした」
評価は割れていた。
マリーはその輪の少し外で、黙って聞いていた。否定も肯定もしない。その態度が、余計に「正しい側」に見えた。
アンナは、自分がどこに立っているのかわからなかった。
ニッチの断言に救われる気もしたし、同時に怖くもあった。
断言するということは、逃げ道を消すことだ。
少なくとも、アンナにはそう思えた。
昼休み、アンナが廊下で自販機の前に立っていると、ニッチが隣に来た。
特に挨拶もなく、ボタンを押す。
「アンナだっけ」
名前を呼ばれて、心臓が一拍遅れた。
ニッチはアンナの反応を気にする様子もなく、続ける。
「さっきの授業、どう思った?」
問いは直接的だった。
逃げるための選択肢が、用意されていない。
「……難しいなって」
アンナはそう答えた。
本当のことだったし、便利な言葉でもあった。
「でしょ。みんな、難しいって言えば安全だから」
ニッチはそう言って、缶を受け取った。
責める口調ではない。ただの事実確認のようだった。
アンナは、それ以上何も言えなかった。
ニッチの言葉は、アンナが普段隠している部分に、触れかけていた。
弱いから、曖昧にする。
壊れたくないから、選ばない。
ニッチは、それを一言で切り捨ててしまいそうだった。
「別に、はっきりしなくてもいいけどさ」
ニッチは、意外にもそう付け加えた。
「ただ、わからないなら、わからないって言えばいいと思う。どっちつかずでいるよりは」
それは、助言なのか、挑発なのか。
アンナには判断がつかなかった。
ニッチは先に立ち去った。
アンナは自販機の前に残り、選ばなかった飲み物のボタンを見つめた。
断言する人は、強い。
でも、強さはいつも正しさと同じ形をしているわけじゃない。
アンナはその日、自分が「断言できない側」の人間だということを、改めて自覚していた。
そしてそれを、まだ手放す気にはなれなかった。
第5章「ハンバートの親切」
ハンバートの親切は、音を立てずに近づいてくる。
気づいたときには、もう隣にいる、というタイプだった。
最初は、プリントだった。
アンナが机の中を探していると、すっと紙が差し出される。
「これ、さっき配られてたやつ」
声は低めで、穏やかだった。
助けてもらった、というほど大げさでもない。でも、無視できるほど小さくもない。
「ありがとう」
アンナがそう言うと、ハンバートは軽く笑った。
その笑い方に、裏はなかった。少なくとも、アンナにはそう見えた。
ハンバートは、よく周囲を見ていた。
誰が忘れ物をしたか、誰が居心地悪そうにしているか、誰が話の輪から外れているか。気づいていないふりをしている人より、よほど多くのことを把握している。
それを、使わない人だった。
だから余計に、安心できた。
昼休み、アンナが一人で席に残っていると、ハンバートは向かいの椅子に座った。
断りも確認もない。自然すぎて、拒否するタイミングがなかった。
「一人、平気?」
その聞き方は、ずるいと思った。
「平気じゃない?」でも「一人が好き?」でもない。どちらでも逃げられる問い。
「……平気」
アンナはそう答えた。
ハンバートは頷いて、それ以上踏み込まなかった。
しばらく、どうでもいい話をした。授業が眠いとか、購買のパンがすぐなくなるとか。アンナが相槌を打つたびに、ハンバートは満足そうに話を続ける。
その時間は、悪くなかった。
でも、少しだけ、疲れた。
ハンバートの親切は、常にアンナの反応を待っている。
返事をしなければ気まずくなるし、応えれば関係が一歩進む。その「一歩」が、アンナには重い。
放課後、アンナが一人で帰ろうとすると、ハンバートが追いついてきた。
「方向、一緒だよね」
確認の形をした断定だった。
アンナは、頷くしかなかった。
並んで歩く距離は、ちょうどいい。近すぎず、遠すぎない。ハンバートはアンナの歩幅に合わせているようだった。それが、ありがたくもあり、少し怖くもあった。
「アンナってさ」
名前を呼ばれる。
第2章の感覚が、胸の奥で小さく動いた。
「無理しないよね」
それは、褒め言葉の形をしていた。
でもアンナは、すぐに返事ができなかった。
無理をしていないのか。
それとも、無理ができないだけなのか。
「そうかな」
曖昧に返すと、ハンバートは笑った。
「それがいいんだと思う」
いい、という言葉が、アンナの中で引っかかった。
誰にとって、いいのか。
何に対して、いいのか。
ハンバートは、それ以上説明しなかった。
説明しない優しさは、時々、説明されるより厄介だ。
駅前で別れるとき、ハンバートは言った。
「困ったら、言って。俺、気づくの得意だから」
その言葉は、頼もしくもあり、少しだけ支配的だった。
気づかれる前提でいること。助けられる可能性を、最初から含んでいること。
アンナは、小さく頷いた。
帰り道、一人になると、胸が少しだけ軽くなった。
同時に、罪悪感のようなものが残る。
ハンバートは、何も悪くない。
親切だったし、優しかった。
それでもアンナは、自分の弱さが、誰かの親切を呼び寄せてしまうことを、どこかで知っていた。
助けを求めているように見えるのかもしれない。
実際、完全に否定はできない。
アンナは、親切を拒むほど強くもなければ、受け入れるほど無防備でもなかった。
その中間で、いつも立ち止まっている。
ハンバートの親切は、その場所を正確に見抜いていた。
それが、少しだけ、怖かった。
第6章「シルフは知っている」
シルフは、いつも少し離れたところにいる。
教室の中心にも、完全な端にもならない位置。誰かの隣に座っていても、その人の一部にはならない。不思議と、そういう距離感を保っていた。
アンナがシルフの存在を意識したのは、自分の名前が、知らないところで使われている気配を感じたときだった。
直接聞いたわけじゃない。
ただ、視線が一瞬だけ集まって、すぐに逸れる。話していた声が、アンナの前で途切れる。そういう小さな断片が、いくつか重なった。
原因は、シルフだと直感した。
シルフは、何かを広めるために話す人じゃない。
ただ、知っていることを、知っている相手に渡す。それだけだ。噂話というより、情報の移動に近い。
「アンナってさ」
昼休み、後ろの席から声が聞こえた。
名前が出た瞬間、アンナの背中が少し強張る。
「ハンバートと一緒に帰ってるよね」
それは、事実だった。
でも、事実はいつも、少しずつ形を変える。
「仲いいんじゃない?」
軽い調子だった。悪意は感じられない。
アンナは振り返らず、曖昧に笑った。
その日の午後、アンナは廊下でシルフとすれ違った。
シルフは、アンナの方を一瞬だけ見て、軽く会釈した。それだけだった。
呼び止める理由も、責める理由もない。
シルフは何もしていない。少なくとも、意図的には。
アンナは、その無関心さに近い態度が、少し羨ましかった。
放課後、トイレの前で、シルフと二人きりになった。
偶然だ。けれど、逃げるほどでもない距離。
「最近、ちょっと注目されてるね」
シルフは、天気の話をするみたいな調子で言った。
「……そうかな」
アンナは、否定も肯定もしなかった。
シルフは、その反応を予想していたみたいに、続ける。
「別に悪い意味じゃないよ。目立たない人が、急に誰かと一緒にいると、みんな気になるだけ」
目立たない人。
その言葉は、アンナの中で静かに沈んだ。
「マリーは正しいし、ニッチはうるさいし、ハンバートは優しい」
シルフは、誰かの評価を並べるように言った。
「で、アンナは……わかりにくい」
責める口調じゃない。
むしろ、観察結果の報告だった。
アンナは、言い返さなかった。
わかりにくい、というのは、昔からよく言われてきた言葉だ。
「でもね」
シルフは、少しだけ声を落とした。
「わかりにくい人のこと、みんな勝手に補完するんだよ」
アンナは、その意味をすぐには掴めなかった。
でも、嫌な予感だけは、確かにあった。
「アンナが何も言わないから、みんなそれぞれ、アンナ像を作る」
シルフは淡々と続ける。
「ハンバートと仲がいいアンナ。マリーと距離があるアンナ。ニッチに何か言われたアンナ」
どれも、完全な嘘ではない。
でも、どれも、アンナそのものではなかった。
「訂正しないの?」
その問いは、責任を突きつけるものだった。
アンナは、少し考えてから答えた。
「……訂正するほど、はっきりしてない」
シルフは、それを聞いて、少しだけ笑った。
「だと思った」
それ以上、何も言わなかった。
シルフは洗面台に向かい、手を洗い、さっとその場を離れた。
残されたアンナは、鏡に映る自分を見た。
表情は、いつもと変わらない。安心するほど、変わっていない。
でも、教室に戻ると、空気が少しだけ違っていた。
誰かがアンナを見て、何かを判断している。その気配が、確かにあった。
アンナは、その視線を受け止めなかった。
でも、無視もできなかった。
シルフは、知っている。
誰が何を見て、何を言って、どこまで広がっているか。
そして、そのすべてを、操作しない。
それが、いちばん厄介だった。
第7章「エイデンの理屈」
エイデンは、無駄なことを言わない。
それは口数が少ないという意味じゃなく、言葉を使う前に、必要かどうかを必ず考える、という感じだった。
アンナがエイデンとちゃんと話したのは、放課後の委員会決めのときだった。人が足りなくて、誰かが残らなければいけない場面。沈黙が続く中で、エイデンが口を開いた。
「アンナ、時間ある?」
名前を呼ばれた瞬間、アンナの中で小さく警戒心が立ち上がる。
でも、エイデンの声には、圧も含みもなかった。
「今日は特に予定ないって、さっき言ってたよね」
事実の確認だった。
アンナは、頷いた。
「じゃあ、残るのが一番合理的」
合理的。
その言葉は、アンナの感情を一度、横に置く。
「無理なら言って。強制じゃない」
エイデンはそう付け加えた。
でもアンナは、その言葉を「選択肢」としては受け取れなかった。
「……大丈夫」
そう答える自分の声を、少し遠くから聞いている感覚があった。
委員会の作業中、エイデンは効率よく指示を出した。誰が何をやるべきか、どうすれば時間が短縮できるか。感情の入り込む余地はなく、作業はスムーズに進んだ。
アンナは、そのやり方に安心していた。
考えなくていい。感じなくていい。決められた通りに動けばいい。
作業が終わり、教室に二人きりになる。
「アンナってさ」
エイデンは、ファイルを閉じながら言った。
「自分のこと、後回しにするよね」
その言葉は、ニッチの断言とも、ハンバートの親切とも違った。
分析だった。
「困ってるかどうか、聞かれたら否定する。でも、余裕があるようにも見えない」
アンナは、返事ができなかった。
否定したかった。でも、どこを否定すればいいのかわからなかった。
「それ、悪いことじゃないよ」
エイデンは、淡々と続ける。
「ただ、長期的には負担が大きい」
長期的。
アンナは、その言葉のスケールについていけなかった。今日と明日で精一杯なのに。
「理由、ある?」
責める口調じゃない。
でも、逃げ道もなかった。
「……癖みたいなもの」
アンナは、そう答えた。
エイデンは少し考えてから頷く。
「なら、直す必要はない」
意外な言葉だった。
「ただ、自覚した方がいい。自覚してるのと、してないのとじゃ、結果が変わる」
アンナは、その言葉が少し怖かった。
自覚する、というのは、弱さを認めることに近い。
「アンナは、選ばないことでバランス取ってる」
エイデンは、はっきり言った。
「どっちも取らない。どっちも失わない。その代わり、どっちにも行けない」
言葉は正確だった。
正確すぎて、逃げ場がなかった。
アンナは、机の端を指でなぞった。
それが、図星だと認めるサインみたいで、少し嫌だった。
「それでもいいと思うよ」
エイデンは、少しだけ声を和らげた。
「ただ、誰かが踏み込んできたとき、断れなくなる」
ハンバートの顔が、一瞬だけ浮かぶ。
アンナは、何も言わなかった。
「論理的には、今のままだと不利」
エイデンは、結論を述べた。
その結論に、感情は含まれていない。
アンナは、息を吐いた。
責められている感じはしない。でも、守られている感じもしなかった。
「ありがとう」
そう言うと、エイデンは首を振った。
「礼は要らない。共有しただけ」
それが、エイデンなりの誠実さだった。
帰り道、アンナは一人で考えていた。
自分の弱さが、誰かの理屈で説明できてしまうこと。
説明できるということは、管理できるということだ。
それは、安心でもあり、恐怖でもあった。
アンナはまだ、選ばない。
でも、選ばない理由を、初めて言葉として突きつけられた。
それが、静かに重く残っていた。
第8章「プルーストは覚えている」
プルーストは、昔のことをよく覚えている。
それは記憶力がいい、というより、忘れないことを選んでいる人の覚え方だった。
アンナとプルーストは、中学が同じだった。
クラスは違ったし、特別に仲が良かったわけでもない。ただ、名前と顔と、いくつかの場面を共有している。その程度の関係だ。
それでも、プルーストはアンナを見つけると、少しだけ表情を変えた。
「久しぶり」
廊下でそう声をかけられたとき、アンナは一瞬、誰かわからなかった。
でも、その声の抑揚で思い出す。
「……プルースト?」
名前を呼ぶと、プルーストは満足そうに頷いた。
「覚えてたんだ」
その言い方に、アンナは少しだけ居心地の悪さを感じた。
覚えているのは当たり前のはずなのに、確認されると、重みが出る。
プルーストは、今のクラスのことをあまり話さなかった。
代わりに、中学の話をした。部活のこと、先生の癖、あのときの行事。アンナが意識的に思い出さないようにしていた断片を、丁寧に拾い上げる。
「アンナってさ、あのときも、間に立ってたよね」
その言葉で、アンナの中に、古い光景が浮かんだ。
誰かが揉めていて、どちらの味方にもならず、ただ話を聞いていた自分。
結局、何も変わらなくて、でも誰からも責められなかった、あの時間。
「覚えてない?」
プルーストは、責めるでもなく聞いた。
アンナは、少し考えてから答える。
「……覚えてる」
覚えている。
忘れたわけじゃない。しまい込んでいただけだ。
「助かったって、あとで言われてたよ」
プルーストは、当時のことのように言った。
「アンナがいたから、爆発しなかったって」
アンナは、その言葉に返す言葉を見つけられなかった。
助けたつもりはなかった。ただ、逃げなかっただけだ。
「今も、同じ感じする」
プルーストは続ける。
「誰にも肩入れしないで、場を保つ役」
それは、エイデンの理屈と重なっていた。
選ばないことで、崩れないようにする。
「それ、しんどくない?」
プルーストは、初めて感情を含んだ声で聞いた。
アンナは、すぐに答えられなかった。
しんどいかどうかを考える前に、それが当たり前になっていたからだ。
「……慣れてる」
それは、正直な答えだった。
プルーストは、少しだけ困ったように笑った。
「慣れるとさ、痛いのかわからなくなるよね」
その言葉は、アンナの中で静かに波紋を広げた。
痛いかどうか。考えたことがなかったわけじゃない。でも、考え続けると、動けなくなる。
放課後、アンナは一人で帰りながら、昔の記憶を辿っていた。
あの頃も、誰かの間に立って、何も選ばず、何も壊さずにいた。
結果として、誰からも強く嫌われなかった。
でも、誰かに深く覚えられることもなかった。
プルーストだけが、覚えていた。
それが、少しだけ、怖かった。
覚えている、ということは、見ていた、ということだ。
見られていた自分は、今の自分と、そんなに違わない。
アンナは、歩きながら、自分の胸に手を当てた。
痛みは、はっきりとはしない。でも、何も感じないわけでもない。
選ばないことで守ってきたもの。
同時に、置き去りにしてきたもの。
プルーストの記憶は、それを静かに照らしていた。
第9章「マリーは崩れる」
マリーが崩れたのは、突然ではなかった。
でも、誰もその兆しを「崩れ」とは呼ばなかった。
最初は、小さな遅れだった。
朝のホームルームに、わずかに間に合わない。提出物の期限を、一日だけ過ぎる。どれも致命的ではないし、言い訳もできる範囲だった。
それでも、アンナは気づいていた。
マリーの正しさに、微細なズレが生じていることを。
授業中、マリーは以前ほど発言しなくなった。
問いかけがあっても、手を挙げる前に一瞬、躊躇する。その間が、アンナにははっきり見えた。
正しさは、迷わないことじゃない。
迷いを見せないことだ。
マリーは、それができなくなっていた。
昼休み、いつものように人が集まる席に、マリーの姿はなかった。
代わりに、空いた椅子だけが残っている。
「今日、どうしたんだろ」
誰かが言った。
心配というより、空白を埋めるための言葉だった。
アンナは、返事をしなかった。
なぜか、自分がその席に座ってはいけない気がした。
午後の体育で、マリーは転んだ。
派手ではない。足を取られて、バランスを崩しただけ。でも、そのまま立ち上がれなかった。
保健室に運ばれる途中、マリーはアンナと目が合った。
助けを求める視線ではない。ただ、見られた、という確認。
アンナは、その視線から逃げなかった。
逃げなかったけれど、何もできなかった。
放課後、噂は静かに広がった。
「疲れてるらしいよ」
「真面目すぎたんじゃない?」
「前から無理してたよね」
すべて、もっともらしい言葉だった。
正しさが崩れると、人は理由を用意したがる。
アンナは、その輪の外にいた。
シルフの視線が、一瞬だけこちらを向く。知っている、という目だった。
その日、アンナは思い切って保健室に行った。
理由ははっきりしない。ただ、行かないといけない気がした。
ベッドのカーテンの向こうで、マリーは天井を見ていた。
制服のまま、靴を脱いで、何もしていない。
「……アンナ?」
声は、少しだけ弱っていた。
アンナは、頷く。
「来てくれたんだ」
その言葉に、アンナは戸惑った。
来ることが、そんなに特別なことだと思われるとは思っていなかった。
「大丈夫?」
ありきたりな言葉しか出てこない。
でも、今はそれでいい気がした。
マリーは、少し間を置いてから言った。
「大丈夫じゃないかも」
それは、初めて聞く言葉だった。
正しくないマリーの声。
「ちゃんとしてたつもりだったんだけど」
マリーは、視線を天井から外さなかった。
「ちゃんとしてるって、誰のためなんだろうって、最近わからなくなって」
アンナは、何も言わなかった。
慰めも、否定も、用意できなかった。
でも、黙って聞くことならできた。
「アンナってさ」
マリーは、ゆっくり言った。
「何も言わないのに、ちゃんと見てるよね」
その言葉に、アンナの胸が少しだけ締めつけられた。
「それ、ずるいと思ってた」
マリーは、小さく笑った。
「私は、正しくいなきゃ存在できない気がしてたから」
正しさの裏側。
アンナは、それを初めて、はっきりと見た。
「アンナは、壊れない場所にいる」
マリーの声は、羨望に近かった。
アンナは、首を振った。
「……壊れないんじゃない。壊れたくないだけ」
その言葉は、自然に出ていた。
選ばない理由を、初めて他人に向けて口にした。
マリーは、その言葉を、ゆっくり受け取った。
「そっか」
それだけ言って、目を閉じた。
保健室を出たあと、アンナは廊下を歩きながら考えていた。
正しさは、強さじゃない。
弱さを隠すための形でもある。
マリーが崩れたことで、アンナの立っていた場所も、少し揺れた。
選ばないことで保ってきた均衡が、絶対ではないと知ってしまったからだ。
それでもアンナは、まだ決めない。
でも、何かが終わりに近づいている予感は、確かにあった。
第10章 アンナは、笑うのが下手だった
アンナは、自分が弱い人間だということを、わりと早い段階で理解していた。
怒鳴り返せない。言い返せない。空気が悪くなると、無意識に自分の存在を薄くしようとする。教室の中でアンナは、いつも「いないふり」がうまかった。
都内の私立高校。校舎は新しく、ガラス張りの廊下はやけに明るい。明るすぎる場所では、影はくっきりと浮かび上がる。アンナはその影の側だった。
成績は悪くない。欠席もほとんどない。教師から見れば「手のかからない生徒」。
けれどそれは、何も言わないという意味での優等生だった。
クラスメイトのマリーは、正反対だった。
声が大きく、よく笑い、中心にいる。悪気なく人の輪郭を踏み越えるタイプで、アンナのことも「アンナって大人しいよね」と軽く分類していた。
「ねえアンナ、これ配るの手伝って」
断れなかった。
断る理由が見つからなかったし、断ったあとの空気を想像するほうが怖かった。
放課後、委員会の資料を配り終えた廊下で、アンナは一人になった。窓の外では、部活の掛け声が響いている。生きている音がする、とアンナは思った。
――私は、生きてるのかな。
そんなことを考える自分が、少し大げさに思えて、すぐに首を振った。
そのとき、階段の踊り場で誰かが言い争う声がした。
「だからさ、そういうのウザいって言ってんじゃん」
男の声。
続いて、低く押し殺した声が返る。
「……別に、あなたに関係ないでしょ」
アンナは立ち止まった。
聞いてはいけない気がした。でも、足が動かなかった。
そこにいたのは、同じ学年のアンナと、名前だけ知っている男子――エイデンだった。
成績優秀で、教師ウケが良く、笑顔が上手な生徒。表向きは。
「被害者ぶるのやめなよ。そういうの、みんな困ってるから」
エイデンの声は穏やかだった。だからこそ、残酷だった。
アンナは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
それは怒りではなく、既視感だった。
――ああ、これだ。
言葉を奪われる瞬間。
相手が正しく見えて、自分だけがおかしい気がしてくる、この感じ。
アンナは何もできなかった。
声を出せなかったし、割って入る勇気もなかった。
ただ、その場面を「見てしまった」ことだけが、あとから重くのしかかってきた。
その日の帰り道、アンナはスマホを握りしめながら歩いた。
誰かにメッセージを送りたかった。でも、送る相手も、送る言葉もなかった。
家に着いて、制服を脱ぎ、ベッドに座り込む。
鏡に映った自分の顔は、ちゃんと笑っているようで、どこか空っぽだった。
「弱いな……」
小さく呟いて、アンナは口を閉じた。
弱いことを責める声は、もう十分すぎるほど、内側にあった。
それでも。
あの階段の踊り場で見た光景が、何度も頭に浮かぶ。
アンナはまだ知らなかった。
この「見てしまったこと」が、彼女の静かな日常を、少しずつ壊していく引き金になることを。
そして――
弱さを抱えたまま、選ばなければならない瞬間が、必ず来るということを。




