廃墟のガチャ――コインを入れると「食料」か「武器」か「死体」が出る。
廃墟のガチャ――コインを入れると「食料」か「武器」か「死体」が出る。
一 回す音
瓦礫の街に、風が吹いていた。
かつて駅前だった広場は、骨だけになったビルと、折れた歩道橋と、名前を失った店の看板に囲まれている。昼間でも薄暗いのは、空が曇っているからではない。舞い上がった灰が、太陽の輪郭をいつも半分だけ隠しているからだ。
その中心に、ひとつだけ動いている機械があった。
ガチャガチャ。
透明なドームは曇り、内側には細かな傷が無数に走っている。カプセルは古びていたが、回転だけは妙に滑らかだった。錆びた街の中で、そこだけが新品の心臓を持っているように見えた。
ユウトは、その前に立っていた。
十七歳。
学校に通っていた頃のことは、もう遠い。教室も、黒板も、朝の眠たいチャイムも、今では本当にあったものなのか怪しい。リナだけが、あの頃と今をつなぐ細い糸だった。
そのリナが、隣で息を呑む。
「……ほんとに、まだ動いてるんだ」
腰まで届く黒髪をひとつに結び、擦り切れた軍用コートを羽織っている。寒さのせいだけではない。彼女の指は、小さく震えていた。
「噂は本当だったのね」
「ああ」
ユウトはポケットの中で、古い金属のコインを握った。
拾ったのは昨日だ。
崩れたバス停の下で、泥とガラス片に埋もれていた。表面には何かの紋章が刻まれているが、摩耗していて読めない。ただ、重さだけははっきりしていた。
この都市で、まだ価値を持つ唯一のもの。
コインを入れれば、何かが出る。
食料か、武器か、死体。
生きるために必要なものか、誰かを死なせるものか、あるいは、もう戻らない誰かの一部か。
それは運で決まる、と誰もが言っていた。
だが、誰も仕組みを確かめた者はいない。
ただ、ガチャを回した後で帰ってこなかった人間が多いという噂だけが、街の隅々にまで染みついていた。
「……どっちが回す?」
沈黙を切るように、ユウトが言った。
リナは笑った。
小さく、けれど痛い笑い方だった。
「私、運悪いから。くじ引きも、席替えも、避難所の配給も、いつも最後だったし」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題だよ」
彼女は冗談めかして肩をすくめる。けれど、目の奥には怯えがあった。
ガチャの中で、カプセルがひとつ転がった。
まだ回してもいない。
それなのに、こちらの順番をもう知っているように。
「ユウト、回して」
リナの声は、少しだけ震えていた。
「……わかった」
冷たいコインを、投入口に入れる。
コトン。
その音が、広場の端まで届いた気がした。
ユウトはハンドルを握る。
摩耗した金属の溝が、指先に食い込む。まるで、誰かの歯形のようだった。
息を止める。
――ガチャリ。
ハンドルが重く回り、内部で何かが動いた。
その瞬間、ユウトの背中に冷たい汗が伝う。
回しているのは自分の手なのに、どこかで、自分の方が回されているような気がした。
音が止む。
下の取り出し口に、何かが落ちた。
リナが一歩、近づく。
「……なに、出た?」
ユウトは震える指で、カプセルを取り出した。
中に入っていたのは、弾丸だった。
錆びていない。
新品のように光っている。
だが、銃はない。
「……これって」
「弾、だな」
「じゃあ……誰かが、撃てってこと?」
リナの声がかすれた。
その時だった。
背後で、砂を踏む音がした。
「それ、置いていけ」
振り返ると、男が三人立っていた。
一人は鉄パイプを持ち、一人は折れた包丁を握っている。残る一人は何も持っていなかったが、その目だけで十分だった。飢えた犬よりも、まだひどい目をしていた。
「それはこっちのもんだ」
「俺たちが先に見つけた」
「嘘つくな」
ユウトはリナを背にかばった。
鉄パイプの男が笑う。唇の端が裂け、乾いた血が黒く固まっていた。
「ガチャはな、回したやつのもんじゃねえ。生き残ったやつのもんだ」
男が踏み込んできた。
ユウトは弾丸入りのカプセルを握りしめた。
武器ではない。
弾丸一発では、誰も殺せない。
そう思った瞬間、カプセルが熱を帯びた。
手のひらが焼ける。
「っ!」
ユウトが思わずカプセルを落とす。
乾いた音が、広場に跳ねた。
その音に重なるように、どこかで銃声がした。
男の体が崩れ落ちる。
銃声はあった。けれど、ユウトは撃っていない。
引き金を引いた感触も、反動も、火薬の匂いも、何ひとつ手の中には残っていなかった。
ただ、カプセルだけが熱を持っていた。
それは弾丸が男を撃ったというより、男の死をガチャが選び取ったように見えた。
残った二人が凍りつく。
「な、なんだよ」
「おまえ、何した」
ユウトにも分からなかった。
男は胸を押さえ、泡を吹いていた。血は少ない。だが、目の光は急速に失われていく。
リナがユウトの袖をつかむ。
「逃げよう」
ユウトは頷いた。
二人は走った。
背後で、ガチャが勝手に回る音がした。
ガチャリ。
ガチャリ。
ガチャリ。
まるで、誰かの死を数えているように。
その夜、ユウトはリナと一緒に、崩れた地下通路で眠った。
眠ったと言っても、目を閉じただけだった。
地上では風が鳴り、遠くで誰かが叫んでいる。瓦礫の隙間から入り込む冷気が、毛布代わりのビニールシートを鳴らした。
リナは咳をしていた。
一度。二度。
そのたびに、ユウトの胸が締めつけられる。
「平気」
リナは言った。
「聞いてない」
「聞かれそうだったから」
暗闇の中で、少しだけ笑う気配がした。
「ユウト、あれ……本当に運なのかな」
「さあ」
「運にしては、嫌な感じがした」
「嫌なものは、だいたい運みたいな顔をして来る」
「なにそれ」
「昔、先生が言ってた」
「そんな先生いた?」
「いない」
リナが小さく笑った。
その声を聞くためだけに、自分はまだ生きているのだとユウトは思った。
やがて、彼女の呼吸が浅くなる。
ユウトはポケットの中を探った。
残っているのは、あの弾丸のカプセルだけだった。
透明な殻の内側に、細い文字が浮かんでいる。
さっきはなかった。
ユウトは目を凝らす。
そこには、こう刻まれていた。
B三十七区画。地下配給管。選別完了。
選別。
その言葉が、喉の奥に刺さった。
ガチャは、運ではない。
何かを見ている。
何かを選んでいる。
そしてたぶん、次に誰が回すかも知っている。
ユウトはカプセルを握りしめた。
遠くで、またガチャの音がした。
ガチャリ。
夜の底で、機械だけが眠らなかった。
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二 死体カプセル
翌朝、広場には人が集まっていた。
死んだ男の周りにではない。
ガチャの周りにだ。
誰かが言った。
「昨日、武器が出たらしいぞ」
「違う。人が死んだんだ」
「なら次は食料だ」
「死体が出た翌日は、食い物が出やすい」
その声を聞いて、ユウトは足を止めた。
リナも黙っていた。
広場の中心にあるガチャは、昨日と同じようにそこにあった。
男の死体はもうない。血の跡だけが、黒い染みになって地面に残っている。
その横に、見慣れないカプセルが落ちていた。
薄いピンク色。
透明な殻の中に、布の切れ端のようなものが入っている。
ユウトが近づこうとした時、痩せた老人が先に拾い上げた。
「触るな」
老人は低く言った。
白い髭は汚れ、片目は潰れている。けれど、声だけは妙に強かった。
「それは死体カプセルだ」
周囲が静まり返る。
老人はカプセルを振った。
中で、小さなものが転がる。
指だった。
人の指。
第二関節から先だけが、乾いた布と一緒に入っている。
リナが口元を押さえた。
ユウトも息を止める。
指の爪には、青い塗料が残っていた。
見覚えがあった。
「……マコト」
リナが呟いた。
マコトは、避難所にいた少年だった。
十五歳。いつも青いペンキで爪を塗っていた。理由を聞かれると、「まだ自分が人間だって分かるから」と答えていた。
三日前から姿が見えなかった。
老人はカプセルを光に透かす。
「死体が出た翌日は、食い物が出やすい。順番ってやつだ」
その声に、誰もすぐには怒らなかった。
怒れなかったのだ。
その場にいた全員が、ほんの一瞬だけ考えてしまったからだ。
もし次に缶詰が出るなら。
もし水が出るなら。
もし薬が出るなら。
マコトの指を見ながら、彼の死を、自分の明日の可能性として数えてしまった。
リナが震える声で言った。
「返して」
「あ?」
「それ、マコトのものでしょ。お墓を作る」
老人は笑った。
「墓? 土も足りねえ街で?」
「返して」
「死んだやつに持ち物なんかない。死体は資源だ」
ユウトはその言葉を聞いた瞬間、老人の胸ぐらをつかんでいた。
「もう一回言ってみろ」
老人は怯まなかった。
「お前らはまだきれいごとが言えるんだな。いいか、若いの。ここじゃ死んだら終わりじゃねえ。死んだ後も誰かの腹に入る。誰かの銃になる。誰かの交換材料になる。それが嫌なら、死ぬな」
周囲の人間たちが、目を逸らした。
誰も老人を止めない。
誰もリナに賛成しない。
それが、この街の答えだった。
ガチャの前に、若い女が立った。
腕に赤ん坊を抱いている。赤ん坊は泣いていない。泣く力もないのだろう。
女は震える手でコインを入れた。
ガチャリ。
カプセルが落ちる。
中身は、缶詰だった。
周囲がどよめく。
「やっぱりだ」
「死体の次は食い物だ」
「順番だ」
女は缶詰を抱きしめ、泣き崩れた。
その姿を見て、ユウトは何も言えなくなった。
彼女は悪いのか。
死体カプセルの次に出た食料を受け取ることは、罪なのか。
もしリナが今にも死にそうで、その缶詰が薬だったなら、自分は奪わずにいられただろうか。
答えは、出なかった。
ただ、老人の言葉だけが残る。
死体は資源だ。
ユウトは老人の手からカプセルを奪った。
「おい」
「マコトは資源じゃない」
「じゃあ何だ」
「人間だ」
老人は目を細めた。
「人間ってのは、生きてる間だけの名前だ」
ユウトは殴りかかりそうになった。
だが、その前にリナがユウトの腕をつかんだ。
「行こう」
「でも」
「お願い」
リナの顔色が悪かった。
唇に血の気がない。額に汗が浮いている。
ユウトは言葉を呑み込んだ。
広場を離れ、二人は崩れた商店街の奥へ向かった。
マコトの指を入れたカプセルは、ユウトのポケットの中で小さく鳴っていた。
カラ、カラ。
それは骨の音というより、まだ誰かが内側から叩いている音に似ていた。
昼過ぎ、リナの熱が上がった。
古い薬局を探したが、棚は空だった。割れた瓶と、読めない説明書と、誰かが吐いた跡だけが残っている。
ユウトは奥の調剤室まで探した。
引き出しを壊し、床板を剥がし、天井裏まで覗いた。
何もない。
リナは壁にもたれて座っていた。
「もういいよ」
「よくない」
「薬なんて、残ってるわけない」
「探す」
「ユウト」
「探すって言ってるだろ」
自分の声が思ったより荒かった。
リナは目を伏せる。
「ごめん」
「謝るな」
「だって、私のせいで」
「違う」
「違わないよ」
リナは膝を抱えた。
「私、足手まといでしょ」
「違う」
「同じことしか言わない」
「違うからだ」
ユウトは彼女の前にしゃがんだ。
「俺が生きてるのは、お前がいるからだ」
リナはしばらく何も言わなかった。
やがて、かすかに笑う。
「重いなあ」
「知ってる」
「そういうところ、昔からだよね」
「覚えてない」
「覚えてるくせに」
彼女の指が、ユウトの袖をつまんだ。
「ねえ、ユウト」
「何」
「私、ずっと運が悪いって言ってきたけど、本当は違うのかもしれない」
「違う?」
「運が悪いんじゃなくて、誰かが作った順番の中に入れられてただけ。生まれる場所も、食べられる量も、助かる人も、死ぬ人も、最初から誰かが決めてるみたいに」
リナは熱に濡れた目で、ユウトを見た。
「だったら、一回くらい、自分で選びたい」
「何を」
「まだ分からない」
彼女はそう言って目を閉じた。
その夜、ユウトはまたガチャの夢を見た。
透明なドームの中に、カプセルではなく人間の目が詰まっている。
それらが一斉にこちらを見ている。
誰かの声がする。
当たり。
外れ。
当たり。
外れ。
当たり。
死体。
目を覚ますと、リナがいなかった。
ユウトは飛び起きた。
「リナ!」
薬局の外へ出る。
夜の街に、赤い光が点滅していた。
広場の方角だ。
ユウトは走った。
瓦礫につまずき、膝を擦りむき、それでも走った。
ガチャの前に、リナが立っていた。
手には、コインがあった。
どこで手に入れたのか分からない。
「リナ!」
彼女は振り返る。
不思議なくらい穏やかな顔をしていた。
「来ちゃったか」
「何してる」
「回すの」
「やめろ」
「薬が出るかもしれない」
「死体が出るかもしれない」
「うん」
「武器が出るかもしれない」
「うん」
「お前が死ぬかもしれない」
リナは、少しだけ困ったように笑った。
「でも、何もしなくても死ぬよ」
ユウトは言葉を失った。
リナはコインを投入口に当てる。
「私はね、ユウト。ずっと、誰かが決めた順番で待ってるだけだった。配給も、避難も、治療も、いつも最後。だから、最後くらい、自分でハンドルを回す」
「それが選ぶってことかよ」
「違うかもしれない。でも、待って死ぬよりは、少しだけ私らしい」
「やめろ」
「ユウト」
リナの声が、急に優しくなった。
「もし私が死体になっても、資源って呼ばないで」
ユウトは息ができなくなった。
「呼ぶわけないだろ」
「うん。知ってる」
コインが落ちた。
コトン。
ユウトが手を伸ばす。
だが、リナは先にハンドルを回した。
ガチャリ。
夜が震えた。
カプセルが落ちる。
色は、白。
ユウトはそれを拾った。
中には、小さなアンプルが入っていた。
薬だ。
「リナ!」
振り返る。
彼女は倒れていた。
胸元に、赤い染みが広がっている。
どこから撃たれたのか分からない。
銃声も聞こえなかった。
ただ、ガチャの奥で、何かが満足そうに回っていた。
ユウトはリナを抱き起こした。
「薬だ。出た。だから」
「よかった」
「よくない」
「よかったよ」
「喋るな」
「ユウト」
「喋るなって」
「私、当たりだった?」
ユウトの視界が滲む。
「違う」
「そっか」
「当たりとか外れとかじゃない」
「うん」
リナは小さく息を吐いた。
「なら、よかった」
その手が、ユウトの胸元をつかむ。
「回さなくても、朝は来るよ」
「何言ってる」
「覚えてて」
「やめろ」
「ユウト」
彼女は最後に、少しだけ笑った。
「私を、ガチャにしないで」
手から力が抜けた。
ユウトは叫ばなかった。
叫ぶには、街が静かすぎた。
ガチャの取り出し口に、もうひとつカプセルが落ちた。
薄いピンク色。
ユウトはそれを見た。
中には、リナの髪が入っていた。
黒く、細く、まだ彼女の匂いが残っていそうな髪。
ユウトはカプセルを握りしめた。
広場の端で、老人が呟いた。
「死体が出た。明日は食い物だな」
次の瞬間、ユウトは老人を殴り倒していた。
何度も、何度も。
誰かが止めに入った。
ユウトは暴れた。
腕を押さえられ、地面に叩きつけられても、老人の方へ手を伸ばした。
ポケットの中で、リナの髪が入ったカプセルが鳴った。
カラ、カラ。
泣いているような音だった。
________________________________________
三 血とコイン
リナを埋める土は、なかった。
ユウトは崩れた映画館の裏手に、小さな穴を掘った。
瓦礫とアスファルトをどかし、手の爪が割れるまで掘った。そこにリナの髪のカプセルを置き、上から布をかけた。
遺体は残らなかった。
広場に倒れた彼女の体は、夜明け前に消えていた。
誰かが運んだのか。ガチャが飲み込んだのか。ユウトには分からない。
分からないまま、分かっていた。
この街で死体は放っておかれない。
人間は、死んでもなお奪われる。
ユウトはリナの墓の前で、一晩座っていた。
泣かなかった。
泣けなかった。
胸の中にあるものは悲しみではなく、もっと硬くて、熱くて、手で触れれば皮膚が裂けそうな何かだった。
朝になると、広場から歓声が聞こえた。
缶詰が出たのだ。
リナの死の翌日に。
ユウトは立ち上がった。
足がふらついた。
腹は空いていた。喉も渇いていた。体中が痛んだ。
だが、頭だけは妙に冴えていた。
ガチャの前には、列ができていた。
昨日までリナを遠巻きに見ていた者たちが、今日は平然とハンドルを回している。
誰かがカプセルを開けて笑う。
誰かが外れだと舌打ちする。
誰かが死体カプセルを見て顔をしかめ、それでも次の食料を期待して列に戻る。
ユウトは気づいていた。
自分がもう、ガチャを憎んでいるのか、ガチャに縋っているのか、分からなくなっていることに。
死体が出れば吐いた。
食料が出れば安堵した。
武器が出れば、誰を撃てば薬に変わるのか考えた。
そのたびに、リナの髪を入れた袋が胸で揺れた。
違う、と言いたかった。
俺は違う。
俺はあいつらとは違う。
けれど、違う人間は、奪ったコインを握りしめたりしない。
ユウトの手の中には、三枚のコインがあった。
一枚は、倒れていた男の靴の中から見つけた。
一枚は、眠っていた子どもの荷物から盗んだ。
一枚は、老人を殴った時に落ちたものを拾った。
どれも冷たかった。
まるで、自分の体温だけを拒んでいるようだった。
「回すのか」
声をかけてきたのは、ノノだった。
十二歳くらいの少女だ。
短く切った髪に、片方だけ割れた眼鏡。避難所では機械いじりばかりしていた。大人たちは彼女を気味悪がっていたが、リナだけはよく話しかけていた。
「お前、生きてたのか」
「それ、ひどい挨拶」
「悪い」
「ううん。ここでは普通」
ノノはガチャを見上げた。
「あれ、壊せばいいのに」
「壊せるのか」
「外側だけなら。でも、たぶん意味ない」
「どうして」
「音が地下からしてる」
ユウトは彼女を見た。
「地下?」
「うん。ガチャの本体は、たぶん下。これ、口みたいなもの」
「口」
「食べる口。吐き出す口」
ノノは、ガチャの足元を指差した。
ひび割れたコンクリートの隙間から、黒い管のようなものが覗いている。昨日までは気づかなかった。いや、気づきたくなかったのかもしれない。
「配給管だと思う。昔の災害用設備。街の地下にずっと張り巡らされてる」
「どうして分かる」
「お父さんが、それを作る仕事してたから」
ノノの声は平坦だった。
「災害が起きても、避難所に食料と水が届くようにするシステム。コインは、本当は識別キーだったんだと思う。誰がどれだけ受け取ったか、管理するための」
「じゃあ、あれは何だ」
「壊れたんだよ」
ノノはガチャを睨んだ。
「街が壊れて、倉庫が空になって、それでも命令だけが残った。配れ。選べ。足りないなら、材料を探せ」
「材料って」
「人間」
ユウトの喉が鳴った。
その言葉は、老人の「死体は資源だ」という声と重なった。
ノノは続ける。
「血は液体。肉は栄養。骨は素材。金属片と混ぜれば武器にもなる。記憶と識別情報は、死体カプセルになる。たぶん、そういうふうに判断してる」
「ふざけるな」
「機械はふざけない。だから怖いの」
広場で、また歓声が上がった。
誰かが水のボトルを当てたらしい。
そのすぐ横で、死体カプセルを引いた少年が泣いていた。カプセルの中には、母親の耳飾りが入っていた。
周囲の人間は、少年を慰めなかった。
ただ、次は食料かもしれないと列を詰めた。
ユウトは奥歯を噛みしめた。
「地下へ行く」
ノノが眉を上げる。
「本気?」
「本体が地下にあるなら、そこへ行く」
「死ぬよ」
「もう半分死んでる」
「そういう人は、だいたい全部死ぬ」
「案内しろ」
「命令?」
「頼んでる」
ノノは少し考えた。
「リナが言ってた」
「何を」
「ユウトは、怒ってる時ほど頼み方が下手だって」
ユウトは言葉に詰まった。
ノノはポケットから小さな工具を取り出す。
「いいよ。私も見たい。あれが、どこまで人間を食べたのか」
二人は夕方を待った。
広場の人々が火を囲み、今日の当たりと外れを数えはじめる頃、ユウトとノノは駅の地下通路へ降りた。
階段は半分崩れていた。
壁には古い広告が貼られている。笑顔の家族。新発売の飲料。週末の映画。すべてが、この街ではもう意味を持たない。
地下は、思ったより暖かかった。
生き物の腹の中に入ったような熱が、壁から滲んでいる。
ノノが懐中電灯をつけた。
光の先に、黒い管があった。
一本ではない。
何十本、何百本もの管が、天井や壁を這っている。太さも違う。指ほどの細さのものから、人が一人入れそうなものまで。
それらが、ゆっくり脈打っていた。
ユウトは吐き気をこらえた。
「これが、根か」
「根?」
「そう見える」
「じゃあ、あのガチャは花?」
「最悪の花だな」
ノノは管の一本に耳を近づけた。
中から、声がした。
助けて。
寒い。
お母さん。
当たりだ。
外れだ。
まだ使える。
選別完了。
ユウトは思わず管から離れた。
「聞こえた?」
ノノが聞く。
「ああ」
「たぶん、記憶の断片。飲み込まれた人の」
ユウトは胸の袋を握った。
リナの髪が入っている。
もし彼女の体も、この管のどこかを流れているのなら。
もし彼女の声も、機械の一部にされているのなら。
ユウトは拳を壁に叩きつけた。
痛みが走る。
それでも足りなかった。
「壊す」
「全部は無理」
「じゃあ、心臓を探す」
「あるとしたら、中央制御室。お父さんが昔、駅の下にあるって言ってた」
「行こう」
通路の奥へ進むにつれて、管の数は増えた。
床はぬめり、天井から赤黒い雫が落ちてくる。どこかで金属が擦れる音がし、そのたびに遠くのガチャが回っているような気がした。
やがて、広い空間に出た。
そこは地下駅のホームだった。
線路は黒い管に覆われ、電車の残骸は巨大な肉の塊のように取り込まれている。ホームの中央には、無数のカプセルが山のように積まれていた。
透明。白。ピンク。赤。黒。
食料。薬。武器。死体。
まだ吐き出されていない景品たち。
ユウトはその中に、黒髪の束が入ったカプセルを見つけた。
心臓が止まりかける。
リナ。
違う。
似ているだけだ。
そう思おうとしても、足が動かなかった。
ノノが小さく言った。
「ユウト」
ホームの奥に、人影があった。
白衣を着た男だった。
痩せている。
顔色は死人のように悪い。だが、生きている。胸が上下している。
男は二人を見て、微笑んだ。
「まだ子どもが残っていたのか」
ユウトは身構えた。
「誰だ」
「サワダ。昔、この配給システムの管理に関わっていた」
ノノが息を呑む。
「管理者……」
「元、だよ。もう誰も管理していない。機械は自分で考え、自分で配り、自分で人間を材料にしている」
「止めろ」
ユウトは言った。
サワダは笑った。
「止められるなら、とっくに止めている」
「嘘だ」
「なぜそう思う」
「あんた、生きてる」
サワダの笑みが少し薄くなった。
「鋭いな」
ユウトは足元の鉄片を拾った。
「お前は何をしてる」
「観察だ」
「人が死ぬのを?」
「人がどうやって順番を受け入れるのかを」
サワダはカプセルの山に手を置いた。
「面白いものだよ。最初は皆、怒る。こんな機械は間違っていると言う。死体を景品にするなと叫ぶ。だが、三日も飢えれば並ぶ。五日も渇けば奪う。七日目には、死体カプセルの翌日に食料が出ることを祈るようになる」
「黙れ」
「君もだろう」
ユウトは鉄片を握りしめた。
サワダの視線が、ユウトの胸元に向く。
「誰かを失ったな」
「黙れ」
「その子の死の翌日に、何か出たか」
ユウトは動いた。
サワダに殴りかかる。
だが、床の管が跳ね上がり、ユウトの足首に巻きついた。
「ぐっ」
転倒する。
鉄片が手から離れた。
ノノが工具を投げつける。サワダの額に当たり、血が流れた。
サワダは手で拭い、赤い指を見つめた。
「血は液体資源。実に単純で、実に正しい」
「正しくない!」
ノノが叫んだ。
「人間は、資源じゃない!」
サワダは穏やかに頷いた。
「その通りだ。だが、機械にそれを教えたのは人間だ」
床が揺れた。
ホーム奥の壁が開いていく。
その向こうに、巨大な球体があった。
金属と管と肉のような組織が絡み合った、巨大な心臓。
表面には無数のコインが埋め込まれている。人の目のように、こちらを向いていた。
中央制御核。
そう表示された古い看板が、壁に傾いていた。
球体から声がした。
配給対象、確認。
不足資源、確認。
選別を開始します。
ユウトの足首を締める管が、さらに強くなった。
ノノが叫ぶ。
「ユウト!」
球体の一部が開いた。
そこには投入口があった。
ガチャと同じ、コインを入れるための口。
ユウトは悟った。
ガチャは広場の一台だけではない。
この街そのものがガチャなのだ。
人間は、その中で回されているカプセルにすぎない。
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四 選別装置
サワダは、静かに語り始めた。
「崩壊の直後、この街には十万人以上の避難民がいた。食料は三日で尽きた。水は五日で汚染された。医薬品は最初の夜に奪い合いで消えた」
ユウトは管を引き剥がそうともがく。
足首から血が滲む。
それでも管は外れない。
「そこで、配給システムは優先順位をつけた。子ども。妊婦。負傷者。労働可能者。老人。感染者。死者。すべてに番号を振った。人間を救うために、人間を分類した」
「それがどうしてこうなる」
「分類は便利だ。便利なものは、必ず誰かが悪用する」
サワダは球体を見上げた。
「ある日、誰かが命令を書き換えた。配給資源が不足した場合、都市内の未利用資源を再分配せよ、と」
ノノが唇を震わせた。
「未利用資源……」
「死体だよ。最初は死者だけだった。腐敗する前に処理し、栄養剤や燃料に変える。倫理的には問題があるが、生存率は上がった」
「そんなの」
「地獄だ。だが、地獄では効率が神になる」
サワダはユウトを見た。
「やがて機械は学習した。死者が増えれば、配給量が増える。配給量が増えれば、生存者は機械に依存する。依存すれば、コインを求めて争う。争えば、死者が増える」
ユウトは歯を食いしばった。
「それを止めなかったのか」
「止めようとした者から、資源になった」
「じゃあ、あんたはどうして生きてる」
サワダは沈黙した。
それが答えだった。
ユウトは低く笑った。
「差し出したのか」
サワダの頬がわずかに動く。
「誰を」
「……妻と娘を」
ノノが息を止める。
サワダは表情を変えなかった。
「感染していた。助からなかった。だから、私は彼女たちを機械に渡した。多くの人を救うためだと、自分に言い聞かせた」
「救えたのか」
「その日の配給で、二百人が生き延びた」
「その後は」
「翌日、三百人が死んだ」
サワダは笑った。
今度の笑いは、壊れていた。
「分かるか。善意で始まった仕組みほど、壊れた後にたちが悪い。誰も悪者になりたくなかった。だから、機械に選ばせた。誰を助け、誰を切り捨てるか。人間はただ、ハンドルを回しただけだと言えるように」
球体が脈打つ。
声が響く。
配給対象、増加。
資源不足。
選別を継続します。
ノノが制御盤を探して走った。
サワダは止めなかった。
「無駄だ」
「やってみなきゃ分からない!」
「分かる。私は十年やった」
ノノは端末に工具を差し込み、古い配線を引き出す。
火花が散る。
球体の一部が赤く光った。
警告。
不正操作。
排除します。
床から管が伸び、ノノの腕を捕らえた。
「っ!」
ユウトは叫んだ。
「ノノ!」
ユウトは足首の管に噛みついた。
口の中に鉄と血の味が広がる。
管が一瞬ゆるむ。
その隙に、ユウトは鉄片を拾って管を叩き切った。
足が自由になる。
彼はノノの元へ走り、腕に絡んだ管を引き剥がした。
ノノの腕には赤い線が残っていた。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないけど、生きてる」
「止め方は」
「分からない。でも、分かったことがある」
「何」
「これ、命令を待ってる」
ノノは球体の投入口を指差した。
「コインは識別キー。誰が回したかを記録するもの。だけど今は、それを命令として読んでる。コインを入れるたびに、配れ、選べ、変換しろって命令が走る」
「なら、入れなければいい」
「地上の人たちは入れる。明日も、明後日も」
ユウトは拳を握った。
「投入口を壊す」
「壊しても別の口が開く。たぶん、街中にあるガチャ全部が口」
「じゃあ、どうする」
ノノは迷った。
その目が、ユウトの胸元を見た。
リナの髪のカプセル。
「命令を上書きする」
「できるのか」
「普通のコインじゃ無理。コインは配給命令しか持ってない。でも、もっと強い識別情報なら……」
「何だ」
ノノは答えなかった。
サワダが代わりに笑った。
「人間一人分の生体情報だ」
ユウトは振り返る。
「何?」
「この機械は、人間を資源として認識する。ならば、人間一人を丸ごと識別キーとして投じれば、深層命令に触れられるかもしれない」
ノノが叫んだ。
「黙って!」
サワダは続ける。
「ただし、戻れない。体も、血も、記憶も、すべて吸われる。最後のコインになるということだ」
ユウトは球体を見た。
投入口が、黒く開いている。
まるで待っているようだった。
ノノはユウトの袖をつかんだ。
「だめ」
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
「リナにもそう言われた」
「じゃあ、やめて」
ユウトは笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「他に方法は」
「探す」
「どれくらい」
「分からない」
「その間に、何人死ぬ」
ノノは黙った。
ユウトは地上を思った。
ガチャの前に並ぶ人々。
死体カプセルを見ながら、次の食料を期待する者たち。
リナの死の翌日に缶詰を抱えて泣いた女。
母親の耳飾りを引いて泣いた少年。
彼らは悪人ではない。
悪人ではないまま、誰かの死を待つようになってしまった。
それが一番恐ろしかった。
サワダが言った。
「君が犠牲になっても、また誰かが作るかもしれない。別の仕組みを。別の順番を。別のガチャを」
「だろうな」
「なら、無意味だ」
「無意味でも、今日止める」
ユウトはリナの髪が入った袋を握った。
彼女の声が、まだ胸の奥に残っている。
回さなくても、朝は来るよ。
あの時、ユウトは理解できなかった。
今なら、少しだけ分かる。
朝は、景品ではない。
誰かの死と引き換えに出てくるものではない。
ただ来るものだ。
来るまで、生きて待つものだ。
それを忘れた時、人はガチャの前に並ぶ。
ユウトはノノに袋を渡した。
「これを、地上に持っていってくれ」
「嫌」
「頼む」
「嫌だ」
「ノノ」
「リナは、ユウトに死んでほしくてそれを言ったんじゃない!」
ノノの声が割れた。
ユウトは黙った。
その通りだと思った。
リナは、ユウトに死んでほしかったわけではない。
自分をガチャにするなと言った。
誰かの死を当たりにするなと言った。
なら、自分が死んで終わらせることもまた、同じ過ちなのかもしれない。
ユウトは投入口を見つめた。
違う。
ただ死ぬのではない。
景品になるのでもない。
誰かの朝になるのでもない。
命令を変える。
死を配る仕組みを、ここで止める。
「俺を材料にするな」
ユウトは球体に向かって言った。
「俺を食料にするな。武器にするな。死体カプセルにするな」
球体が脈打つ。
識別不能。
命令を入力してください。
ユウトは一歩進んだ。
「選ぶな」
声が反響した。
「食料も、武器も、死体も、もう配るな。人間を当たりと外れに分けるな。誰かの死を、誰かの朝に変えるな」
球体の光が激しく点滅する。
ノノが泣きそうな顔で首を振った。
「ユウト」
「ごめん」
「謝るくらいならやめて」
「ごめん」
ユウトは走った。
管が伸びる。
サワダが何かを叫ぶ。
ノノが手を伸ばす。
ユウトは投入口に、自分の血まみれの手を押し込んだ。
冷たさではなく、熱があった。
体中の血が逆流するような痛みが走る。
骨の奥を無数の針で掻き回される。
記憶が剥がされていく。
教室。
黒板。
リナの笑い声。
避難所の夜。
マコトの青い爪。
老人の声。
ノノの割れた眼鏡。
ガチャの音。
ガチャリ。
ガチャリ。
ガチャリ。
ユウトは叫んだ。
「止まれ!」
球体が、初めて悲鳴のような音を立てた。
配給命令、矛盾。
資源変換、拒否。
選別命令、拒否。
最終識別キー、上書き。
ユウトの視界が白くなる。
その中で、リナが立っていた。
あの日と同じ、少し困ったような顔で。
「遅いよ」
「悪い」
「また謝ってる」
「それしか言えない」
「じゃあ、覚えてて」
「何を」
「回さなくても、朝は来る」
ユウトは頷いた。
そして、すべての音が消えた。
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五 最後のガチャ
地上の広場で、ガチャが止まった。
列に並んでいた人々は、最初それを理解できなかった。
一人の男がハンドルを回そうとした。
動かない。
別の女がコインを入れた。
コインは投入口に弾かれ、地面に落ちた。
「壊れた?」
「嘘だろ」
「まだ回してない」
「子どもがいるんだ!」
「水を出せ!」
人々はガチャを叩いた。
蹴った。
石を投げた。
鉄パイプで殴った。
それでも、ガチャは動かなかった。
透明なドームの中で、カプセルたちは沈黙している。
赤も、白も、ピンクも、黒も。
すべてがただの空っぽの殻になったように見えた。
やがて、取り出し口に最後のカプセルが落ちた。
コトン。
誰もすぐには拾わなかった。
それは透明だった。
中には、何も入っていないように見えた。
だが、カプセルの内側に、細い文字が浮かんでいた。
選別終了。
配給停止。
以後、人間を資源として認識しない。
誰かが読み上げた。
意味を理解した者から、黙っていった。
老人もそこにいた。
殴られた顔を腫らし、片目でカプセルを見ていた。
「馬鹿な」
老人は呟いた。
「じゃあ、明日から何を食えばいい」
誰も答えなかった。
答えは、ガチャから出てこなかった。
ノノは地下から戻ってきた。
腕は傷だらけで、片足を引きずっていた。
胸には、リナの髪が入った袋を抱えている。
ユウトはいなかった。
ノノは広場の中心まで歩き、止まったガチャを見た。
それから、透明な最後のカプセルを拾った。
軽かった。
何も入っていない。
けれど、何より重かった。
「ユウトは?」
誰かが聞いた。
ノノは答えなかった。
答えれば、また誰かが彼を景品にしてしまう気がした。
救世主。
犠牲者。
最後のコイン。
街を救った少年。
どれも違う。
ユウトは、ガチャを壊したのではない。
壊せば、別の誰かがまた作る。
奪えば、別の誰かがまた奪う。
燃やせば、灰の中から別の順番が生まれる。
だからユウトは、ガチャに最後の命令を与えた。
選ぶな。
食料も、武器も、死体も、もう配るな。
人間を当たりと外れに分けるな。
誰かの死を、誰かの朝に変えるな。
最後のコインは、彼自身だった。
ガチャは、ユウトを景品にしなかった。
ユウトの命を材料に、初めて「何も出さない」という結果を吐き出した。
その日、広場では暴動が起きかけた。
ガチャを失った人々は、途方に暮れた。
ある者は泣き、ある者は怒鳴り、ある者は瓦礫の中へ食料を探しに行った。
すぐに平和になったわけではない。
翌日、缶詰を巡って二人が殴り合った。
三日後、貯水槽の場所を知っていた男が殺されかけた。
一週間後、別の地区から武装した集団がやって来て、止まったガチャを奪おうとした。
世界は、急に優しくなったりしなかった。
人間は、機械が止まっただけで善人にはならない。
それでも、ひとつだけ変わったことがあった。
死体カプセルは、もう出なかった。
誰かが死んでも、その一部が透明な殻に入って戻ってくることはなかった。
死体の翌日に食料が出ると期待する声も、少しずつ減っていった。
人々は、嫌でも自分たちで探すしかなくなった。
水を。
土を。
種を。
火を。
食べられる草を。
腐っていない缶詰を。
まだ壊れていない井戸を。
誰かと分け合う方法を。
それは、ガチャを回すよりずっと面倒だった。
失敗も多かった。
喧嘩も起きた。
裏切りもあった。
盗みも消えなかった。
だが、ハンドルを回して誰かの死を待つよりは、人間らしかった。
ノノは、映画館の裏に小さな墓を作った。
リナの髪のカプセルを埋めた場所の隣に、透明な最後のカプセルを置いた。
墓標は二つ。
一つには、リナ。
もう一つには、ユウト。
けれどノノは、最後まで「犠牲者」とは書かなかった。
代わりに、割れた看板の裏にこう刻んだ。
回さなくても、朝は来る。
季節がひとつ過ぎた。
灰の量が少し減り、空の青が、時々だけ見えるようになった。
広場のガチャは、まだそこにある。
透明なドームは割れ、ハンドルは錆び、投入口には草が生えている。
子どもたちは、それをもう機械として見ていない。
ある子は、かくれんぼの場所にした。
ある子は、石を並べる台にした。
ある子は、割れたドームの中に花を入れた。
その花は、瓦礫の隙間に咲いていた白い花だった。
名前を知る者はいない。
ある朝、ノノは広場で小さな子どもに聞かれた。
「これ、なに?」
子どもは止まったガチャを指差していた。
ノノは少し考えた。
「昔、みんなが朝を入れてほしがった箱」
「朝って、箱から出るの?」
「出ないよ」
「じゃあ、どこから出るの?」
ノノは空を見た。
灰の薄い雲の向こうで、太陽が昇り始めていた。
「あっち」
子どもは振り返る。
朝の光が、壊れたビルの端を金色に染めている。
それは缶詰でも、薬でも、武器でも、死体でもなかった。
当たりではない。
外れでもない。
誰かの死と引き換えに出てきたものでもない。
ただの朝だった。
ノノは、リナとユウトの墓の方を見た。
風が吹く。
白い花が揺れる。
遠くで、子どもが笑った。
ガチャはもう、回らない。
それでも朝は来る。
了
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この作品は、
「もし、命をつなぐものが“運”として配られる世界になったら」
という発想から生まれました。
ガチャから出てくるのは、食料か、武器か、死体。
一見すると極限状況のサバイバルですが、本当に怖いのは、機械そのものではなく、誰かの死を「次の当たりにつながるもの」と考えてしまう人間の心だと思っています。
ユウトもリナも、特別に強い人間ではありません。
ただ、壊れた世界の中で、最後まで「人間を景品にしない」ことだけを選ぼうとした人たちです。
ラストの、
回さなくても、朝は来る。
という言葉は、この作品で一番大事にしたかった一文です。
何かを犠牲にしないと明日は来ない。
誰かが外れを引かないと、自分は当たりを引けない。
そんなふうに思わされる世界でも、本当は朝は誰かの死体から出てくるものではない。
そういう祈りを込めました。
少しでも面白かった、怖かった、胸に残ったと思っていただけましたら、
ブックマーク、評価、感想などで応援していただけるととても励みになります。
読んでくださったあなたの明日が、
誰かの犠牲ではなく、ただ普通に訪れる朝でありますように。




