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廃墟のガチャーコインを入れると「食料」か「武器」か「死体」が出る。

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/11/10

第1話「回す音」


 瓦礫の街に、風が吹いていた。

 かつては駅前だったらしい広場は、今では骨のような鉄骨と、崩れたビルの影に囲まれている。

 その中心に――ぽつんと、ひとつだけ動いている機械があった。


 錆びついた透明のカプセルが中で転がり、微かにモーターの音を立てている。

 ガチャガチャ。

 それは、昔の子どもたちが楽しみにしていたという“遊び”の名残だった。


 ユウトはその前に立っていた。

 十七歳。かつては学校に通っていたが、学校も、先生も、もうこの世界にはない。

 隣には、リナがいた。腰まで届く黒髪をひとつに束ね、擦り切れた軍用コートを羽織っている。

 冷たい風が二人の間を抜け、遠くの瓦礫の隙間でカン、と空き缶が転がった。


「……ほんとに、まだ動いてるんだ」

 リナが、信じられないというように息を漏らした。

「噂は本当だったのね」

「ああ」

 ユウトはポケットの中で、古びた金属のコインを握りしめた。

 拾ったのは昨日。崩れたバス停の下で見つけた、一枚きりの“貨幣”。

 この都市で、まだ“価値”を持つ唯一のもの。


 コインを入れれば、何かが出る。

 食料か、武器か、死体。


 生きるために必要なものか、死を呼ぶものか――それは、運で決まる。

 誰も中を確かめた者はいない。

 ただ、ガチャを回した後で“帰ってこなかった人”が多いという噂だけが、街の隅々にまで広まっていた。


「……どっちが回す?」

 沈黙を切るように、ユウトが言った。

 リナは笑う。小さく、しかしどこか悲しい笑い方だった。

「私、運悪いから。くじ引きも、試験も、いつもビリだったし」

「そういう問題じゃない」

「そういう問題だよ」

 彼女は冗談めかして肩をすくめる。けれどその目の奥に、かすかに怯えが見えた。


 ガチャの中で、カプセルがひとつ転がった。

 まだ回してもいないのに、まるでこちらを見ているようだった。


「ユウト、回して」

 リナの声は、少しだけ震えていた。

 ユウトは小さく息を吸って、頷く。

「……わかった」


 冷たいコインを、投入口に入れる。

 コトン、と音がした。

 ユウトはハンドルを握った。

 金属の感触。摩耗した溝。指先に伝わる微かな震え。

 息を止める。


 ――ガチャリ。


 ハンドルが重く回り、内部で何かが動く音がした。

 その瞬間、ユウトの背中に冷たい汗が伝う。

 音がやむ。

 下の取り出し口に、何かが転がり落ちる音がした。


 リナが一歩、近づく。

「……なに、出た?」

 ユウトは震える指で、カプセルを取り出した。

 中に入っていたのは、弾丸だった。

 錆びついていない。新品。

 けれど――銃はない。


「……これって」

「弾、だな」

「じゃあ……誰かが、撃てってこと?」

 リナの声がかすれる。

 その時だった。


 背後で、砂を踏む音がした。

 ユウトはとっさに振り返る。

 物陰から、影がいくつも現れた。

 男たち。女もいる。顔は布で覆われ、手には鉄パイプやナイフ、火炎瓶。


「やっぱり来たな……」

 リナが小さく呟く。

「ガチャが回る音が聞こえると、みんな寄ってくるんだよ。欲しくてさ」


 リーダー格の男が前に出る。

 頬に傷跡があり、目だけが異様に光っている。

「中身、出せ」

 低い声が、冷たく響いた。

「……弾だ」

 ユウトは答える。

「じゃあ弾をよこせ。銃は持ってる」


 リナが一歩、ユウトの前に出た。

「ダメ。あんたたちに渡したら、また誰かが死ぬ」

「死ぬのはいつも誰かだ。順番だろ?」

 男は笑う。その歯は黄色く濁っていた。


 風が吹いた。砂埃が舞う。

 ユウトの頭の中で、何かが切れた。

 生きるために、戦うしかない――その単純な理屈が、今や常識になっている世界で。


 リナが叫ぶ。

「逃げて、ユウト!」

 男たちが一斉に動く。

 ユウトは咄嗟にカプセルを握りしめ、背を向けて走り出した。

 瓦礫を飛び越え、崩れた壁の隙間をすり抜ける。

 銃声はない。だが、足音が近づく。


 息が切れた。肺が焼ける。

 背後でリナの声がする。

「ユウト、こっち!」

 彼女が手を伸ばす。その先には、崩れたトンネルの入口。

 二人は闇の中へ飛び込んだ。


 外の光が遠ざかる。

 やがて静寂。

 水の滴る音だけが響く。


 ユウトは壁に背を預け、息を整えた。

「……助かったのか?」

「たぶん」

 リナは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。

 頬には傷がつき、手は震えている。

「ねえ、さっきの……弾、見せて」

 ユウトはポケットからカプセルを取り出し、渡した。

 リナはそれを開けると、しばらく見つめて――目を見開いた。


「これ……ただの弾じゃない」

 弾丸の側面には、細かい刻印があった。

 数字の列。座標のようなもの。

「座標……?」

「もしかして、ここじゃないどこかに“何か”があるってことかも」


 その瞬間、ユウトの頭に閃光のような映像が流れた。

 荒れ果てた地平線の向こう、ひとつだけ光る塔の影。

 ――そこに、“生きている場所”がある。


「リナ、行こう」

「え?」

「この弾が示す場所まで。もしかしたら、食料があるかもしれない」

「でも……危険だよ」

「どこにいたって危険だ」

 ユウトは立ち上がる。

 リナはしばらく沈黙した後、うなずいた。


 二人は再び、地上へと戻った。

 夕焼けが街を染めている。

 広場の中央――ガチャガチャは、まだ静かに動いていた。


 しかし、そこには新しい血痕があった。

 ユウトが回した時にはなかったもの。

 足跡が、ガチャの周囲をぐるぐると囲み、やがて遠くへと消えている。


「……誰か、また回したんだ」

 リナの声は震えていた。

 ユウトはガチャを見上げる。

 その中で、カプセルがまたひとつ、ゆっくりと転がった。


「リナ」

「なに?」

「もし次に回す機会が来たら……俺じゃなくて、お前が回せ」

「どうして」

「お前が“運悪い”って言ってたけど、俺はそうは思わない」

「根拠は?」

「だって、お前がいたから俺は今日まで生きてる」

 ユウトは、リナの目を見る。

 彼女は何かを言おうとしたが、言葉を飲み込んだ。

 風が吹く。灰が舞う。


「……あたし、回すよ」

 リナはコートのポケットから、小さなコインを取り出した。

「いつの間に……」

「さっき、あの人たちの荷物の中から拾った」

 彼女は笑う。

「これで、食料が出るかもしれない」


 ユウトは止めようとした。

 だが、もうリナの手はハンドルにかかっていた。

 金属が鳴る。回る音。


 ――ガチャリ。


 カプセルが落ちた。

 中をのぞくと、そこには“リンゴ”が入っていた。

 本物の、赤いリンゴ。

 この世界ではもう見られないはずの果実。


「……当たり、だね」

 リナが微笑む。

 涙が頬を伝う。

 けれど次の瞬間、銃声が響いた。


 ユウトは反射的にリナを押し倒した。

 背後から煙。

 瓦礫の影に、さっきの男がいた。

 手には、古びた拳銃。


「お前らが当たりを引くなんて、不公平だろ」

 男が笑う。

 ユウトは地面を転がりながら、弾の入ったカプセルを握りしめた。

 脳裏に、刻印の座標が浮かぶ。

 ――撃て。


 銃声。

 そして、沈黙。


 風が止まった。

 男の体が崩れ落ちる。

 リナは震える手でユウトを見た。

「今の……」

「わからない。俺、撃ってない」

 ユウトの手の中のカプセルが、微かに熱を帯びていた。


 リナがリンゴを見つめる。

 それは、ひとり分の命の重さだった。

 生きるとは、奪うことなのか。

 与えられた“運”の裏には、必ず誰かの死があるのか。


 夕陽が沈む。

 広場に、回る音だけが残った。


 ――ガチャガチャ。


 それは、世界がまだ回っているという証。

 けれどもう、誰もその意味を知らない。


 ユウトはリナの肩を抱いた。

 遠くで、風が灰を運んでいく。

 どこかでまた、誰かがガチャを回す音がした。


第2話「死体カプセル」

 朝は、冷たさのかたちをしていた。

 崩れた建物の隙間から吹き込む風が、夜の間に乾ききらなかった血をなぞっていく。広場の石畳には、途切れ途切れの赤い線が残っていて、それがやがて排水溝の黒へ沈んでいた。

 ユウトは、その線の始まりに立っていた。

 手のひらの中で、小さなカプセルが固く冷えている。握り締めても温度は変わらない。薄いプラスチック越しに見えるのは、黒ずんだ指だった。爪の根本には泥。第二関節のところで、雑に切られている。

 吐き気は、もう来なかった。昨夜のうちに限界まで吐いてしまったからだ。空っぽの胃袋は、乾いた音で抗議するだけだった。

「それが……外れ、なんだね」

 背後から、リナの声。

 ユウトはうなずくこともできず、ただカプセルを見つめた。

 薄い樹脂へ落ちる朝の光が、指の皮膚の皺を浮かび上がらせる。よく見ると、親指と人差し指の間の柔らかなところに、弱い火傷の跡があった。白く抜けた、古い痕。

「その痕……見覚えがある」

 リナが、一歩近づく。

 彼女は震える指先で、カプセルに触れるか触れないかのところで止めた。

「昨日まで、一緒にいた。給水場の番をしてた人。焚き火のそばの、あの……」

「——マコト」

 ユウトの口から、名前が落ちた。

 喉が細く鳴る。あのとき、間に合わせの木箱に入った食料の配給を、彼は少しだけ多く持っていった。皆が見ないふりをして、彼も見ないふりをして、結局は誰も責めなかった。責めてはいけない世界だった。

 リナは目を伏せる。

「彼、昨夜いなかった。広場の外に倒れてるのを、誰かが見たって……」

「そして、朝になって“景品”として戻ってきた」

 ユウトは言い切るしかなかった。言葉にしないと、現実がずっと曖昧なままだったからだ。

「誰かが死ねば、その死体がランダムで出る。ガチャは、そういう仕組みなんだ」

 広場の端で、何人かの生存者がこちらの様子をうかがっていた。昨夜の気配が、まだあちこちに残っている。鉄パイプを杖にしている老人、顔の半分を汚れたマスクで隠した女、片足を引きずる少年。彼らの視線は、ユウトの手のカプセルに吸い寄せられていた。

「カプセルだ……何が入ってる」

 マスクの女が声を上げた。

 ユウトは答えなかった。代わりに、カプセルを自分の胸の前で握り締める。

 近寄ってくる足音。

 女は距離を詰め、覗き込んで、即座に顔を背けた。

「うわ……指。最悪」

「死体だって? だったら今日は“当たり”の番かもな」

 老人が乾いた笑い声を漏らす。

「死体が出た翌日は、食い物が出やすい。順番ってやつだ。誰かが外れを引いたなら、次は回す価値がある」

「やめて」

 リナがきつい声を出した。

「これは……人だよ。誰かの、帰ってこない一部なんだよ」

 誰も、すぐには言い返さなかった。

 風が吹き、灰が舞った。

 広場の中央、透明のドームの中で、色あせたカプセルがだらしなく横たわっている。昨夜の戦いの痕は、ガチャの台座にまで残っていた。乾きかけの血が、ハンドルの根元に暗い色で固まっている。

「埋めよう」

 ユウトの口が、勝手に言った。

「マコトのところに戻そう。全部じゃないけど……せめて、手だけでも」

「埋める場所が、どこに」

 老人が肩をすくめる。

「土なんて硬くて掘れやしない。掘ったって、誰かに荒らされる。それに——」

「それに?」

「その指は、飯と同じだ。誰かの命が別の誰かの口に入る。順番に。ここじゃ、全部がそうだ」

 周囲の空気が、きゅっと締まった。

 ユウトは言葉を喪い、次の瞬間には自分の胸の中の怒りが急激に冷えていくのを感じた。怒鳴っても、殴っても、何も変わらない。ここでは、何も。

 リナが袖をつまむ。

「ユウト……とりあえず、隠そう。ちゃんとした場所が見つかるまで」

 うなずく。二人は瓦礫の影へ回り、崩れた掲示板の下へ小さな穴を探した。指先でこじると、湿った土が少しだけ顔を見せる。

 ユウトは膝をついた。カプセルのふたを開けようとして、やめた。直接触れたら、もう戻れなくなる気がした。

 ふたは閉じたまま、指の形の重みだけを包むように抱き、土に埋める。

 土の上に、瓦礫片を乗せた。

 目印は、つけない。目印は、奪うための看板になるから。

 昼過ぎ、広場には列ができた。

 誰からともなく、いつの間にか生まれてしまう“秩序”。鉄パイプで仕切った簡単な柵の前に、十五人ほどが順番を作って並んだ。

 列の先頭で、背の高い男が口を開いた。名前はサワダ。夜になると銃声が聞こえる方角から来たと噂される。肩に掛けた袋から、古びた紙切れを取り出すと、声を張った。

「ルールを言う。コインを持ってる人間——今日は二枚。列の先頭と、七番目。回す権利は一回ずつ。出たものは、その者の所有。争った場合は、列の全員で裁く」

 サワダの声に、列の中の誰かが笑う。

「何をどう裁くんだよ。殴って奪うだけだろ」

 ユウトは列の外から、それを見ていた。

 コインは、もうない。昨夜の一枚は弾丸になって、弾丸は座標になって、まだ行き先の意味を持てないままでいる。

 リナは、あのリンゴを皆で分けようと提案した。四等分して、一片は自分たち、一片は子どもたち、一片は老人、一片は怪我人。リンゴは、恐ろしいほどに軽かった。匂いだけが濃くて、歯に当たる前に口の水分が全部奪われるような気がした。

 列の先頭の女が、コインを入れた。

 音がして、カプセルが落ちる。

 開いた瞬間、広場の空気が吸い込まれる。

 中には、小袋があった。乾パン。

 女は泣いた。誰かが肩を抱いて、誰かが指を鳴らした。拍手ではなく、音の底に嫉妬と安堵が混じる、妙な音。

 七番目の少年は、コインを握りすぎて指に痕を作っていた。

 回す。落ちる。開く。

 中には、短いナイフ。

 少年の顔に複雑な影が射し、やがて彼は笑った。笑いはすぐに掠れて、誰にも拾われなかった。

 列は散り、広場は再び風だけの場所に戻った。

 ユウトは、ガチャに正面から向き合った。

 透明のドームの内側に、曇った指紋がいくつも貼りついている。昨夜ついた血のこびりは、もう乾き切って、剥がれない固さでハンドルの根元を縛っている。

 その台座から地面へ、細い影が伸びていた。

 管だった。

 赤黒い。錆ではない。色が、生っぽい。

 ユウトはしゃがみ込み、手で埃を払った。管はガチャの底からまっすぐ地面に潜り、そこから蜘蛛の巣のように方向を変えていた。広場の石畳の隙間、崩れたマンホール、壊れた噴水の台座。いたるところへ、細い線が伸びている。

「見える?」

 リナが隣にしゃがむ。

「これ……血の色に似てる」

「似てるじゃなくて、血かもしれない」

 言ってから、自分でぞっとした。

 耳を澄ます。石畳の下で、かすかな、湿った流れの音。ぐう、とも、ずう、ともつかない低い音が、地面から指先へ登ってくる。

「流れてる」

「なにが?」

「何かが、生きものみたいに」

 広場の端に、崩れた階段があった。駅の地下へ降りるためのものだったのだろう。半分は瓦礫で塞がれているが、身体を横にすれば通れる隙間はある。

 ユウトとリナは目を合わせた。

 行こう、という合図。

 昼は、もうすぐ終わる。夜になる前に確かめなければならない。

 階段を降りる。

 湿った空気が肺にまとわりつく。

 暗闇に目が慣れる前に、まず匂いが来た。鉄の匂い。雨上がりの鉄橋の匂いではない。口の中に広がる、生の味。

 足元に、水が浅く溜まっている。汚れた水面に、地上の光が細く揺れる。

 壁一面に、赤黒い筋が走っていた。上から下へ。途中で曲がり、枝分かれし、また別の枝へ繋がる。管はここでも、生きものの根のように、迷いなく伸びていた。

「この先、駅のプラットフォームだったところが……」

 リナの声が震える。

 懐中電灯はない。ユウトはポケットの中の単三電池と小さなライトを合わせ、弱い光を前へ押し出した。

 広い空間に出る。

 天井から落ちたコンクリートの塊の間を縫うように、管が走っていた。そこで初めて、ユウトはそれが“機械の配管”ではないことを確信した。

 管はところどころ、脈打っている。

 目に見えて、わずかに。

 それは、心臓の鼓動を遠くで聴いているときに感じる、皮膚の記憶に似ていた。

「触るなよ」

 ユウトは思わず言った。

 リナは頷いて、しかし目を離さない。

「この管、広場の下全部に這ってる。ガチャの台座は、その“中心”」

「根っこ。木みたいに」

「木なら、実がなる。ガチャは……カプセルを実らせる木だ」

 ユウトの喉が渇く。

「じゃあ、カプセルの中身は、ここから送られてる?」

「誰かの死と、誰かの渇きを……同じ配管で繋いでる」

 足元の水が、小さく波立った。

 静寂の中で、新しい音が混じる。

 ずる、ずる、と湿ったものが床を這う音。ユウトとリナは同時にライトを向けた。

 そこにいたのは、人間ではなかった。

 茶色く濁った袋のようなものが、床に貼りつき、呼吸をするように膨らんだりしぼんだりしている。袋の側面には、透明な膜があり、その向こうでも何かが動く。白い塊。形を定めない肉。

 袋の“口”に当たる部分は、管に繋がっていた。管はそこに血色を運び、別の管はそこから何かを吸い上げていた。

 リナが一歩後ずさる。

「これ……なんなの」

「分からない。でも、あのガチャは——機械じゃない」

 自分の声が、自分のものじゃないみたいに響いた。

「生きてる。少なくとも、死んだものじゃない」

 ユウトの脳裏に、昨夜の弾丸が浮かぶ。

 弾丸の側面に刻まれた数字列。座標のような規則。ひとつひとつの数字が、この地下の地図と重なるような錯覚。

 彼はポケットから弾丸を取り出した。

 冷たい金属の感触。

 その瞬間、周囲の脈がひとつ、強く打った。

 同時に、足元の水面が跳ねる。

 弾丸が、ほんのわずかに震えた気がした。

「なに、今の」

「わからない。でも、反応した……気がする」

「弾が、ここを知ってる?」

「逆だ。ここが、弾を知ってる」

 言いながら、ユウトは自分の言葉に身震いする。

 この地下の“体”は、街の死と生を飲み込み、吐き出している。吐き出されたもののひとつが弾丸で、その弾丸には、次へ繋ぐための道筋が刻まれている。

 まるで、誰かの指示のように。

 まるで、世界が自分自身に手紙を書いているように。

 遠くで、水が落ちる音がした。

 次の瞬間、別の音が混じる。

 足音。人のもの。

 ユウトとリナは顔を見合わせ、ライトを消した。暗闇が一気に濃くなる。

 誰かが、狭い通路をこちらへ歩いてくる。二人分。

 低い話し声。

「配管の付け根まで行けば、外れの確率が下がるって聞いた」

「見えもしないもんを信じられるかよ。でも、上はもう駄目だ。列は長いし、コインは尽きた」

 声は、広場で見た少年と、別の男のものだった。

 彼らのライトがつく。白い光が、袋状の“もの”の表面を舐めた。

 ふたりは息を呑み、足を止める。

「うわ、なにこれ」

「触るな。おい、こっち。管が太い。付け根だ。ここから……」

 一人が手を伸ばした。

 その指先が袋の膜に触れる。

 膜が、音もなく開いた。

 何かが中から溢れた。

 光を吸うみたいに黒い液が、男の手首まで瞬時に絡みつく。

 男が悲鳴を上げるより早く、膜は閉じ、手首のひとつ上で止まった。

 残ったのは、床に転がる細長い影だった。

 誰のものでもないような、ただの“欠片”。

 男は膝をつき、喉の奥で笑いとも泣きともつかない音を漏らし続けた。

 リナがユウトの袖を強く引く。

 逃げよう、という力。

 ユウトはうなずき、闇の中を戻り始めた。体の内側で、脈が合図のように急ぐ。

 階段を駆け上がり、地上の光に目を細める。空はもう夕焼けの手前で、街は長い影を伸ばしている。

 広場に戻ると、ガチャの前にまた列ができていた。さっきより短い。人々は疲れていて、少しの希望と少しの恐怖を等分に抱えているときの顔をしていた。

 サワダが、また声をあげる。

「夜になる。回せるのは、あと一人」

 列の最後尾で、リナが立ち止まった。

 ユウトは彼女の横顔を見る。薄い唇。乾いた目。

「回すつもり?」

「違う。見るの。誰が何を引いて、どうやってそれを抱えるのか」

 先頭の男がコインを入れる。

 音。落下。開封。

 中から、紙切れが出た。

 折られた紙。開く。

 そこには、数字が書かれている。昨夜、ユウトが見たのと同じ、座標らしき数字。

 男はそれをどう扱っていいかわからず、笑ってから丸めてポケットに入れた。

「外れだ」

 彼はそう言った。

 本当の外れは、別の場所で待っているのに。

 夜が来た。

 火は少ない。煙も少ない。煙は目印になるから、みんな、火をできるだけ低くして燃やす。

 リナは焚き火のそばで、膝を抱えた。ユウトは、その隣でうつ伏せになり、耳を石畳に押し当てた。

 地面の下で、音がする。

 脈。流れ。擦れる音。

 そして、時々、カプセルが転がる乾いた音が、土を通して伝わってくる。

 生きものの腹の中にいるみたいだ、とユウトは思う。

 この広場全体が、ひとつの巨大な体内で、そこにいる俺たちは、消化される順番を待っている。

 背中を、リナの指が押した。

「眠れないなら、話して」

「なにを」

「昨夜のこと」

 ユウトは言葉を探した。

 銃声。倒れる影。自分の手は空のまま。なのに、誰かが倒れて、血が広がって、朝には指がカプセルに入って戻ってきた。

 それらの断片は、ひとつの物語になりたがらない。

「俺が、初めて殺したこと?」

 口にしてから、その重さに気づく。

 リナは首を振った。

「違う。あなたが初めて“そう思った”こと」

 ユウトは焚き火を見た。炎が、風に押されて低くなる。

「わからない。あの男は、俺が動くより先に倒れた。弾の音はした。俺は撃ってない。なのに、俺の中にだけ、あの体温が残ってる」

「じゃあ、それでいい。あなたがそう思ったなら、それがあなたの真実だよ」

 リナの声は、泣きそうで、でも泣かなかった。

「真実は、いつも誰かの体の中にしかなくて、もう一回外に出したときには別の形になる。だから……せめて、私たちは自分の中の真実を正しく抱えたい」

 ユウトは黙った。

 焚き火の向こうで、子どもが咳をした。

 老人が短い祈りを口にした。祈りの相手は、もうこの世界にはいない。

 夜の真ん中で、ガチャのハンドルが、不意にひとりでに微かに揺れた。風ではなかった。

 ユウトは立ち上がった。

 台座の下、石畳の隙間からのぞく管が、脈と同じリズムでかすかに膨らむのが見えた。

 その膨らみがひとつ強くなった瞬間、ガチャの中でカプセルがひとつ、目に見えるほどわずかに転がった。

 誰も回していないのに。

 まるで、向こう側から差し出されるみたいに。

「ユウト」

 リナが立ち上がる。

「やっぱり、生きてる」

「うん。生きてる」

 ユウトはポケットの弾丸を握った。

 金属は、さっきより温かかった。自分の体温が移っただけかもしれない。けれど、もっと別の、低い温もりが混ざっている気がした。

 弾丸に刻まれた数字列を、暗がりで指先がなぞる。

 広場の北。駅の地下道。さらに先の、崩れたトンネル。その向こう。

 座標は、地図ではなく、心臓の鼓動をつなぐ譜面のように思えた。

「行こう」

 ユウトの声は、夜の空気に吸い込まれた。

「どこへ」

「数字の先へ。ここが吐き出す“次”の場所へ」

 リナは短く笑った。笑いは、すぐに真剣に変わる。

「行く前に、ひとつだけ。——マコトの指、もう一回見に行こう」

「なんで」

「忘れないため。誰かを置いたから前に進める、って嘘をつかないため」

 ユウトはうなずいた。

 二人は掲示板の影へ回り、瓦礫をどけた。土は、思ったよりもしっかりとカプセルを抱いていた。

 ユウトは、そっと手を置く。冷たい。

 リナは小さな布切れを取り出した。元は自分の袖だったもの。彼女はそれを土の上に敷き、短く言った。

「おやすみ」

 風が、その言葉を拾っていった。

 そのときだった。

 ガチャの方から、わずかなざわめき。

 誰かが近づいている。

 サワダだ。肩の袋を提げ、周囲を見回しながら、ガチャの前に立つ。

 彼はポケットから一枚のコインを出した。

 それは、さっき座標を引いた男から奪ったのかもしれないし、別の誰かから買ったのかもしれない。方法はどうでもいい。ここでは、結果だけが残る。

 サワダは、誰にも見られていないと思っている。

 ユウトとリナは影に身を沈め、息を殺した。

 コインが落ちる。

 ハンドルが回る。

 落ちた。

 ふたが開く。

 夜気が、その瞬間だけ鋭く感じられた。

 サワダの肩が、わずかに跳ねた。

 彼はすぐさまカプセルを閉じ、袋に押し込んだ。

 そして、振り返りもせず、足早に広場の外へ去った。

 残ったのは、ハンドルの微かな揺れと、台座の下の“脈”。

「何を引いたんだろう」

「わからない。けど、あの速さは——食べ物じゃない」

 ユウトの背に、冷たい汗が戻ってくる。

 武器か、死体か。

 どちらにしても、誰かの夜が、別の形で短くなる。

 遠くの雲が、薄く光った。

 街の向こうで、雷のような音がした。実際に雷かどうかはわからない。世界のどこかが、また別の音を出しているだけかもしれない。

 ユウトは弾丸を握り、心の中で数字をたどった。

 一、二、三。

 鼓動と、歩幅と、明日の位置。

 この街の下で蠢く“何か”の、呼吸と呼吸のあいだ。そこにだけ、まだ言葉が置ける気がした。

 リナが肩を預けてくる。

「ねえ、ユウト」

「なに」

「もしも、あのガチャがほんとに生きてるなら、私たちは今、誰かの体の中で生きてるってことだよね。だったら……私たちが外に出るとき、私たちも“景品”になってしまうのかな」

 ユウトは答えられない。

 答えはいつも遅れて届く。

 風が灰を運び、夜が広がる。

 ガチャの中で、またひとつ、カプセルが転がった気がした。

 回す音のしない、回る音。

 それは、誰の選択でもないところで起きていて、でも確実に、誰かの明日を決めていた。

 ユウトは、握った弾丸をもう一度見た。

 数字の列が、焚き火の弱い明かりで、蜂の巣みたいに見える。

 どこへ行っても、誰かの欠けた場所に触れるのだろう。

 それでも行く。

 行かなければ、ここでゆっくりと消化されるだけだ。

 誰かの胃の中で、名前のない栄養になるくらいなら、どこかの座標の上で足跡になりたい。

 足跡はすぐに風にさらわれる。けれど、風が変わることもある。

 そうやってしか、信じられるものは残らない。

 夜明け前、空気がいちばん冷たくなるころ、ユウトとリナは立ち上がった。

 持てるだけの荷物を背に、リンゴの芯を布で包み、土に埋めた場所へ短く頭を下げる。

 広場の出口で振り返ると、ガチャの透明なドームに、薄い光が差し込みはじめていた。

 新しい朝。新しい列。新しい当たりと、新しい外れ。

 そのどれもが、同じ重さで誰かの肩に乗る。

 ユウトは小さく息を吸い、吐いた。

 まだ震えている。けれど、震えは体が生きている証だ。

 地面の下で、脈が鳴った。

 それに合わせるように、彼は最初の一歩を踏み出した。

 背後で、回る音がした。

 振り向かない。

 二人は、数字の示す北へ歩き始めた。

 足跡はすぐに灰に埋もれる。

 それでも、確かにそこに残った。

 しばらくして、風が変わった。灰の匂いが、少しだけ薄くなった。

 ユウトは、リナの手首に触れた。

 彼女の脈は、早すぎず、遅すぎず、どこかで聞いた“地面の音”と同じリズムだった。

 誰かが死ねば、死体が戻ってくる。

 誰かが生きれば、運が回ってくる。

 その両方を飲み込みながら、この街はまだ“回って”いる。

 だとしたら、回すのは誰だ。回せない誰が、外側で見ている。

 ユウトは、胸の奥に重たく残った問いを、言葉にはしなかった。

 言葉にしてしまえば、小さくなる気がした。

 世界は、もう十分に小さい。

 東の雲が、灰色から白へ変わっていく。

 その白さの手前で、ユウトはふと、背中を引かれるような感覚にとらわれた。

 広場の真下で蠢く“何か”が、彼らの歩みを確かめるように、ひとつ強く打った。

 答えは、まだ先にある。

 座標は、まだ始まりにすぎない。

 そして、朝が来た。

 ガチャは今日も回る。

 誰かが、今日も回す。

 回す音と、回らされる音が混ざって、崩れた街の空に薄く広がっていく。

 その音の端で、ユウトとリナの足音が、確かに別のリズムを刻みはじめていた。


第3話「リナの順番」

 午前の光は白く、灰の粒を浮かせていた。

 広場の端に張ったブルーシートの影で、リナは汗に濡れて横たわっている。額に触れると、指先が跳ねるほど熱かった。呼吸は浅く、時々、喉の奥で乾いた音がした。

「水……」

 唇だけが動く。

 ユウトは急いでボトルを傾けた。喉が上下し、ほんの少しを飲み下すと、また瞼が閉じていく。

「ごめん、もっと冷やさないと」

 ユウトは自分の首に巻いていた布を外し、崩れた噴水の溜まりに浸した。濁った水でも、ないよりはましだ。絞って、額に当てる。布はたちまち熱を吸い、ぬるくなった。

 広場を渡る風が、灰を連れてくる。灰は皮膚に張り付き、口の中へ入り、味覚と嗅覚を鈍らせる。これが原因なのか、病原体なのか、放射線なのか、もう確かめる術はなかった。

 昨日まであれほどよく喋り、よく歩いたリナの体が、今は小さく見えた。汗で貼りついた前髪の下、眉がかすかに寄る。熱の波が来ては去り、去ってはまた来る。

「薬……」

 自分の声が、無力だった。

 こんな時のために、とっておいた薬はない。誰も持っていない。誰かが持っていたとしても、もう交換に出す理由がない。目の前の人の命と引き換えに差し出せるものなど、今のユウトには何も残っていなかった。

 彼は立ち上がり、広場の中央へ向かった。

 透明なドームの内側で、カプセルがまた鈍く回っている。あの音は、どの涙より強く神経を刺した。

 台座に両手をつく。額を擦るようにしながら、ハンドルを見下ろした。金属は朝の冷たさをよく覚えていて、握ればきっと皮膚から熱を奪うだろう。

「頼む、なんでもいい。薬を出してくれ」

 言葉は祈りよりも荒かった。

 ユウトは胸ポケットから、最後のコインを取り出した。錆の斑点が指に移る。リナに見せずに残しておいた一枚。彼女が笑って「それ、私の誕生日プレゼントね」と冗談を言ったのを思い出す。

 投入口に入れる。

 コトン。

 ハンドルを握る。

 回す。

 ――ガチャリ。

 落ちたカプセルは軽かった。

 震える指でふたを開ける。

 中に入っていたのは、小さな拳銃だった。艶のない黒。装弾数は六。今にも金属疲労で割れそうな、古い片手用。

 弾が二発だけ、薄い紙片に包まれて添えられている。

「ふざけるなよ」

 口が勝手に動いた。胸の内側が燃えるみたいに熱くなり、全身を逆流した。

「薬を出せって言ってるんだ。食料でもいい。水でもいい。なんで……なんで銃なんだよ」

 ユウトはカプセルを地面に叩きつけ、ハンドルを蹴った。

 金属が鈍く鳴り、揺れ、すぐに元の位置に戻る。

 ガチャはただ、次のコインを待っていた。

 膝が笑って、その場に崩れ落ちた。

 拳銃を拾い上げる。冷たい。掌に吸い付くような重量が、嫌に生々しい。弾を込める手つきが迷わない自分に気づいて、吐きそうになった。

 撃つ相手なんていない。撃っても、薬は出ない。

 なのに――この街では、銃が「答え」になってしまう場面があまりにも多かった。

 ユウトは拳銃をポケットに押し込み、早足でテントに戻った。

 リナは浅い睡眠の底でうなされている。呼ぶと薄く目を開け、焦点の合わない視線がユウトの顔をさまよった。

「ユウト……今、何時?」

「朝の……十時くらい」

「ふうん。午前中に熱が上がるの、子どもの頃から。放っておけば下がるよ」

 からっぽの元気を絞って、そう言う。

「下がらなかったら?」

「そしたら……あなたが歌って。音痴なの笑ってたら、熱も逃げる」

 ユウトは苦笑いさえできなかった。

「薬を探す。ここじゃないどこかに、まだ残ってるはずだ」

「座標の先?」

 リナの目が、わずかに冴えた。

 ユウトはうなずく。

「あの弾が示す方角を辿る。きっと医療倉庫のひとつくらい残ってる」

「無茶はしないで。戻ってくる約束」

「当たり前だろ」

「当たり前なんて、もうないのに」

 彼女は自分で自分の額に手を当て、熱の波を数えるみたいに目を閉じた。

 昼すぎ、広場にまた列ができた。

 ユウトは列を遠巻きにしながら、声をかけて回った。

 薬。解熱剤。抗生物質。消毒液。何でもいい。

 答えは、乾いた肩すくめと、視線の回避。時には露骨な拒絶。

「今の時代、薬は食料と同じだ。いや、もっと価値がある。誰かが死ななきゃ出さないものだってある」

 サワダが言った。

「交換なら、弾か銃を出せ」

 ユウトは唇を噛んだ。

「銃は出す。でも、薬は今すぐだ」

「今すぐじゃない。順番だ」

「順番で死ぬのは、あんたじゃない」

 サワダは目を細め、乾いた笑みを浮かべた。

「気持ちはわかる」

「わかってない」

「わからないなら、こんな顔はしない」

 言い合いはそこで切れた。

 ユウトは引き返し、リナの元に戻った。布を替え、体位を変え、手を握る。握り返す力は、さっきより弱かった。

「ごめん。見つからない」

「ううん……ありがと。寒くない?」

「暑いくせに」

「そうだね。変だね」

 リナは微笑んだ。

「ねえ、もしもの話をしてもいい?」

 ユウトは首を振った。

「しない」

「じゃあ、未来の話」

「遠い?」

「すごく近い。明日の朝くらい」

 彼女はゆっくり言葉を選ぶように、呼吸の間に短い間を置いた。

「明日の朝、熱が下がってたら、私が回す。ガチャ」

「やめろ」

「わがままを言わせて。ずっと“運が悪い”って言い続けてきたから、たまには自分で確かめたいの」

「確かめるって、何を」

「順番。生まれた順番、選ばれる順番、死ぬ順番。その全部から、私が外れて今日まで残ってしまった理由」

「そんなもの、誰も知らない」

「だから回すんだよ」

 笑いながら、涙がこぼれた。

「ユウトが隣で泣けないように、先に泣いておくの」

 夕暮れ、風向きが変わった。

 広場の反対側から冷たい空気が滑り込み、灰が別の波紋を描く。焚き火の煙が低く這い、子どもたちの咳が少し収まる。

 ユウトはリナの額をもう一度拭い、乾いた唇に布の端を押し当て、水を含ませた。

 やがて夜が降り、星の代わりに散ったガラス片が街灯の残光を返す。

 眠れ、と言われた。

 眠れるわけがなかった。

 それでも、リナが目を閉じ、呼吸が少し落ち着くのを見届けると、ユウトはテントの入口に背を預け、拳銃を抱えて目を閉じた。

 耳だけは、広場の音を拾い続ける。

 カプセルの転がる音。

 管の脈打つ音。

 遠くで吠える犬の声に似た、風の鳴き声。

 眠りと覚醒の境目で、リナの声がした。

「ユウト」

「起きてる」

「大丈夫。怖がらないで」

「何を」

「全部」

 言葉は、柔らかく静かだった。

 ユウトは首を巡らせたが、リナは眠っている。夢の中で誰かと話しているみたいに、口元だけが動いていた。

 彼は拳銃を握り直した。弾は二発。どこに向けるでもなく、ただ、夜の冷たさに抗って握っていた。

 朝、鳥の声の代わりに、金属の軋みがユウトを起こした。

 喉が焼けるほど渇いている。舌が唇に貼りつく。

 テントの布をめくる。

 冷たい空気が流れ込み、皮膚が縮む。

「リナ」

 呼ぶ声は、最初から破れていた。

 そこに、リナはいなかった。

 思考が一枚剝がれ落ちる。

 次の瞬間、体が勝手に走っていた。

 シートを跳び越え、瓦礫を踏み、広場の中央へ。

 ガチャの前に、ひとつのカプセルが転がっていた。

 透明な殻の向こう、柔らかい何かが陽の光を受けて揺れている。

 膝から崩れた。

 手が伸びる。

 カプセルに触れると、内部の髪がふわりと揺れた。

 黒い。長い。ところどころに乾いた汗の塩が白く残り、端を束ねていた細い紐が、ほどけかけている。

 ふたを開ける手が震えて止まらない。歯を食いしばり、爪で縁をこじる。ぱきん、と乾いた音。

 香りがした。

 煙と灰の世界で、たったひとつ消えなかった、あの微かな甘さ。雨の前の風みたいな、リナの髪の匂い。

「嘘だろ」

 声は、誰にも届かないところへ落ちた。

「リナ……おい、どこだ。返してよ。返せよ」

 台座に手を叩きつける。

 ハンドルが小さく揺れ、透明のドームの内側で別のカプセルが転がった。

 ガチャは相変わらず静かで、哀れみも言い訳も持っていない。

 背後で、誰かが息を飲んだ。

 振り返ると、数人が距離を取って見ていた。サワダもいた。

 彼は視線を逸らさず、低い声で言った。

「彼女……昨夜、ひとりで列に並んだ」

「嘘をつくな」

「本当だ。俺は見た。熱が少し引いた時間だった。ふらついてたが、立ってた。順番を譲られて、回した。カプセルを胸に抱えて、こっちへ戻ってきた。それから……見失った。朝まで」

「どこへ行ったんだよ」

「知らない。ただ……」

 サワダは顎で地面を示した。

 台座の下の隙間。血色の管。

 そこに、黒い糸のようなものが一筋絡み、すぐに奥へと吸い込まれて消えていくのが見えた。

 ユウトは息を止めた。

 髪の、一本。

 リナの色。

「中に……」

 喉が閉まる。

 頭のどこかが冷たく研ぎ澄まされ、別のどこかが悲鳴を上げ続けた。

 ユウトは拳銃を抜いた。

 サワダの眉が動く。

「やめろ。撃っても壊れない」

「壊れなくていい。目印をつける」

 ユウトは台座の側面、管に近いコンクリートの継ぎ目に狙いを定め、弾を撃ち込んだ。

 甲高い音。石片が弾け、白い粉が舞う。

 管が一瞬、強く脈打った。

 周囲の空気が震える。

 広場を包む灰が、流れを変えた。

 ユウトはもう一発を、台座の真下へ撃った。

 響き。沈黙。

 ガチャの中で、カプセルが三つほど一度に踊り、やがて元の鈍さに落ち着いた。

「さあ、出せ」

 ユウトは台座に額を押し当て、絞り出す。

「運でも景品でもないやつを、今すぐ吐き出せ。髪だけじゃない。彼女を返せ」

 返事は、ない。

 あるはずもない。

 それでも、彼はしばらく額を離さなかった。冷たい石に、自分の熱と汗が移っていくのを感じながら。

 やがて、肩に手が置かれた。

 サワダではない。小柄な老女だった。

「坊や。あたしの孫もね、ここで髪になって戻ってきたよ」

 ユウトはゆっくり顔を上げた。

 老女は、笑っているのか泣いているのか分からない顔で、かすれた声を続けた。

「それでも朝は来るんだ。残った者にだけ、朝は来る。朝が来るということは、歩けってことだよ」

「歩いて、どこへ」

「あんたの弾が教える場所へ。若い足は、そのために残ったんだろ」

 彼女の目の奥に、微かな光があった。

 ユウトは返す言葉を持たず、老女の手をそっと外した。

 リナの髪を、布に包む。

 細い束は驚くほど軽く、指に絡む感触だけが生々しかった。

 あの日、彼女が自分の髪を高い位置で結び、真剣な顔で「似合う?」と訊いたとき、ユウトは冗談で「戦士みたいだ」と答えた。彼女は笑って、戦士の真似をしてみせた。その笑い声が、今でも耳の奥に残っている。

 ユウトはテントに戻り、布切れを小さな袋に縫いつけた。針金と糸は、修理用に少しだけ持っていた。震える手つきで、丁寧に縫い口を塞ぐ。

 袋には彼女の名前を刻まず、代わりに弾の数字の一部を書き写した。座標の前半。

 生と死と機械の腹をつなぐ、細い線。

 それを道標にする。

 広場を出る準備をするあいだ、何度も何度も振り返ってしまう。

 台座の下。管。ドーム。

 透明の向こうで、カプセルがまたひとつ、転がる。

 あの音に、今の自分はもう祈れない。

 祈る代わりに、歩く。

 祈るより先に、彼女が選んだ「順番」の意味を探しに行く。

 荷物を背負うと、肩が重い。

 銃は空になり、弾はない。

 代わりに、袋が胸の位置で小さく揺れた。

「行ってくる」

 誰に向かって言ったのか、自分でもわからない。

 テントの柱、瓦礫の影、掲示板の残骸、灰の空——そこに散ったすべてに。

 広場の外れで、サワダが待っていた。

「送る」

「いらない」

「座標の先は、俺も気になってた。弾を持ってても、ひとりだと道を勘違いする」

「俺は誰かを撃つ気はない」

「俺もだ。撃たれたくはあるがな」

 奇妙な冗談だったが、ユウトは笑えなかった。

 サワダは肩をすくめ、歩き出す姿勢だけを見せて、結局は広場へ戻った。

「戻ったとき、報せろ」

 背中越しの声は、風に割れて聞き取りにくかった。

 ユウトは返事をしなかった。

 昼前、街を北へ向かう。

 崩れた高架、ひび割れた道路、倒れた標識。

 途中、給水塔の影でしばらく休み、リナの髪の袋に触れた。

 心臓の鼓動が、その重さを確かめる。

 彼女の「順番」は、死ぬためじゃない。誰かを生かすために、自分がそこに立つのだと確かめるためだったのだと、勝手に信じることにした。

 それがただの自己救済でもいい。今はそれしか、足を前へ出す方法がない。

 午後、座標の前半にあたる地点に着いた。

 そこは、かつて病院だった。

 白い外壁は煤に黒く染まり、窓ガラスは半分以上が抜け落ち、入口には「立入禁止」のテープが風に擦れて鳴っている。

 ユウトは息を整え、拳銃の空の重みを確認し、扉を押した。

 ロビーには、車椅子がひっくり返っていた。

 カルテが散らばり、薬品棚の扉は全部開いている。

 誰かが何度も漁った跡。

 それでも、何かが残っているとすれば、深いところだ。

 彼は階段を降り、地下の薬品庫へ向かった。

 扉にはチェーン。南京錠は錆びて膨らんでいる。

 ユウトは鉄パイプでこじり、時間をかけて壊した。

 中は暗い。懐中ライトは弱々しい。

 棚には、ラベルの剝がれた瓶がいくつもある。

 中身が残っているものは少し。

 匂いを嗅ぎ、振り、光に透かす。

 解熱剤に見えるものがあった。錠剤。湿気で変形しているが、まだ砕けない。

 ユウトは小躍りしそうになる膝を押さえ、ポケットへ慎重に入れた。

 その時——低く、重い音が床下を駆け抜けた。

 広場の地下で聞いた脈の音に、よく似ている。

 壁に耳を当てると、ずるずると何かが這う気配。

 この病院も、繋がっている。

 この街の下で、あの配管は網の目になり、死と生を行き来させている。

 ガチャは中心で、ここは末端。

 末端が呼吸をし、中心が吐き出す。

 リナの髪は、その流れの中で一瞬だけ岸に打ち上げられた“漂着物”だ。

 ユウトは、棚の奥に視線を入れた。

 暗がりの底で、銀色の包みがひとつ光った。

 救急用のアンプル。ラベルは擦れて読めない。

 それでも、注射器とセットになっている。

 彼はそれも拾い集め、布に包んだ。

 帰り道、雲が厚くなった。

 風の匂いが変わる。遠くで砂が巻き上がる音。

 広場へ急ぐ足が、勝手に速くなる。

 リナが待っている——その言葉が、胸の中で何度もぶつかって壊れ、また形になって胸骨を叩いた。

 広場に戻ると、列は短く、顔ぶれは疲れていた。

 サワダがこちらを見て、目だけで何かを尋ねた。

 ユウトは返さない。テントへ走る。

 布をめくる。

 空気が止まる。

 そこには、彼女の体の形にだけ沈んだ寝床と、薄い汗の匂いが残っていた。

 ユウトは膝をつき、震える手で布を握りしめた。

 袋が胸で小さく鳴る。髪が、そこにある。

 彼はゆっくりと袋を取り出し、額に当てた。

「戻ったよ。遅くなって、ごめん」

 声は、かすれていたが、確かに音になった。

「聞いてる?」

 返事は、ない。

 だけど、彼はもう一度言う。

「聞いてて。これから、座標の全部をたどる。管の根の先まで行く。あなたが回した“順番”の奥まで届くまで、何度でも」

 薬を握る手に、力が入った。

 小さな錠剤一つにすがるみっともなさを、恥ずかしいと思う余裕はなかった。

 生者の恥は、生き続けるための燃料だ。

 ユウトは立ち上がり、広場を横切って台座の前に立つ。

 透明なドームに、自分の顔が歪んで映る。

 その向こうで、カプセルがゆっくりと転がった。

「お前は生きてる。だったら、わかるはずだ。俺がどれだけ本気か」

 ユウトは囁き、指で台座の弾痕をなぞった。

 目印は、ここから始まる。

 彼は踵を返し、灰の道へ踏み出した。

 空は薄く暗く、風は冷たく、喉は渇いて、胸は痛む。

 だが、歩幅は揃っていた。

 胸元の小さな袋が、足音に合わせて揺れる。

 髪の一本一本が、道を引く糸になれ。

 彼女がこの街に託した最後の「順番」が、誰かの死体ではなく、誰かの明日へ繋がるように。

 ユウトは歩いた。

 座標の続きが、灰の向こうで待っている。

 その先で、彼は必ず、名前を呼ぶ。

 髪ではなく、体ではなく、声で。

 それが叶わなかったとしても——呼ぶことだけは、誰も奪えない。

 風が、少しだけ匂いを変えた。

 雨の前の匂い。

 ユウトは顔を上げ、遠くの雲の切れ間に、薄い光を見た。

 それは希望なんかじゃない。

 ただ、次の一歩を映す光だった。

 それだけで、十分だと思った。


第4話「血とコイン」

 ガチャの透明なドームに、額を押しつけていた。

 冷たい。石の棺に触れているみたいだ。

「返せよ……リナを……」

 声は自分のものだと思えないほどかすれていた。どれだけ繰り返しても、機械は何も言わない。内部のカプセルが、呼吸のように転がる音だけが返ってくる。

 胸元の小さな袋を握る。縫い目の向こうで、彼女の髪が音もなく揺れた気がした。そこにあるのに、いない。いないのに、そこにある。どちらを信じても、体が軋む。

「返せ」

 呟きは石畳に吸い込まれ、台座の下の“脈”に絡まって消えた。

 その日から、ユウトは広場に張りつくようになった。

 列が延びる。順番が生まれる。コインが掲げられ、視線が集まる。

 コインを持つ人間は、守られた。彼らは列の外で肩を叩かれ、食べ物を差し出され、笑顔を向けられた。神さまみたいに扱われる、と誰かが冗談を言った。誰も笑えなかった。冗談は、当たり前の顔をしてそこに座ったからだ。

 逆に、コインを失った者は、早かった。列からこぼれ、肩をぶつけられ、足を払われ、いつのまにか広場の影にうずくまる。夜にはいなくなる。朝、カプセルの中で見かける。指、耳、布に包まれた名もない一部。

 ガチャは、広場を祭壇に変えつつあった。血の匂いが、灰の匂いに混ざって濃くなっていった。

 ユウトは最初、頼んだ。コインを分けてくれ、と。

 次に、取引した。解熱剤らしい錠剤と引き換えに、と。

 それでも足りないとわかると、殴った。

 殴って奪った。

 奪っても、また足りなくなる。

 両手の中で鳴る、小さな金属の音だけが、夜の底をつなぎとめてくれた。

 サワダが何度か止めに入った。

「目が危ない」

「放っておけ」

「お前は“戻る場所”を残しておけ」

「戻る場所は、もう飲み込まれた」

 言いながら、ユウトは自分の声の冷たさに驚いた。驚きはすぐに鈍くなり、鈍さは簡単に習慣に変わる。

 拳が、腰が、足が、コインを持つ手を狙って動いた。自分の体が、別の誰かの意思で操られているように軽くなる瞬間が増えた。

 殴ったあと、胸の袋に触れる。布越しに伝わる重みが、罪と同じ単位で計測できそうで怖かった。

 ある夕暮れ、ユウトは列の前で叫んだ。

「回すのは俺だ」

 手には三枚のコイン。錆と血で汚れている。

 周りがざわつく。

 サワダが一歩前へ出る。

「ルールを守れ」

「ルール?」

 ユウトは笑った。口の端だけが上がる笑いだった。

「ここにあるのは順番じゃない。死ぬ順だ。書き換えられるなら、書き換える」

 サワダはしばらく黙り、やがて肩をすとんと落とした。

「好きにしろ」

 言いながら、彼は列の人々を手で制した。誰も近づかなかった。目が合うのを避け、足元だけを見ていた。

 一枚目を入れた。

 回した。

 落ちた。

 ふたを開ける。

 刃渡りの短い鉈。

 二枚目。

 回す。

 乾いたクラッカーが三片。

 三枚目。

 回す。

 弾。座標の刻印。

 息が詰まる。

 弾に触れた瞬間、台座の下の管がひとつ強く打った。体の奥で、同じ場所がうずいた。

 透明なドームに映る自分の顔は、他人のもののようだった。頬がこけ、目の下に影。リナの髪の袋だけが、胸の上でまっすぐに位置を保っている。

 夜になると、火の周りに“儀式”が生まれた。

 コインを持つ者は中央に座り、持たざる者は距離をあけて壁際に寄る。中央では、持つ者同士が取引をする。食料、刃物、靴、毛布。言葉より先にコインが動く。

 誰かが訴える。

「子どもにミルクを」

 誰かが答える。

「コインがないなら、朝まで待て」

 誰かが怒鳴る。

「朝までって、どの朝だ」

 怒鳴り声は、すぐに押し黙らされた。押さえつけられ、殴られ、足音の陰に飲まれていく。

 ガチャの中のカプセルが、低い音で転がる。それは合図に似ていた。許しではない。許しは、ここでは“当たり”の別名になってしまった。

 ユウトは眠らなかった。眠ると、夢がリナの声を連れてくる。起きると、声は灰になっている。

 起き続けると、灰の中に声が戻ってくることがある。声は「やめて」とも「行け」とも言わなかった。

 ただ、髪の匂いがする。

 その匂いが、ユウトを広場に縛った。

 ある夜、悲鳴が聞こえた。

 広場の外れ。倒れた外灯の影。

 ユウトは反射で走った。

 そこにいたのは、小さな影だった。

 白いワンピースが血で貼りつき、膝から下が泥だらけ。髪は短く切りそろえられているのに、端々がざらついている。

 少女がこちらを見上げた。目の白が、薄い灯りを拾った。

「助けて、とは言わない」

 最初に発した言葉がそれだった。声は小さく、しかし芯があった。

「言えば、代わりに何かを求められるから」

 ユウトは一瞬遅れて、周囲を見渡した。追っている足音はない。風の音と遠い咳だけ。

「傷は」

「平気。よく血が出る体質なだけ」

 少女は立とうとして、よろけた。ユウトは思わず肩を支えた。血が手に移る。生温かい。

「名前は」

「ノノ」

 短く答えて、彼女は自分の左前腕を捲った。

 そこに、見覚えのあるマークがあった。ガチャの台座に刻まれた、円と歯車の簡単な刻印。けれど、これは皮膚に焼きついている。輪郭が盛り上がり、中心に小さな凹み。

「それ、どこで」

「ここで」

 ノノは顎で広場を指す。

「下で」

「下?」

「うん。地下。あなた、もう見たでしょ。管。脈。袋。あれ、ひとつじゃないよ。広場の下は迷路。『選別システム』があるの」

 選別、という言葉が耳に刺さる。

「何を選ぶ」

「次の結果。誰に何を出すか。誰から何を取るか。組み合わせ。確率。あらかじめ決めるんじゃなくて、食べたもので決めるの」

「食べた……?」

「人のDNA。血、髪、皮膚。カプセルに入った“欠片”は、ただの供物じゃない。データ。あれが落ちるたび、下の生き物は学ぶ。誰が回せば暴れるか、誰が当てれば泣くか。誰が、次に必要か」

 ノノは淡々と言った。言葉の端で、息が揺れる。彼女の体は軽く震えている。寒さか、痛みか、それとも恐怖か。

「嘘だと思うなら、明日、管の太いところに耳を当ててごらん。人の声がする。混ざってる。泣き声、笑い声、祈り、ため息。ぜんぶ、細かく砕かれて、流れてる。あれはただの血じゃない」

 ユウトはノノの前腕にもう一度目を落とした。刻印の周りの皮膚が、薄く青い。血管が浮いて見える。

「その印は……どうして」

「選ばれた人につく。『検査済』の合図。上で回すとき、何が出ても、その人にふさわしくなるように」

「ふさわしく?」

「よく出来た皮肉。私が回すと、たいてい“刃物”が出た。ほら、似合いそうでしょ」

 ノノは無表情で言って、自分の細い手を見た。爪の間の汚れは新しく、乾いた血が筋になって残っている。

「あなたは?」

 ノノが顔を上げた。

「あなたは、もう選ばれてるよ」

「やめろ」

「本当。胸の、袋。彼女の髪。その匂い。下はそれを嗅いでる。あなたの歩き方、呼吸、声。ぜんぶ、もう読まれてる」

「俺は……座標を辿る。そこに何があるか確かめる」

「座標は餌です。目的地があると思わせるための。『先へ行け』って背中を押して、必要な感情を増やす。希望。執着。復讐。どれでもいい」

 ノノは言葉を切り、短く咳き込んだ。肩が跳ね、口元に血の点が咲く。

「大丈夫か」

「平気」

 そう言うと、ノノはユウトからすっと身を引き、地面に座り込んだ。足が上手く言うことをきかないようだ。

「どうしてそんなことを、俺に話す」

「あなたが壊れてるから」

 ユウトは息を止めた。

 ノノは続ける。

「壊れてる人は、話を真っ直ぐに受け取る。余計な飾りや嘘で守らない。そういう人にしか、たぶん、届かない。あともうひとつ。私も、あなたに賭けたい」

「何を」

「順番」

 ノノは笑いもしないで言った。

「私、コインを持ってない。奪う力もない。あなたは持ってる。奪ってきた。つまり、あなたが“神側”に立つなら、私みたいな“持たない側”は、あなたにすがるしかない。ね、滑稽でしょ」

「俺は神じゃない」

「じゃあ何」

「……返してほしいだけだ」

「返ってこないよ」

 ノノの声は、優しかった。

「でも、『返ってこない』の先にしか、道はない。あなたが歩くなら、私もついていく。下があなたを選んだなら、下にとって最悪の選択を、あなたはしてくれるかもしれない」

 ユウトは立ち上がった。足元が一瞬ふらつく。

 広場の中央、ガチャのドームに夜の火が映り、いくつもの揺れる灯りが歪んで混ざっている。

 台座の下の管は、今夜も規則的に脈打っていた。

「選ばれた、っていうのは、つまりどういうことだ」

「そのうちわかる。印が出る。皮膚の下に、熱が走る。回さなくても、呼ばれる。落ちるカプセルが、あなたにしか見えない順番で転がる」

 ノノは肩をすくめ、右手を差し出した。

「宿、貸して。血が乾くまで」

 ユウトは頷いた。

 彼女をテントへ連れていき、古い毛布をかける。水を渡すと、ノノは少しだけ口を湿らせ、目を閉じた。

「痛むところは」

「全部」

「眠れ」

「眠れるなら、とっくに神さまになってる」

 馬鹿みたいな返事だったが、ユウトは笑えなかった。笑いは喉の奥でからからの音になり、やがて消えた。

 外に出ると、サワダが火の影から現れた。

「拾ったな」

「ああ」

「気をつけろ。印がある」

「見た」

「印のついたやつは、だいたい長生きしない」

「知ってる」

 短い会話が途切れたところで、ガチャの中のカプセルがひとつ、静かに転がった。風はない。

 ユウトは足を向ける。

 台座の弾痕に、指先を当てる。

 そこはもう、冷たくも温かくもなかった。

 ただの石。

 ただの境界。

 ここで世界は、上と下に分かれる。

 その夜、ユウトは眠りつづけるふりをした。

 目を閉じ、耳を開く。

 地面の下で、遠い笑い声が混じった。

 祈りの言葉が砕け、ため息が細かくなり、泣き声が長い管を滑っていく。

 ノノの言った通りだった。

 そこに、リナの声はなかった。

 でも、匂いがした。髪の匂い。

 胸の袋に顔を埋めると、ほんの一瞬だけ呼吸が楽になった。

 明け方、ノノは小さくうなされた。

 ユウトは起き上がり、水を差し出した。

「座標の続きに行く」

 自分で驚くほど、声は落ち着いていた。

「来るか」

「もちろん」

 ノノは立ち上がり、刻印のある前腕を布で巻いた。

「あなた、たぶん今日、呼ばれるよ」

「どういう」

「行けばわかる」

 ノノは広場の中心をちらりと見た。

「それと、彼女の髪、持っていって。『選別システム』がいちばん強く反応するのは、それだから」

 ユウトは袋を胸の内側に差し直した。

 風は冷たく、空は暗い。

 広場の外へ踏み出した足が、石畳の境界で一瞬止まる。

 背中に、透明な目がいくつもついている感じがした。ドームの向こうから、見られている。

 振り返らない。

 振り返ったら、戻ってしまう。

 戻ったら、回してしまう。

 回したら、また誰かの髪が出る。

「行こう」

 ノノが並んだ。歩幅は小さいが、乱れない。

 ユウトは右手で胸の袋を押さえ、左手で空の拳銃の冷たさを確かめた。

 遠く、崩れた高架の向こうで、朝の気配が薄く滲み始めている。

 選ばれるという言葉が、背骨の奥でじりじりと焼ける。

 選ばれたなら、選び返す。

 それが出来るかどうかもわからないまま、ユウトは前へ出た。

 最初の角を曲がったときだ。

 前腕の内側に、熱が走った。

 刺すような痛みではない。じわ、と広がる痺れ。

 袖を捲る。

 皮膚の下、青く細い血管の交差点に、薄い円が浮いて見えた。

 刻印と同じ形。

 まだ外からは触れない。内側だけが熱い。

 ノノが頷いた。

「ほら、言ったでしょ」

 ユウトは何も言わず、袖を戻した。

 歩く。

 呼吸を合わせる。

 地面の下の脈と、胸の上の袋と、前腕の熱が、奇妙に同じテンポで進み始めた。

 選ばれたのなら、なおさら。

 返せ、という言葉を、何度でも言える場所へ。

 背後で、回る音がした。

 振り向かなかった。

 振り向かないことが、今できる唯一の反抗だと、ユウトは思った。

 風が灰を運び、朝がゆっくり押し寄せる。

 血とコインが作った祭壇から離れるほど、足の裏の感覚が戻ってくる。

 痛みは、生きている証拠だ。

 痛みを持ったまま、ユウトは歩いた。

 彼の順番が、誰かの順番を終わらせるためではなく、誰かの明日を繋ぐためにあることを、いつか証明するために。




第5話「沈む機械」

 地下へ降りる階段は、半分ほど泥で埋まっていた。

 コンクリートに染みついた鉄の匂いと、濁った水の気配。足元で水がわずかに跳ねて、ランプの光がひしゃげた魚の目みたいに震える。

「こっち」

 ノノが先を行く。白いワンピースは昨夜からの血の色を乾いた茶に変え、裾がほつれている。左の前腕は布で巻かれ、その下にある刻印が体温でうっすら浮き上がっていた。

 階段を曲がるたびに、地面の下の脈は強くなる。

 ずう、ずう、と大きなものが寝返りを打つみたいな、厚い響き。壁の中を液体が走る摩擦音が、耳の奥をくすぐる。

 途中、崩れた改札をくぐった。錆びたバーが斜めに折れ、そこを通った人影の数だけ塗装が剥がれていた。かつて通勤時間だった場所に、今は時間がなく、あるのは順番だけだと思うと、喉の奥が固くなる。

 地下のプラットフォームに降りる。

 天井の梁が折れ、そこに黒い根が垂れさがっていた。根、としか言いようがない。

 それは管の束だった。太いものは人の胴、細いものは髪の毛ほど。色は赤から黒へ、途中で層をつくり、途中に透明の節がある。節の中を、何かが流れていた。

 プラットフォームの床にも、壁にも、柱にも、それは絡みついている。古い駅名標を飲み込み、時計を抱え、売店のシャッターを持ち上げたまま固め、広告看板の笑顔を半分だけ残して、残りを塗りつぶしていた。

「ここが“根”だよ」

 ノノが言った。

「ガチャの真下。千本じゃない、たぶんもっと。数えるの、やめちゃった」

 ユウトは息を呑む。胸がきゅっと縮まり、袋の重みが内側へ沈んでいく。

 根は、どこまでも続いていた。地平はなく、闇の先で別の闇に繋がっている。遠くの方で、節がひとつ光り、その光が波のように隣へ移り、また消える。そのリズムが、地上のガチャの回転にきっと重なっているのだろうと思った。

 足元で水が鳴った。

 ノノがしゃがみ込み、床と根の境目に耳を当てる。

「聴こえる?」

 ユウトも膝をつき、耳を近づけた。

 最初は流れる音だけ。小石が水路を転がるみたいな、細い音。やがて、その中に人の声が混じった。

 笑い声。泣き声。怒鳴り声。ため息。祈り。

 どれも、砕けて短い。単語にならない。小さな破片が高速でぶつかり、離れる。

 それは、ガチャの前の広場で聞いた音に似ていた。ただし百倍も千倍も多い量で、休むことなく、昼も夜もない。

「ねえ、ユウト」

 ノノが小さく呼ぶ。

「これ、血だけじゃないんだよ。水でも、油でもない。ぜんぶ混ざってる。体から出るものと、一緒に出た“思い出”が、砕けて流れてる。ここは……台所」

「台所?」

「うん。料理をするところ。材料は、人。味付けは、運」

 ユウトは顔を上げ、根の一本を凝視した。節の中で、何かが渦を巻いている。細かい破片が合わさって、また分かれ、別の形に並び替わる。

「誰が、料理してる」

「さあ。昔の人? 今の機械? その両方? たぶん最初のきっかけは人。ぜんぶが壊れたとき、どうしても“生き残る仕組み”がほしくなった。公平じゃないと暴動が起きる。だから、“運”で配る機械を作った。運なら誰も恨まない、そう考えた人がいた。……でも、運は空から降ってこない。だから、運を作った。食べた。分解して、配った」

 ノノの声は、淡々としていた。ぜんぶの恐怖を何度も噛みしめて、言葉へ薄めて出すみたいな声だった。

「そのために、人のDNAを拾った。髪、爪、血、皮膚。誰かが当たりを引いたとき、その人の『確率の癖』を読み取って、別の人のカプセルに混ぜる。誰かが外れを引いたとき、その人の『外れの癖』は捨てられるか、たまに別の誰かの罰になる。そうやって、運の流れを調整してる。抽選箱の中身を、引くたびに入れ替えるみたいに」

「……運の、移植」

「そう」

 ノノはうなずき、唇を噛んだ。

「最初は善意だったのかもね。誰か一人が当たり続けないように、誰か一人が外れ続けないように。平均を作るために」

「平均のために、誰かの指がカプセルに入るのか」

「平均のために、誰かの恋が追い出されるの」

 ノノは、まっすぐユウトを見た。

「あなたの彼女の髪は、誰かの当たりに使われるよ。甘い匂い、やわらかい癖。『守りたい』って気持ちごと、誰かの景品に付け足される。そうすると、その人は次も当たりを引きやすくなる。だって、守りたい相手がいる人は、コインを持つまでに死なないから」

「やめろ」

 喉が塞がり、声が擦れた。

 袋を握る手に、汗が滲む。

「彼女の髪は、俺が——」

「止められないよ」

 ノノは首を振った。

「あなたがここに来る前から、根は“覚えた”。あなたが弾を握って震えた朝も、座標をなぞった夜も、彼女の指の匂いも。全部、選別の材料になってる」

 ユウトは立ち上がり、ふらつきながらも根の束に近づいた。

 節のひとつに手を伸ばす。薄い透明の膜が、くらげみたいに呼吸をする。触れた指先の熱を、すうっと吸い上げて、すぐ返す。

 節の向こうに、色の違う粒が見えた。黒。金。赤。白。

 指を押し当てた瞬間、視界の隅に光が走った。

 地上の広場。転がるカプセル。薄い笑い声。

 次の瞬間、別の映像が重なる。

 学校の廊下。窓の外の夕焼け。体育館の匂い。

 さらに別の、見覚えのない街角。雨に濡れたアスファルト。傘の骨が折れて、笑いながら走る女の子。

 それらが一瞬で去り、また戻り、めまいの端で粉になって崩れた。

「視た?」

 ノノが低く問う。

 ユウトは頷けなかった。頷いたら、視たものが現実になってしまう気がした。

「ここは、みんなの『当たった瞬間』の残像でいっぱいだよ。全部が混ざって、次の誰かの当たりの味になる」

「そんなの、当たりじゃない」

「でも、みんな“当たり”って呼ぶ。名前は残すの。名前は、祈りだから」

 ノノは、涙を一滴こぼした。

「私はね、最初『外れ』ばかり引いた。刃物とか、壊れた食器とか、誰かの写真の端っことか。怒って、喚いて、台座を殴った。ある日、下へ落ちた。気がついたらここにいて、刻印を焼かれた。『あなたは当たりを出しやすい人です』って。笑えたよ。上では外れだったくせに」

「刻印、は……」

「逆流の印。上へ戻してもらえる代わりに、上で回すたび下が“味見”に入ってくる。私の血、私の声、私の笑い方が、誰かの当たりの“調味料”になる」

 ノノは左腕を抱えた。そこからゆっくりと熱が広がっている。

「だから私、笑わないようにした。泣きもしない。味を薄くするために」

 ユウトは言葉を失い、ただ根を見つめた。

 根の奥で、光がふっと消え、すぐ隣の節がゆっくり光る。その間隔。呼吸。

 地上のガチャのハンドルが、誰かが触れもしないのに微かに揺れる理由が、ここにあった。

「伝えとくね」

 ノノは、急に子どもみたいな言い方をした。

「さっきまで、上の広場で回した人。あの人が当てた乾パンの『当たり味』、すごく薄かった。たぶん、あなたが昨日撃ち込んだ弾痕のせい。根っこの流れが一部で詰まって、配合が崩れてる」

「つまり」

「この街の“味”が壊れはじめてる。平等も、均しも、平均も」

 ノノは息を吸い込み、吐いた。

「チャンスだよ。……たぶん、これが最後の」

 ユウトは、胸の袋を強く抱いた。

 声が出る前に、体が動いた。根の束に顔を近づけ、吐き出すように言葉が流れた。

「運の移植なんて、誰が望んだ」

 根は答えない。代わりに、腕の内側がぴりっと熱を帯びた。薄い丸の輪郭が、皮膚の下に浮かぶ。

 ノノがうなずく。

「出た。選ばれてるって言ったでしょ」

「選ばれて、どうなる」

「あなたが回すと、ここは“あなたに合わせて”配合を変える。あなたの当たりの記憶、あなたの外れの痛み。彼女を抱いたときの匂い。全部ぜんぶ、均されて、誰かの口へ入っていく」

 ユウトは膝から崩れた。

 床に手をついたまま、肩が勝手に震える。

 喉が閉じ、でも音が漏れる。泣いているのだと気づくまで、少し時間がかかった。

「俺が……」

 舌がうまく回らない。

「俺が“当たり”を引いたから、リナが“外れ”になった」

 言ってから、頭の中で何度も同じ文が反響した。

 あの日。リンゴ。銃弾。髪。

 選別は、偶然の顔をしていたけれど、偶然のために誰かが溶かされ、混ぜられ、運ばれていった。

 呼吸が浅くなる。目の前がかすむ。

 ノノがそばにしゃがみ、背中に手を置いた。

「違うよ、ユウト。あなたが殺したんじゃない。仕組みが殺した。あなたが“当たり”を引けたのは、彼女がいたから。あなたが彼女を守れるくらいの運を持てたのは、彼女があげたから。それは罪じゃない。……でも、あなたが動かなかったら、罪になる」

「動く?」

「うん」

 ノノは微笑んだ。微笑み方を忘れていた唇が、ぎこちなく形を作る。

「最後の一回、回してみなよ。全部、終わるから」

 その言葉は、地下の空気より重かった。

「全部、終わる?」

「うん。私、見たことある。昔、ここがまだ今ほど太っていなかった頃、誰かがやった。『最後の一回』ってね。きっとその人も、あなたみたいに壊れてた。ハンドルを回した瞬間、下がひとつに繋がって、根が“満腹”になったの。しばらくのあいだ、広場から何も出なくなった。列は消えて、静かになって、街が……止まった」

「止まって、どうなった」

「時間が動いてないあいだに、何人かは遠くへ逃げたって話。何人かは戻ってこなかったって話。『全部終わる』の意味は、人によって違う。でも、ここに居続ける私から見たら、あれは確かに“終わり”だった」

 ノノは目を細め、根の群れの向こうを見た。

「そのあと、根はまた腹を空かせて、もっと深く広く、遠くまで食べるようになった。だからね、終わりをもう一度作るなら、今。あなたが弾痕を開けたおかげで、少し弱ってる」

 ユウトは立ち上がった。

 内側の熱が脈に合わせて動いている。前腕の輪郭がじんじんする。

 広場に戻らなければ。

 ハンドルを回さなければ。

 最後の一回。

 息を整えようとするたび、喉にリナの名前が引っかかる。発音したら崩れる。だから、呼ばない。

 彼女の髪の袋を胸の真ん中に置き直し、紐を強く結んだ。

「ノノ、来るか」

「もちろん」

 ノノは立ち上がり、少しだけ笑う練習をしてから、真顔に戻った。

 二人はプラットフォームを離れ、狭い通路を戻る。階段を上がるたび、地面の上の気配が近づく。人の足音、咳、低い呼び声。

 最後の踊り場を曲がったところで、ユウトは足を止めた。

 地上から、カプセルが転がる音がした。

 いつもより早い。

 まるで、上から誰かが急かしているみたいな、乾いた連打。

 広場に出ると、空が白み始めていた。

 夜の火はほとんど消えて、煙だけが薄く漂う。人々は、眠りと空腹の間に引き裂かれた顔をしている。

 ガチャの前には、もう列ができていた。

 サワダが台座の横に立ち、棒きれで簡単な柵を描いている。

 ユウトを見ると、彼は一瞬だけ目を細め、すぐに視線を逸らした。

「ルールを守れよ」

 小さな声。

 ユウトは頷かなかった。頷けば、戻る。それはもう出来ない。

 台座の前まで行く。

 透明のドームの内側で、カプセルが二つ同時に転がり、また止まる。その動きは、呼吸ではない。痙攣のようだ。

 ハンドルの根元に、昨日の弾痕がある。白い割れ目。

 ユウトは息を吸い、吐いた。

 胸の袋が、小さく鳴る。

 ノノが隣で囁く。

「回した瞬間、戻るかもしれないよ、全部。彼女も、あなたも、ここも。あるいは……」

「あるいは?」

「何も残らない」

 ユウトは笑った。乾いた音。

「選べないんだろ。なら、回すしかない」

 手を伸ばす。

 ハンドルに触れる前に、前腕の内側で熱が弾けた。

 刻印が、皮膚の上へ染み出していく。薄い円がくっきりと浮かび、中心がひとつ脈打つ。

 同時に、台座の下の根が鳴った。

 広場の石畳の隙間から、微かな風が吹き上がる。

 列の人々がざわめく。

 サワダが棒きれを落とした。

 ノノは、息を止めた。

 ユウトはハンドルを握った。

 冷たい金属が、手のひらの汗を吸う。

 目を閉じる。

 回す前の静けさ。

 リナの髪の匂い。

 リンゴの甘さ。

 弾の刻印。

 広場の朝。

 地下の声。

 全部がその瞬間だけ、同じ高さに並ぶ。

 ——回した。

 ガチャリ、という音が、いつもと違った。

 落ちる音がしない。

 代わりに、地面の下から大きな音が上がってくる。

 根が息を吸い込むような、重い気圧の変化。胸が内側から押され、耳が痛くなる。

 透明のドームの中で、カプセルの色が変わった。赤でも青でもなく、色が抜けるみたいに白く。

 白が、ひとつ。ふたつ。

 やがて全部が白くなり、境界が滲む。

 輪郭がぼけて、光だけが残る。

 広場のざわめきが、消えた。

 音はある。根の鳴き声。石の軋み。風の擦れ。

 でも、人の声が止まった。

 列が動かない。

 誰も息をするのを忘れたみたいに、胸を止めている。

 台座の下で、何かがほどける音がした。太いロープを解くときの、重たい摩擦音。

 次の瞬間、地面がわずかに沈んだ。

 台座が、ゆっくりと下へ下へと引かれていく。

 石畳がひび割れ、弾痕が開き、透明のドームが砂のように崩れて、白い光に飲まれた。

「沈んでる」

 ノノの声は、遠かった。

 ユウトは、足を踏み出さなかった。

 目の前で、世界の中心が沈むのを、見続けるしかなかった。

 沈むにつれ、根の声は低くなり、広場の空気が軽くなった。

 逆だ。

 何かが満たされていくのに、息がしやすくなる。

 喉に残っていた灰の味が、薄くなる。

 風が違う方向から吹いてきて、遠くで鳥が鳴いた気がした。

 鳥なんて、ここにはいないはずなのに。

 沈みきったあと、広場には穴が残った。

 穴の縁は滑らかで、内側は白い。

 光はもう出ない。

 ただ、静かだった。

 列の一番前にいた女が、我に返ったみたいに穴を覗き込み、次いで子どもが泣き、老人がしゃがみ込んだ。

 サワダが穴の縁に近づき、石をひとつ落としてみた。

 音は、しなかった。底がないのか、底が遠すぎるのか。

 広場の端で、誰かが笑った。神経が切れて出る笑い。すぐに、別の誰かが泣いた。

 ユウトは、膝が抜けて座り込んだ。

 胸の袋が、心臓の動きに合わせて小さく揺れる。

 ノノは黙って隣に腰を下ろし、腕の刻印を撫でた。

「終わった?」

 ユウトの問いは、空に向かった。

 ノノは少し考えてから、首をかしげた。

「たぶん、一回ぶんは。根は満腹になった。しばらくは、何も出ない。人は、誰も“当たらない”。誰も“外れない”。だから、きっとここは静かになる」

「静かになって、どうする」

「静かになった街で、どうするかは、上にいる人の仕事。下は、もうしばらく動かない」

 ノノは顔を上げて、薄い空を見た。

「逃げる人は、今のうちに逃げる。残る人は、穴の縁で考える。配るものが運しかなかった時代から、何を配り直すか」

「配るもの……」

「言葉とか、分け方とか、順番じゃない何か」

 ノノは笑おうとして、やめた。

「そんなの、私には思いつかないけどね」

 ユウトは穴の縁へ近づいた。

 白い内側に、自分の顔がぼんやり映った。

 そこに、リナの顔が重なる。

 笑う前の口元。眠る前のまつげの影。

 袋を胸に押し当て、穴へ向かって、小さな声で言った。

「返せ、とはもう言わない。……見ててくれ」

 風がうなずいた気がした。

 穴の底から、返事はなかった。

 広場の人々が少しずつ動き出した。

 列は消え、代わりに丸ができた。穴を囲む輪。

 サワダが見回し、苦笑した。

「仕事が増えた。柵を作り直して、落ちないように見張りを立てる。水を分ける順番を考える。……運がなくても出来る仕事だ」

 ユウトはうなずいた。

 ノノが袖を引く。

「行こう。座標の続き、まだ残ってる。根が満腹のうちに、いちばん深いところへ行ける」

「深いところに、何がある」

「あなたの『当たり』が、最初に生まれた場所」

「そこへ行けば、彼女は」

 ノノは首を横に振る。

「彼女は、もうどこにもいない。でも、『当たり』の始まりを知れたら、“次に配るもの”を一瞬だけあなたが選べる。……もしかしたら、それは彼女の望みと同じかもしれない」

 ユウトは穴から目を離し、広場を見渡した。

 誰もコインを掲げていない。

 誰もハンドルを待っていない。

 子どもが穴の縁に近づき、母親が慌てて抱き上げた。老人がベンチに腰かけ、空を見ている。サワダが棒きれで簡単な看板を描いた。「近づくな」。字が下手で、でも大きかった。

 風に紛れて、どこかで本当に鳥が鳴いた気がした。

 ユウトは、胸の袋をそっと撫でた。

「行こう」

 ノノと並び、広場の外へ向かう。

 背中で、穴が静かに呼吸する。

 地面の下の根は眠り、街は、少しだけ軽くなった。

 階段を降りる。

 暗がりが、今日だけは冷たいだけだった。昨日まで感じた、あの生温かい舌の感触は、薄い。

 プラットフォームに出ると、根は確かに静かだった。節の光は止まり、透明の膜は動かない。

 ノノが耳を当てる。

「声が、ない。……今だけは、ね」

 ユウトは頷き、足を進めた。

 座標の数字が、頭の中で静かに並ぶ。

 弾の刻印は、今もポケットで冷たい。

 前腕の輪郭は、まだじんじんする。

 選ばれたのなら、選び返す。

 配られるだけの街から、配り直すために。

 背中に、光が落ちた。

 振り返ると、階段の上に朝が来ていた。

 破れた天井の向こうで、雲が薄くほどける。

 ユウトは目を細め、短く息を吐いた。

 それは希望じゃない。

 希望に名前をつける前の、ただの光だ。

 それで十分だった。

 足元の暗闇は続いている。

 でも、行く先が、ほんの少し見える。

 それだけあれば、人は歩ける。

 リナが教えてくれたのは、きっとそういうことだ。

 二人は、沈んだ機械の心臓へ向かって歩き出した。

 静かな根の海を抜け、そのさらに下へ。

 誰も当たらず、誰も外れない数時間のうちに、選別の始まりへ辿り着くために。

 そして、配るものを変えるために。

 髪の匂いと、地下の冷たい空気を胸いっぱいに抱えて、ユウトは、次の階段を降りていった。



第6話「最後のガチャ」


 夜明けは、ゆっくりと広場を洗った。

 灰は薄い霜のように地面に張りつき、風が吹くたびに白くほどける。石畳の割れ目に積もった灰は、昨日までの血と涙と足跡を覆って、すべてを「なかったこと」にしていく。

 ユウトは、その上を歩いていた。靴底が薄くなっていて、踏みしめるたびに指先まで振動が上がる。背負った荷は軽い。持てるものは少ししかない。持たないものは、もう数えきれない。


 広場の中央へ近づくと、風の音が変わった。

 穴は静かに口を閉ざし、昨夜沈んだ機械の痕跡は、白い円の縁を残すだけになっていた。穴の周りには誰もいない。サワダも、老女も、子どもたちも、ノノも。姿は見えず、声も聞こえない。彼らが「しばらくは何も出ない街」をどこで迎えるのか、ユウトには分からない。ただ、今この瞬間、ここにいるのは自分ひとりだと思うと、胸の奥で何かが凹んだように痛んだ。


 ガチャが、あった。

 穴の縁から少し離れた場所に、古いベンチの脚を加工して組んだ台座が立ち、その上に透明のドームがのっている。昨夜沈んだ機械の残骸から、誰かが拾い上げて仮に据えたものか、それとも根のどこかが吐き戻したものか。判断のための手がかりはどこにもなかった。

 近づくと、ドームの内側に薄い曇りが残っているのが見えた。人の指の跡だ。昨日の誰か、今日の誰か、明日の誰か。はっきり区別できないほど重なり、擦り合い、ぼやけている。

 ハンドルの根元に、ひとつだけ新しい金属の光があった。磨かれたばかりのような、細い継ぎ目の縁。そこへ指を置いてみる。冷たい。けれど、冬の金属の刺すような冷たさではなく、夜風にさらした石の温度のような、鈍い冷たさ。

 ユウトは、ドームの向こうを覗いた。

 空のカプセルが、ひとつ。ゆっくり転がって、止まる。

 その音は聞こえなかった。風が運ぶ音、穴の縁で擦れる砂の音、遠くで軒先が揺れる音――それらに紛れて、機械の中の小さな移動は音にならず、ただ視線の端をかすめるだけだ。


 胸の袋へ手を当てる。

 薄い布の下で、髪が重さの形を保っている。あの匂いは、もう残っていない。それでも、布越しに触れるたびに、指先に柔らかな感覚がよみがえる。

 名前を呼ばないと決めてから、何度も呼びたくなった。呼ばなかった。呼ばないことが、約束を守る唯一の方法のように思えた。彼女が自分の順番を選んだあの日から、ユウトは「選び返す」しか生き方を持てなかった。


 コインが、ひとつ。

 ポケットの底で、金属の輪郭が指先に触れた。最後の一枚。ノノは地下の暗がりで、「あなたは今日、呼ばれる」と言った。刻印の輪郭は今も皮膚の下で淡く熱を保ち、ときどき脈打つように疼いた。

 ノノは、もういない。どこへ行ったのかは分からない。座標の続きへ向かったのか、別の「終わり」を探しに行ったのか。それとも広場の端で眠っているのか。

 いずれにせよ、最後の一枚はユウトの手の中にある。他の誰のものでもない。奪ったものでも、譲られたものでもない。沈んでいった機械が、なぜか戻してくれた「時間」。その最後の欠片が、今ここにある。


 ユウトは空を仰いだ。

 雲は薄く、色は浅い。朝はまだ深呼吸の途中で、街は肺の中で静かに膨らんでいるようだった。

 広場の建物の壁に、昔の広告の端が残っていた。笑う女の子が紙コップを掲げている。印刷の色はほとんど剝げて、笑顔だけが輪郭で分かる。

 子どもの頃、こういう笑顔の意味が分からないままだった。今も、分からない。けれど、分からなくても前に進めることを、この街はいやというほど教えてきた。分からないまま、それでも。


「見ててくれ」

 穴へ向かって言ったのと同じ言葉が、勝手に口をついた。

 返事は、風の揺らぎだけ。

 ユウトはコインを投入口へ持っていく。

 指がふるえた。汗で滑る。握り直す。

 投入口は正確で、音は残酷なほど軽かった。


 コトン。


 ハンドルを握る。

 金属が皮膚を吸い、熱を奪い、指の骨の長さまで正確に測る。

 ユウトは目を閉じた。

 目を閉じると、色が消える。音だけが大きくなる。

 遠いところで鳥が鳴いた気がした。

 鼻の奥に、灰のにおい。

 舌の上に、リンゴの甘さの記憶。

 耳の近くで、髪が擦れる音。

 胸の内側で、まだ消えない鼓動。


 回した。


 ガチャリ。

 回転は、驚くほど滑らかだった。昨夜、沈んだ心臓の余韻が、どこかにまだ残っているのかもしれない。

 落ちる音が、確かにした。

 ユウトは、息を止めた。

 取り出し口へ手を伸ばす。

 指先が当たる。冷たい。丸い。

 掴む。持ち上げる。

 ふたを、開ける。


 中に、それはあった。

 握りこぶしほどの、赤いもの。薄い膜に包まれて、湿っている。

 心臓。

 小さな心臓。

 まだ動いている。

 ぴくり、ぴくり、と規則を学ぼうとするみたいに、整わないテンポで跳ねていた。

 膜の内側に浮いた血が、鼓動に合わせて揺れる。

 薄い血管が光に透け、糸のような枝分かれが見える。

 ユウトは、言葉を失った。喉にかかったのは、驚きでも恐怖でもなく、ただ純粋な「理解の遅れ」だった。世界の説明が、ほんの数秒だけ遅れてやってくる。遅れて届いた説明は、遅れて届いた分だけ鋭く、心臓の形をした事実を胸に突き立てる。


「小さいな」

 声は、自分で驚くほど静かだった。

 街の音が戻ってきた。風。看板の軋み。遠い建物の崩れるような音。

 心臓は、ユウトの手の中で相変わらず跳ねている。

 それは誰のものだろう。

 ユウトのものか。

 リナのものか。

 ノノのものか。

 誰か知らない誰かの、始まらない朝のものか。


 考えるより先に、体が動いた。

 ユウトは、その小さな心臓を胸に押し当てた。胸骨の真ん中、袋のすぐ横。

 冷たさと熱が同時に来た。小さな鼓動が皮膚を通り、骨を通り、指の骨のうら側まで響き、そして、自分の鼓動の音にぶつかった。

 ぶつかって、止まった。

 ユウトの心臓が、音をやめた。

 息が、続く途中でほどける。

 頭の中の音が遠ざかる。

 指先から力が抜けて、小さな心臓を落としてしまわないように、と反射で腕に力を込めた瞬間、別の場所に光が灯った。


 ガチャの奥で、光が点る。

 透明のドームの中ではない。さらに奥。台座の内部。目では見えなかったはずの深さから、淡い光が湧き上がった。

 穴は白い。昨日の残光をまだ噛んでいるような色。

 光はそこへ吸い込まれ、反対に、地面の下から新しい脈がゆっくり立ち上がる。

 ユウトは膝をついた。

 痛みはなかった。

 体は軽い。驚くほど軽い。

 痛みがないことへ怯える余裕も、もうなかった。


 視界の端で、ドームの内側の空気が歪んだ。

 気温が一度だけ上がり、すぐに元へ戻る。

 カプセルがゆっくりと、誰にも触れられていないのに転がり、出口へ向かって一直線に滑った。

 流れだ。

 下が目を覚ましたのではない。眠ったまま、夢の中で反応している。

 そんなふうに、ユウトは思った。思ってしまうほど、心は静かだった。


「リナ」

 初めて、声に出して呼んだ。

 それでも世界は壊れなかった。

 空は落ちず、広場は燃えず、穴は広がらなかった。

 ただ、胸の袋が、ほんの少し重くなった気がしただけだ。

 ユウトは、袋の上からそっと手を重ねた。

 心臓の鼓動は戻らない。戻らないまま、体のどこかがまだ動いているのを、残された感覚が確かめる。

 握った指のひらの皺、腕の内側の刻印の輪郭、喉の奥に残る灰の味、靴のかかとに挟まった小石の存在――そういう「小さいこと」だけが世界をつなぎ止めてくれた。


 ガチャの奥の光が、強くなった。

 白でも青でもない、温度のない光。

 それは呼吸のように膨らみ、しぼみ、穴の白とゆっくり混ざった。

 混ざって、また分かれ、輪になり、輪はまたほどけて筋になり、筋は台座の下へ降りていく。

 ユウトは、その流れの向こう側に、たしかに何かを見た。

 髪。

 彼女の髪が、風に揺れるように。

 笑い声はない。涙もない。

 ただ、リナが、誰のものにもならない背中で立っている姿を。振り返らない。振り返らないまま、前へ歩いていく。その歩幅が、自分の歩幅とよく似ていて、ユウトは痛みの代わりに安心を覚えた。


 体が、崩れはじめた。

 崩れるといっても、砕けるのではない。眠りへ入る直前、指先から温度が落ちていく感じに近い。

 足首が軽くなる。

 膝がやわらぐ。

 腰が緩み、胸がほどけ、肩がほどけ、首の後ろの強ばりが解けていく。

 地面は遠のかず、逆に近づいてきた。

 ユウトは恐怖を探したが、見つからなかった。

 最後に見つけたのは、空の薄さと、雲の境い目のやわらかさと、朝の風が灰を撫でる音だけだった。


 透明のドームの縁が、視界の端へ移動する。

 その手前で、小さな心臓がまだ跳ねている。

 ユウトは、落としていないと知って、安堵した。

「ごめん」

 誰に向けたのか分からない言葉が、唇から零れた。

「ありがとう」

 続けて出た言葉は、いつかノノが言った「味を薄くする」という努力とは逆の方向だった。

 味は濃くなる。

 濃くなって、根は満腹になる。

 街は、少しだけ楽になる。

 彼の体は、ゆっくりと台座の内部へ、光の方へ、吸い込まれていった。


 翌日。

 広場に新しいガチャが立っていた。

 穴の縁から半歩離れて、真新しい台座は、夜のうちに誰かが磨いたのだろう、不要な傷をほとんど持っていなかった。ハンドルの軸はなだらかで、透明のドームは厚みを増し、内側には封印のような線が一本走っている。

 朝日が差すと、ドームは薄く光を返した。

 広場の端から、少し遅れて人々が現れた。

 サワダは棒きれを肩に担ぎ、老女は籠を抱え、子どもたちは小声で競争をしてから、穴の縁で立ち止まり、看板の文字を指でなぞった。

 ノノは、最後に姿を見せた。ワンピースは泥で新しい色を覚え、左の腕の布は少しだけほつれが増えている。彼女はまっすぐ台座の前に立ち、刻印のある前腕をそっと撫でた。


 台座の前のプレートには、刻まれていた。

 新しい線の彫りは浅く、しかしはっきりしている。

 読むのに時間は要らなかった。

 そこにあったのは、簡単な文字の列。


 ——ガチャNo.37:ユウト


 声を上げたのは、老女だった。

「かわいい番号だねえ」

 誰も返事をしない。

 番号の意味を考える者、名前の意味を考える者、何も考えないように視線を落とす者。

 サワダが、ゆっくり頷いた。

「回すなら、今じゃない」

「何も出ない期間は終わったのかい」

「終わってないかもしれない。終わったかもしれない。……“運”次第だ」

 サワダの言い方は、少しだけひっかかりがあった。運という言葉が、以前のように容易く口から出てこないのだ。

 ノノは、そっとドームに手を添えた。

 中の空気は冷たく、音はしなかった。

 彼女は目を閉じ、しばらく耳を澄ませ、それから、何も言わず手を離した。


 広場に、少しだけ会話が戻った。

 水の配り方を相談する声。穴の柵をどう補強するかの議論。子どもたちの背丈を比べる笑い。

 太陽は少しずつ高くなり、灰に染み込んだ夜が完全に引いていく。

 誰も、まだ回さなかった。

 番号はそこにあり、名前はそこにあり、ハンドルはそこにある。

 けれど、手は伸びない。

 伸ばさないでいられる時間が、今はたしかにある。

 それだけで、広場の空気は昨日までと別のものになった。


 昼前、子どもが台座の前で立ち止まった。

 母親が慌てて手を引く。

 子どもは振り返らず、手の中の小石をこっそりカプセルの出口へ置いた。

 石は音もなく転がり、出口の前で止まる。

 母親は叱らなかった。

 ノノは、その様子を見て、小さく笑った。笑うことをやめていたはずの口元が、ほんの少しだけ形を取り戻した。

 彼女はプレートの文字に指を沿わせ、声に出さずに読み返す。

 ユウト。

 名前は、祈り。

 祈りは、分け合える。

 分け合うものが、もう一度、運だけでない何かになっていくことを、彼女は強くは望まなかった。ただ、薄く、ゆっくり、願った。


 午後、雲が寄ってきた。

 風の匂いが変わる。

 遠くの高架の向こうで、鳩の群れが一瞬だけ輪になった。

 ここではもう滅多に見ない光景に、老女が手を叩いた。

 サワダが笑った。

 子どもたちが走った。

 穴の縁の看板に新しい板が継ぎ足され、文字は濃く塗り直された。

 そのすべての時間の上で、ガチャは静かに立っていた。

 回せば、“運”が出る。

 そう刻まれたプレートの言葉を、誰も声に出さなかった。

 声に出さずに、みんな、別の言葉を考えた。

 回さなくても、分けられるもののこと。

 順番じゃない順番のこと。

 外れにならない外れのこと。

 当たりでも外れでもないまま残る、誰かの髪の重さのこと。


 夕方、ノノはもう一度、台座の前に立った。

 前腕の布を少しめくる。刻印はまだ薄く熱い。

 彼女は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。

 ハンドルへ手を伸ばしかけて、止めた。

 手を引っ込め、代わりにプレートに指を添える。

「またね」

 それだけ言って、背を向けた。

 彼女の歩幅は小さいまま、でも、乱れていなかった。


 夜が近づく。

 空は薄紫に染まり、広場の角に残った街灯が、弱い光を点す。

 ガチャの透明なドームは、わずかにその光を返す。

 返した光は、穴の縁を照らし、白い円の内側に細い影を作った。

 影は風に揺れ、まるでそこにまだ何かが呼吸しているように見えた。

 呼吸の主は、もういない。

 でも、呼吸の形は残る。

 形が残るなら、明日、誰かがそれをなぞる。

 指で、足で、声で。

 その誰かの名前は、今はまだわからない。

 わからないままで、いい。


 夜の一番静かな時間、風がいったんやんだ。

 ガチャの中で、カプセルがひとつ、音もなく転がった。

 転がって、戻る。

 戻って、止まる。

 誰もそれを見ていない。

 見ていないけれど、街のどこかで眠れない誰かが、胸に手を当てて、鼓動を数えている。

 数えて、眠る。

 眠って、朝を迎える。

 朝、広場に新しい子どもの笑い声が落ちる。

 それは「当たり」でも「外れ」でもない。

 ただの、朝の音だ。


 プレートの文字は夜露で濡れ、月の代わりの薄い灯りに滲んだ。

 ——ガチャNo.37:ユウト

 その下に、小さな文字があることに、気づく者は少ない。

 刻みは浅く、彫った者の手は迷っていた。

 それでも刻まれている。

 読もうとすれば、読める。


 回せば、“運”が出る。


 回さなくても、“朝”は来る。


 灰の街の空に、鳥が二度ほど輪を書いて、夜は完全に降りた。

 穴は静かに黒くなり、ガチャは透明なまま立っている。

 立ったまま、誰かの名前を受け取り、誰かの名前を見送る場所になった。

 ユウトの名は、そこで風に触れ、灰に触れ、朝に触れ、夜に触れ、やがてゆっくり街に溶けていく。

 溶ける途中で、誰かの足音が通り過ぎる。

 誰かはプレートに触れ、何も言わず、何も回さず、ただ歩いていった。


 もう祈らないと決めた人にも、祈りは残る。

 祈りはいつも、誰かの名前の形をしていて、呼ばなくても、そこにある。

 呼んだときだけ、少しだけ温度を持って、胸の上でひらく。

 その温度の分だけ、世界は伸びる。

 伸びた分だけ、明日は来る。

 明日は来て、誰かは回し、誰かは回さず、誰かは笑い、誰かは泣き、誰かは穴の縁で空を見上げる。

 その全部が、もう「運」だけでは決まらないことを、この街はいつか思い出すだろう。


 風がまた動き出した。

 灰が夜の中で薄く舞い、ガチャのドームに触れて、すぐ落ちた。

 ドームの内側で、目に見えないくらい小さな光が、一瞬だけ点った。

 それは、誰にも気づかれず、誰にも説明されず、誰にも奪われないまま、すぐに消えた。

 けれど、消えた光の跡だけが、確かにそこにあった。


【了】


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