廃墟のガチャーコインを入れると「食料」か「武器」か「死体」が出る。
第1話「回す音」
瓦礫の街に、風が吹いていた。
かつては駅前だったらしい広場は、今では骨のような鉄骨と、崩れたビルの影に囲まれている。
その中心に――ぽつんと、ひとつだけ動いている機械があった。
錆びついた透明のカプセルが中で転がり、微かにモーターの音を立てている。
ガチャガチャ。
それは、昔の子どもたちが楽しみにしていたという“遊び”の名残だった。
ユウトはその前に立っていた。
十七歳。かつては学校に通っていたが、学校も、先生も、もうこの世界にはない。
隣には、リナがいた。腰まで届く黒髪をひとつに束ね、擦り切れた軍用コートを羽織っている。
冷たい風が二人の間を抜け、遠くの瓦礫の隙間でカン、と空き缶が転がった。
「……ほんとに、まだ動いてるんだ」
リナが、信じられないというように息を漏らした。
「噂は本当だったのね」
「ああ」
ユウトはポケットの中で、古びた金属のコインを握りしめた。
拾ったのは昨日。崩れたバス停の下で見つけた、一枚きりの“貨幣”。
この都市で、まだ“価値”を持つ唯一のもの。
コインを入れれば、何かが出る。
食料か、武器か、死体。
生きるために必要なものか、死を呼ぶものか――それは、運で決まる。
誰も中を確かめた者はいない。
ただ、ガチャを回した後で“帰ってこなかった人”が多いという噂だけが、街の隅々にまで広まっていた。
「……どっちが回す?」
沈黙を切るように、ユウトが言った。
リナは笑う。小さく、しかしどこか悲しい笑い方だった。
「私、運悪いから。くじ引きも、試験も、いつもビリだったし」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題だよ」
彼女は冗談めかして肩をすくめる。けれどその目の奥に、かすかに怯えが見えた。
ガチャの中で、カプセルがひとつ転がった。
まだ回してもいないのに、まるでこちらを見ているようだった。
「ユウト、回して」
リナの声は、少しだけ震えていた。
ユウトは小さく息を吸って、頷く。
「……わかった」
冷たいコインを、投入口に入れる。
コトン、と音がした。
ユウトはハンドルを握った。
金属の感触。摩耗した溝。指先に伝わる微かな震え。
息を止める。
――ガチャリ。
ハンドルが重く回り、内部で何かが動く音がした。
その瞬間、ユウトの背中に冷たい汗が伝う。
音がやむ。
下の取り出し口に、何かが転がり落ちる音がした。
リナが一歩、近づく。
「……なに、出た?」
ユウトは震える指で、カプセルを取り出した。
中に入っていたのは、弾丸だった。
錆びついていない。新品。
けれど――銃はない。
「……これって」
「弾、だな」
「じゃあ……誰かが、撃てってこと?」
リナの声がかすれる。
その時だった。
背後で、砂を踏む音がした。
ユウトはとっさに振り返る。
物陰から、影がいくつも現れた。
男たち。女もいる。顔は布で覆われ、手には鉄パイプやナイフ、火炎瓶。
「やっぱり来たな……」
リナが小さく呟く。
「ガチャが回る音が聞こえると、みんな寄ってくるんだよ。欲しくてさ」
リーダー格の男が前に出る。
頬に傷跡があり、目だけが異様に光っている。
「中身、出せ」
低い声が、冷たく響いた。
「……弾だ」
ユウトは答える。
「じゃあ弾をよこせ。銃は持ってる」
リナが一歩、ユウトの前に出た。
「ダメ。あんたたちに渡したら、また誰かが死ぬ」
「死ぬのはいつも誰かだ。順番だろ?」
男は笑う。その歯は黄色く濁っていた。
風が吹いた。砂埃が舞う。
ユウトの頭の中で、何かが切れた。
生きるために、戦うしかない――その単純な理屈が、今や常識になっている世界で。
リナが叫ぶ。
「逃げて、ユウト!」
男たちが一斉に動く。
ユウトは咄嗟にカプセルを握りしめ、背を向けて走り出した。
瓦礫を飛び越え、崩れた壁の隙間をすり抜ける。
銃声はない。だが、足音が近づく。
息が切れた。肺が焼ける。
背後でリナの声がする。
「ユウト、こっち!」
彼女が手を伸ばす。その先には、崩れたトンネルの入口。
二人は闇の中へ飛び込んだ。
外の光が遠ざかる。
やがて静寂。
水の滴る音だけが響く。
ユウトは壁に背を預け、息を整えた。
「……助かったのか?」
「たぶん」
リナは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
頬には傷がつき、手は震えている。
「ねえ、さっきの……弾、見せて」
ユウトはポケットからカプセルを取り出し、渡した。
リナはそれを開けると、しばらく見つめて――目を見開いた。
「これ……ただの弾じゃない」
弾丸の側面には、細かい刻印があった。
数字の列。座標のようなもの。
「座標……?」
「もしかして、ここじゃないどこかに“何か”があるってことかも」
その瞬間、ユウトの頭に閃光のような映像が流れた。
荒れ果てた地平線の向こう、ひとつだけ光る塔の影。
――そこに、“生きている場所”がある。
「リナ、行こう」
「え?」
「この弾が示す場所まで。もしかしたら、食料があるかもしれない」
「でも……危険だよ」
「どこにいたって危険だ」
ユウトは立ち上がる。
リナはしばらく沈黙した後、うなずいた。
二人は再び、地上へと戻った。
夕焼けが街を染めている。
広場の中央――ガチャガチャは、まだ静かに動いていた。
しかし、そこには新しい血痕があった。
ユウトが回した時にはなかったもの。
足跡が、ガチャの周囲をぐるぐると囲み、やがて遠くへと消えている。
「……誰か、また回したんだ」
リナの声は震えていた。
ユウトはガチャを見上げる。
その中で、カプセルがまたひとつ、ゆっくりと転がった。
「リナ」
「なに?」
「もし次に回す機会が来たら……俺じゃなくて、お前が回せ」
「どうして」
「お前が“運悪い”って言ってたけど、俺はそうは思わない」
「根拠は?」
「だって、お前がいたから俺は今日まで生きてる」
ユウトは、リナの目を見る。
彼女は何かを言おうとしたが、言葉を飲み込んだ。
風が吹く。灰が舞う。
「……あたし、回すよ」
リナはコートのポケットから、小さなコインを取り出した。
「いつの間に……」
「さっき、あの人たちの荷物の中から拾った」
彼女は笑う。
「これで、食料が出るかもしれない」
ユウトは止めようとした。
だが、もうリナの手はハンドルにかかっていた。
金属が鳴る。回る音。
――ガチャリ。
カプセルが落ちた。
中をのぞくと、そこには“リンゴ”が入っていた。
本物の、赤いリンゴ。
この世界ではもう見られないはずの果実。
「……当たり、だね」
リナが微笑む。
涙が頬を伝う。
けれど次の瞬間、銃声が響いた。
ユウトは反射的にリナを押し倒した。
背後から煙。
瓦礫の影に、さっきの男がいた。
手には、古びた拳銃。
「お前らが当たりを引くなんて、不公平だろ」
男が笑う。
ユウトは地面を転がりながら、弾の入ったカプセルを握りしめた。
脳裏に、刻印の座標が浮かぶ。
――撃て。
銃声。
そして、沈黙。
風が止まった。
男の体が崩れ落ちる。
リナは震える手でユウトを見た。
「今の……」
「わからない。俺、撃ってない」
ユウトの手の中のカプセルが、微かに熱を帯びていた。
リナがリンゴを見つめる。
それは、ひとり分の命の重さだった。
生きるとは、奪うことなのか。
与えられた“運”の裏には、必ず誰かの死があるのか。
夕陽が沈む。
広場に、回る音だけが残った。
――ガチャガチャ。
それは、世界がまだ回っているという証。
けれどもう、誰もその意味を知らない。
ユウトはリナの肩を抱いた。
遠くで、風が灰を運んでいく。
どこかでまた、誰かがガチャを回す音がした。
第2話「死体カプセル」
朝は、冷たさのかたちをしていた。
崩れた建物の隙間から吹き込む風が、夜の間に乾ききらなかった血をなぞっていく。広場の石畳には、途切れ途切れの赤い線が残っていて、それがやがて排水溝の黒へ沈んでいた。
ユウトは、その線の始まりに立っていた。
手のひらの中で、小さなカプセルが固く冷えている。握り締めても温度は変わらない。薄いプラスチック越しに見えるのは、黒ずんだ指だった。爪の根本には泥。第二関節のところで、雑に切られている。
吐き気は、もう来なかった。昨夜のうちに限界まで吐いてしまったからだ。空っぽの胃袋は、乾いた音で抗議するだけだった。
「それが……外れ、なんだね」
背後から、リナの声。
ユウトはうなずくこともできず、ただカプセルを見つめた。
薄い樹脂へ落ちる朝の光が、指の皮膚の皺を浮かび上がらせる。よく見ると、親指と人差し指の間の柔らかなところに、弱い火傷の跡があった。白く抜けた、古い痕。
「その痕……見覚えがある」
リナが、一歩近づく。
彼女は震える指先で、カプセルに触れるか触れないかのところで止めた。
「昨日まで、一緒にいた。給水場の番をしてた人。焚き火のそばの、あの……」
「——マコト」
ユウトの口から、名前が落ちた。
喉が細く鳴る。あのとき、間に合わせの木箱に入った食料の配給を、彼は少しだけ多く持っていった。皆が見ないふりをして、彼も見ないふりをして、結局は誰も責めなかった。責めてはいけない世界だった。
リナは目を伏せる。
「彼、昨夜いなかった。広場の外に倒れてるのを、誰かが見たって……」
「そして、朝になって“景品”として戻ってきた」
ユウトは言い切るしかなかった。言葉にしないと、現実がずっと曖昧なままだったからだ。
「誰かが死ねば、その死体がランダムで出る。ガチャは、そういう仕組みなんだ」
広場の端で、何人かの生存者がこちらの様子をうかがっていた。昨夜の気配が、まだあちこちに残っている。鉄パイプを杖にしている老人、顔の半分を汚れたマスクで隠した女、片足を引きずる少年。彼らの視線は、ユウトの手のカプセルに吸い寄せられていた。
「カプセルだ……何が入ってる」
マスクの女が声を上げた。
ユウトは答えなかった。代わりに、カプセルを自分の胸の前で握り締める。
近寄ってくる足音。
女は距離を詰め、覗き込んで、即座に顔を背けた。
「うわ……指。最悪」
「死体だって? だったら今日は“当たり”の番かもな」
老人が乾いた笑い声を漏らす。
「死体が出た翌日は、食い物が出やすい。順番ってやつだ。誰かが外れを引いたなら、次は回す価値がある」
「やめて」
リナがきつい声を出した。
「これは……人だよ。誰かの、帰ってこない一部なんだよ」
誰も、すぐには言い返さなかった。
風が吹き、灰が舞った。
広場の中央、透明のドームの中で、色あせたカプセルがだらしなく横たわっている。昨夜の戦いの痕は、ガチャの台座にまで残っていた。乾きかけの血が、ハンドルの根元に暗い色で固まっている。
「埋めよう」
ユウトの口が、勝手に言った。
「マコトのところに戻そう。全部じゃないけど……せめて、手だけでも」
「埋める場所が、どこに」
老人が肩をすくめる。
「土なんて硬くて掘れやしない。掘ったって、誰かに荒らされる。それに——」
「それに?」
「その指は、飯と同じだ。誰かの命が別の誰かの口に入る。順番に。ここじゃ、全部がそうだ」
周囲の空気が、きゅっと締まった。
ユウトは言葉を喪い、次の瞬間には自分の胸の中の怒りが急激に冷えていくのを感じた。怒鳴っても、殴っても、何も変わらない。ここでは、何も。
リナが袖をつまむ。
「ユウト……とりあえず、隠そう。ちゃんとした場所が見つかるまで」
うなずく。二人は瓦礫の影へ回り、崩れた掲示板の下へ小さな穴を探した。指先でこじると、湿った土が少しだけ顔を見せる。
ユウトは膝をついた。カプセルのふたを開けようとして、やめた。直接触れたら、もう戻れなくなる気がした。
ふたは閉じたまま、指の形の重みだけを包むように抱き、土に埋める。
土の上に、瓦礫片を乗せた。
目印は、つけない。目印は、奪うための看板になるから。
昼過ぎ、広場には列ができた。
誰からともなく、いつの間にか生まれてしまう“秩序”。鉄パイプで仕切った簡単な柵の前に、十五人ほどが順番を作って並んだ。
列の先頭で、背の高い男が口を開いた。名前はサワダ。夜になると銃声が聞こえる方角から来たと噂される。肩に掛けた袋から、古びた紙切れを取り出すと、声を張った。
「ルールを言う。コインを持ってる人間——今日は二枚。列の先頭と、七番目。回す権利は一回ずつ。出たものは、その者の所有。争った場合は、列の全員で裁く」
サワダの声に、列の中の誰かが笑う。
「何をどう裁くんだよ。殴って奪うだけだろ」
ユウトは列の外から、それを見ていた。
コインは、もうない。昨夜の一枚は弾丸になって、弾丸は座標になって、まだ行き先の意味を持てないままでいる。
リナは、あのリンゴを皆で分けようと提案した。四等分して、一片は自分たち、一片は子どもたち、一片は老人、一片は怪我人。リンゴは、恐ろしいほどに軽かった。匂いだけが濃くて、歯に当たる前に口の水分が全部奪われるような気がした。
列の先頭の女が、コインを入れた。
音がして、カプセルが落ちる。
開いた瞬間、広場の空気が吸い込まれる。
中には、小袋があった。乾パン。
女は泣いた。誰かが肩を抱いて、誰かが指を鳴らした。拍手ではなく、音の底に嫉妬と安堵が混じる、妙な音。
七番目の少年は、コインを握りすぎて指に痕を作っていた。
回す。落ちる。開く。
中には、短いナイフ。
少年の顔に複雑な影が射し、やがて彼は笑った。笑いはすぐに掠れて、誰にも拾われなかった。
列は散り、広場は再び風だけの場所に戻った。
ユウトは、ガチャに正面から向き合った。
透明のドームの内側に、曇った指紋がいくつも貼りついている。昨夜ついた血のこびりは、もう乾き切って、剥がれない固さでハンドルの根元を縛っている。
その台座から地面へ、細い影が伸びていた。
管だった。
赤黒い。錆ではない。色が、生っぽい。
ユウトはしゃがみ込み、手で埃を払った。管はガチャの底からまっすぐ地面に潜り、そこから蜘蛛の巣のように方向を変えていた。広場の石畳の隙間、崩れたマンホール、壊れた噴水の台座。いたるところへ、細い線が伸びている。
「見える?」
リナが隣にしゃがむ。
「これ……血の色に似てる」
「似てるじゃなくて、血かもしれない」
言ってから、自分でぞっとした。
耳を澄ます。石畳の下で、かすかな、湿った流れの音。ぐう、とも、ずう、ともつかない低い音が、地面から指先へ登ってくる。
「流れてる」
「なにが?」
「何かが、生きものみたいに」
広場の端に、崩れた階段があった。駅の地下へ降りるためのものだったのだろう。半分は瓦礫で塞がれているが、身体を横にすれば通れる隙間はある。
ユウトとリナは目を合わせた。
行こう、という合図。
昼は、もうすぐ終わる。夜になる前に確かめなければならない。
階段を降りる。
湿った空気が肺にまとわりつく。
暗闇に目が慣れる前に、まず匂いが来た。鉄の匂い。雨上がりの鉄橋の匂いではない。口の中に広がる、生の味。
足元に、水が浅く溜まっている。汚れた水面に、地上の光が細く揺れる。
壁一面に、赤黒い筋が走っていた。上から下へ。途中で曲がり、枝分かれし、また別の枝へ繋がる。管はここでも、生きものの根のように、迷いなく伸びていた。
「この先、駅のプラットフォームだったところが……」
リナの声が震える。
懐中電灯はない。ユウトはポケットの中の単三電池と小さなライトを合わせ、弱い光を前へ押し出した。
広い空間に出る。
天井から落ちたコンクリートの塊の間を縫うように、管が走っていた。そこで初めて、ユウトはそれが“機械の配管”ではないことを確信した。
管はところどころ、脈打っている。
目に見えて、わずかに。
それは、心臓の鼓動を遠くで聴いているときに感じる、皮膚の記憶に似ていた。
「触るなよ」
ユウトは思わず言った。
リナは頷いて、しかし目を離さない。
「この管、広場の下全部に這ってる。ガチャの台座は、その“中心”」
「根っこ。木みたいに」
「木なら、実がなる。ガチャは……カプセルを実らせる木だ」
ユウトの喉が渇く。
「じゃあ、カプセルの中身は、ここから送られてる?」
「誰かの死と、誰かの渇きを……同じ配管で繋いでる」
足元の水が、小さく波立った。
静寂の中で、新しい音が混じる。
ずる、ずる、と湿ったものが床を這う音。ユウトとリナは同時にライトを向けた。
そこにいたのは、人間ではなかった。
茶色く濁った袋のようなものが、床に貼りつき、呼吸をするように膨らんだりしぼんだりしている。袋の側面には、透明な膜があり、その向こうでも何かが動く。白い塊。形を定めない肉。
袋の“口”に当たる部分は、管に繋がっていた。管はそこに血色を運び、別の管はそこから何かを吸い上げていた。
リナが一歩後ずさる。
「これ……なんなの」
「分からない。でも、あのガチャは——機械じゃない」
自分の声が、自分のものじゃないみたいに響いた。
「生きてる。少なくとも、死んだものじゃない」
ユウトの脳裏に、昨夜の弾丸が浮かぶ。
弾丸の側面に刻まれた数字列。座標のような規則。ひとつひとつの数字が、この地下の地図と重なるような錯覚。
彼はポケットから弾丸を取り出した。
冷たい金属の感触。
その瞬間、周囲の脈がひとつ、強く打った。
同時に、足元の水面が跳ねる。
弾丸が、ほんのわずかに震えた気がした。
「なに、今の」
「わからない。でも、反応した……気がする」
「弾が、ここを知ってる?」
「逆だ。ここが、弾を知ってる」
言いながら、ユウトは自分の言葉に身震いする。
この地下の“体”は、街の死と生を飲み込み、吐き出している。吐き出されたもののひとつが弾丸で、その弾丸には、次へ繋ぐための道筋が刻まれている。
まるで、誰かの指示のように。
まるで、世界が自分自身に手紙を書いているように。
遠くで、水が落ちる音がした。
次の瞬間、別の音が混じる。
足音。人のもの。
ユウトとリナは顔を見合わせ、ライトを消した。暗闇が一気に濃くなる。
誰かが、狭い通路をこちらへ歩いてくる。二人分。
低い話し声。
「配管の付け根まで行けば、外れの確率が下がるって聞いた」
「見えもしないもんを信じられるかよ。でも、上はもう駄目だ。列は長いし、コインは尽きた」
声は、広場で見た少年と、別の男のものだった。
彼らのライトがつく。白い光が、袋状の“もの”の表面を舐めた。
ふたりは息を呑み、足を止める。
「うわ、なにこれ」
「触るな。おい、こっち。管が太い。付け根だ。ここから……」
一人が手を伸ばした。
その指先が袋の膜に触れる。
膜が、音もなく開いた。
何かが中から溢れた。
光を吸うみたいに黒い液が、男の手首まで瞬時に絡みつく。
男が悲鳴を上げるより早く、膜は閉じ、手首のひとつ上で止まった。
残ったのは、床に転がる細長い影だった。
誰のものでもないような、ただの“欠片”。
男は膝をつき、喉の奥で笑いとも泣きともつかない音を漏らし続けた。
リナがユウトの袖を強く引く。
逃げよう、という力。
ユウトはうなずき、闇の中を戻り始めた。体の内側で、脈が合図のように急ぐ。
階段を駆け上がり、地上の光に目を細める。空はもう夕焼けの手前で、街は長い影を伸ばしている。
広場に戻ると、ガチャの前にまた列ができていた。さっきより短い。人々は疲れていて、少しの希望と少しの恐怖を等分に抱えているときの顔をしていた。
サワダが、また声をあげる。
「夜になる。回せるのは、あと一人」
列の最後尾で、リナが立ち止まった。
ユウトは彼女の横顔を見る。薄い唇。乾いた目。
「回すつもり?」
「違う。見るの。誰が何を引いて、どうやってそれを抱えるのか」
先頭の男がコインを入れる。
音。落下。開封。
中から、紙切れが出た。
折られた紙。開く。
そこには、数字が書かれている。昨夜、ユウトが見たのと同じ、座標らしき数字。
男はそれをどう扱っていいかわからず、笑ってから丸めてポケットに入れた。
「外れだ」
彼はそう言った。
本当の外れは、別の場所で待っているのに。
夜が来た。
火は少ない。煙も少ない。煙は目印になるから、みんな、火をできるだけ低くして燃やす。
リナは焚き火のそばで、膝を抱えた。ユウトは、その隣でうつ伏せになり、耳を石畳に押し当てた。
地面の下で、音がする。
脈。流れ。擦れる音。
そして、時々、カプセルが転がる乾いた音が、土を通して伝わってくる。
生きものの腹の中にいるみたいだ、とユウトは思う。
この広場全体が、ひとつの巨大な体内で、そこにいる俺たちは、消化される順番を待っている。
背中を、リナの指が押した。
「眠れないなら、話して」
「なにを」
「昨夜のこと」
ユウトは言葉を探した。
銃声。倒れる影。自分の手は空のまま。なのに、誰かが倒れて、血が広がって、朝には指がカプセルに入って戻ってきた。
それらの断片は、ひとつの物語になりたがらない。
「俺が、初めて殺したこと?」
口にしてから、その重さに気づく。
リナは首を振った。
「違う。あなたが初めて“そう思った”こと」
ユウトは焚き火を見た。炎が、風に押されて低くなる。
「わからない。あの男は、俺が動くより先に倒れた。弾の音はした。俺は撃ってない。なのに、俺の中にだけ、あの体温が残ってる」
「じゃあ、それでいい。あなたがそう思ったなら、それがあなたの真実だよ」
リナの声は、泣きそうで、でも泣かなかった。
「真実は、いつも誰かの体の中にしかなくて、もう一回外に出したときには別の形になる。だから……せめて、私たちは自分の中の真実を正しく抱えたい」
ユウトは黙った。
焚き火の向こうで、子どもが咳をした。
老人が短い祈りを口にした。祈りの相手は、もうこの世界にはいない。
夜の真ん中で、ガチャのハンドルが、不意にひとりでに微かに揺れた。風ではなかった。
ユウトは立ち上がった。
台座の下、石畳の隙間からのぞく管が、脈と同じリズムでかすかに膨らむのが見えた。
その膨らみがひとつ強くなった瞬間、ガチャの中でカプセルがひとつ、目に見えるほどわずかに転がった。
誰も回していないのに。
まるで、向こう側から差し出されるみたいに。
「ユウト」
リナが立ち上がる。
「やっぱり、生きてる」
「うん。生きてる」
ユウトはポケットの弾丸を握った。
金属は、さっきより温かかった。自分の体温が移っただけかもしれない。けれど、もっと別の、低い温もりが混ざっている気がした。
弾丸に刻まれた数字列を、暗がりで指先がなぞる。
広場の北。駅の地下道。さらに先の、崩れたトンネル。その向こう。
座標は、地図ではなく、心臓の鼓動をつなぐ譜面のように思えた。
「行こう」
ユウトの声は、夜の空気に吸い込まれた。
「どこへ」
「数字の先へ。ここが吐き出す“次”の場所へ」
リナは短く笑った。笑いは、すぐに真剣に変わる。
「行く前に、ひとつだけ。——マコトの指、もう一回見に行こう」
「なんで」
「忘れないため。誰かを置いたから前に進める、って嘘をつかないため」
ユウトはうなずいた。
二人は掲示板の影へ回り、瓦礫をどけた。土は、思ったよりもしっかりとカプセルを抱いていた。
ユウトは、そっと手を置く。冷たい。
リナは小さな布切れを取り出した。元は自分の袖だったもの。彼女はそれを土の上に敷き、短く言った。
「おやすみ」
風が、その言葉を拾っていった。
そのときだった。
ガチャの方から、わずかなざわめき。
誰かが近づいている。
サワダだ。肩の袋を提げ、周囲を見回しながら、ガチャの前に立つ。
彼はポケットから一枚のコインを出した。
それは、さっき座標を引いた男から奪ったのかもしれないし、別の誰かから買ったのかもしれない。方法はどうでもいい。ここでは、結果だけが残る。
サワダは、誰にも見られていないと思っている。
ユウトとリナは影に身を沈め、息を殺した。
コインが落ちる。
ハンドルが回る。
落ちた。
ふたが開く。
夜気が、その瞬間だけ鋭く感じられた。
サワダの肩が、わずかに跳ねた。
彼はすぐさまカプセルを閉じ、袋に押し込んだ。
そして、振り返りもせず、足早に広場の外へ去った。
残ったのは、ハンドルの微かな揺れと、台座の下の“脈”。
「何を引いたんだろう」
「わからない。けど、あの速さは——食べ物じゃない」
ユウトの背に、冷たい汗が戻ってくる。
武器か、死体か。
どちらにしても、誰かの夜が、別の形で短くなる。
遠くの雲が、薄く光った。
街の向こうで、雷のような音がした。実際に雷かどうかはわからない。世界のどこかが、また別の音を出しているだけかもしれない。
ユウトは弾丸を握り、心の中で数字をたどった。
一、二、三。
鼓動と、歩幅と、明日の位置。
この街の下で蠢く“何か”の、呼吸と呼吸のあいだ。そこにだけ、まだ言葉が置ける気がした。
リナが肩を預けてくる。
「ねえ、ユウト」
「なに」
「もしも、あのガチャがほんとに生きてるなら、私たちは今、誰かの体の中で生きてるってことだよね。だったら……私たちが外に出るとき、私たちも“景品”になってしまうのかな」
ユウトは答えられない。
答えはいつも遅れて届く。
風が灰を運び、夜が広がる。
ガチャの中で、またひとつ、カプセルが転がった気がした。
回す音のしない、回る音。
それは、誰の選択でもないところで起きていて、でも確実に、誰かの明日を決めていた。
ユウトは、握った弾丸をもう一度見た。
数字の列が、焚き火の弱い明かりで、蜂の巣みたいに見える。
どこへ行っても、誰かの欠けた場所に触れるのだろう。
それでも行く。
行かなければ、ここでゆっくりと消化されるだけだ。
誰かの胃の中で、名前のない栄養になるくらいなら、どこかの座標の上で足跡になりたい。
足跡はすぐに風にさらわれる。けれど、風が変わることもある。
そうやってしか、信じられるものは残らない。
夜明け前、空気がいちばん冷たくなるころ、ユウトとリナは立ち上がった。
持てるだけの荷物を背に、リンゴの芯を布で包み、土に埋めた場所へ短く頭を下げる。
広場の出口で振り返ると、ガチャの透明なドームに、薄い光が差し込みはじめていた。
新しい朝。新しい列。新しい当たりと、新しい外れ。
そのどれもが、同じ重さで誰かの肩に乗る。
ユウトは小さく息を吸い、吐いた。
まだ震えている。けれど、震えは体が生きている証だ。
地面の下で、脈が鳴った。
それに合わせるように、彼は最初の一歩を踏み出した。
背後で、回る音がした。
振り向かない。
二人は、数字の示す北へ歩き始めた。
足跡はすぐに灰に埋もれる。
それでも、確かにそこに残った。
しばらくして、風が変わった。灰の匂いが、少しだけ薄くなった。
ユウトは、リナの手首に触れた。
彼女の脈は、早すぎず、遅すぎず、どこかで聞いた“地面の音”と同じリズムだった。
誰かが死ねば、死体が戻ってくる。
誰かが生きれば、運が回ってくる。
その両方を飲み込みながら、この街はまだ“回って”いる。
だとしたら、回すのは誰だ。回せない誰が、外側で見ている。
ユウトは、胸の奥に重たく残った問いを、言葉にはしなかった。
言葉にしてしまえば、小さくなる気がした。
世界は、もう十分に小さい。
東の雲が、灰色から白へ変わっていく。
その白さの手前で、ユウトはふと、背中を引かれるような感覚にとらわれた。
広場の真下で蠢く“何か”が、彼らの歩みを確かめるように、ひとつ強く打った。
答えは、まだ先にある。
座標は、まだ始まりにすぎない。
そして、朝が来た。
ガチャは今日も回る。
誰かが、今日も回す。
回す音と、回らされる音が混ざって、崩れた街の空に薄く広がっていく。
その音の端で、ユウトとリナの足音が、確かに別のリズムを刻みはじめていた。
第3話「リナの順番」
午前の光は白く、灰の粒を浮かせていた。
広場の端に張ったブルーシートの影で、リナは汗に濡れて横たわっている。額に触れると、指先が跳ねるほど熱かった。呼吸は浅く、時々、喉の奥で乾いた音がした。
「水……」
唇だけが動く。
ユウトは急いでボトルを傾けた。喉が上下し、ほんの少しを飲み下すと、また瞼が閉じていく。
「ごめん、もっと冷やさないと」
ユウトは自分の首に巻いていた布を外し、崩れた噴水の溜まりに浸した。濁った水でも、ないよりはましだ。絞って、額に当てる。布はたちまち熱を吸い、ぬるくなった。
広場を渡る風が、灰を連れてくる。灰は皮膚に張り付き、口の中へ入り、味覚と嗅覚を鈍らせる。これが原因なのか、病原体なのか、放射線なのか、もう確かめる術はなかった。
昨日まであれほどよく喋り、よく歩いたリナの体が、今は小さく見えた。汗で貼りついた前髪の下、眉がかすかに寄る。熱の波が来ては去り、去ってはまた来る。
「薬……」
自分の声が、無力だった。
こんな時のために、とっておいた薬はない。誰も持っていない。誰かが持っていたとしても、もう交換に出す理由がない。目の前の人の命と引き換えに差し出せるものなど、今のユウトには何も残っていなかった。
彼は立ち上がり、広場の中央へ向かった。
透明なドームの内側で、カプセルがまた鈍く回っている。あの音は、どの涙より強く神経を刺した。
台座に両手をつく。額を擦るようにしながら、ハンドルを見下ろした。金属は朝の冷たさをよく覚えていて、握ればきっと皮膚から熱を奪うだろう。
「頼む、なんでもいい。薬を出してくれ」
言葉は祈りよりも荒かった。
ユウトは胸ポケットから、最後のコインを取り出した。錆の斑点が指に移る。リナに見せずに残しておいた一枚。彼女が笑って「それ、私の誕生日プレゼントね」と冗談を言ったのを思い出す。
投入口に入れる。
コトン。
ハンドルを握る。
回す。
――ガチャリ。
落ちたカプセルは軽かった。
震える指でふたを開ける。
中に入っていたのは、小さな拳銃だった。艶のない黒。装弾数は六。今にも金属疲労で割れそうな、古い片手用。
弾が二発だけ、薄い紙片に包まれて添えられている。
「ふざけるなよ」
口が勝手に動いた。胸の内側が燃えるみたいに熱くなり、全身を逆流した。
「薬を出せって言ってるんだ。食料でもいい。水でもいい。なんで……なんで銃なんだよ」
ユウトはカプセルを地面に叩きつけ、ハンドルを蹴った。
金属が鈍く鳴り、揺れ、すぐに元の位置に戻る。
ガチャはただ、次のコインを待っていた。
膝が笑って、その場に崩れ落ちた。
拳銃を拾い上げる。冷たい。掌に吸い付くような重量が、嫌に生々しい。弾を込める手つきが迷わない自分に気づいて、吐きそうになった。
撃つ相手なんていない。撃っても、薬は出ない。
なのに――この街では、銃が「答え」になってしまう場面があまりにも多かった。
ユウトは拳銃をポケットに押し込み、早足でテントに戻った。
リナは浅い睡眠の底でうなされている。呼ぶと薄く目を開け、焦点の合わない視線がユウトの顔をさまよった。
「ユウト……今、何時?」
「朝の……十時くらい」
「ふうん。午前中に熱が上がるの、子どもの頃から。放っておけば下がるよ」
からっぽの元気を絞って、そう言う。
「下がらなかったら?」
「そしたら……あなたが歌って。音痴なの笑ってたら、熱も逃げる」
ユウトは苦笑いさえできなかった。
「薬を探す。ここじゃないどこかに、まだ残ってるはずだ」
「座標の先?」
リナの目が、わずかに冴えた。
ユウトはうなずく。
「あの弾が示す方角を辿る。きっと医療倉庫のひとつくらい残ってる」
「無茶はしないで。戻ってくる約束」
「当たり前だろ」
「当たり前なんて、もうないのに」
彼女は自分で自分の額に手を当て、熱の波を数えるみたいに目を閉じた。
昼すぎ、広場にまた列ができた。
ユウトは列を遠巻きにしながら、声をかけて回った。
薬。解熱剤。抗生物質。消毒液。何でもいい。
答えは、乾いた肩すくめと、視線の回避。時には露骨な拒絶。
「今の時代、薬は食料と同じだ。いや、もっと価値がある。誰かが死ななきゃ出さないものだってある」
サワダが言った。
「交換なら、弾か銃を出せ」
ユウトは唇を噛んだ。
「銃は出す。でも、薬は今すぐだ」
「今すぐじゃない。順番だ」
「順番で死ぬのは、あんたじゃない」
サワダは目を細め、乾いた笑みを浮かべた。
「気持ちはわかる」
「わかってない」
「わからないなら、こんな顔はしない」
言い合いはそこで切れた。
ユウトは引き返し、リナの元に戻った。布を替え、体位を変え、手を握る。握り返す力は、さっきより弱かった。
「ごめん。見つからない」
「ううん……ありがと。寒くない?」
「暑いくせに」
「そうだね。変だね」
リナは微笑んだ。
「ねえ、もしもの話をしてもいい?」
ユウトは首を振った。
「しない」
「じゃあ、未来の話」
「遠い?」
「すごく近い。明日の朝くらい」
彼女はゆっくり言葉を選ぶように、呼吸の間に短い間を置いた。
「明日の朝、熱が下がってたら、私が回す。ガチャ」
「やめろ」
「わがままを言わせて。ずっと“運が悪い”って言い続けてきたから、たまには自分で確かめたいの」
「確かめるって、何を」
「順番。生まれた順番、選ばれる順番、死ぬ順番。その全部から、私が外れて今日まで残ってしまった理由」
「そんなもの、誰も知らない」
「だから回すんだよ」
笑いながら、涙がこぼれた。
「ユウトが隣で泣けないように、先に泣いておくの」
夕暮れ、風向きが変わった。
広場の反対側から冷たい空気が滑り込み、灰が別の波紋を描く。焚き火の煙が低く這い、子どもたちの咳が少し収まる。
ユウトはリナの額をもう一度拭い、乾いた唇に布の端を押し当て、水を含ませた。
やがて夜が降り、星の代わりに散ったガラス片が街灯の残光を返す。
眠れ、と言われた。
眠れるわけがなかった。
それでも、リナが目を閉じ、呼吸が少し落ち着くのを見届けると、ユウトはテントの入口に背を預け、拳銃を抱えて目を閉じた。
耳だけは、広場の音を拾い続ける。
カプセルの転がる音。
管の脈打つ音。
遠くで吠える犬の声に似た、風の鳴き声。
眠りと覚醒の境目で、リナの声がした。
「ユウト」
「起きてる」
「大丈夫。怖がらないで」
「何を」
「全部」
言葉は、柔らかく静かだった。
ユウトは首を巡らせたが、リナは眠っている。夢の中で誰かと話しているみたいに、口元だけが動いていた。
彼は拳銃を握り直した。弾は二発。どこに向けるでもなく、ただ、夜の冷たさに抗って握っていた。
朝、鳥の声の代わりに、金属の軋みがユウトを起こした。
喉が焼けるほど渇いている。舌が唇に貼りつく。
テントの布をめくる。
冷たい空気が流れ込み、皮膚が縮む。
「リナ」
呼ぶ声は、最初から破れていた。
そこに、リナはいなかった。
思考が一枚剝がれ落ちる。
次の瞬間、体が勝手に走っていた。
シートを跳び越え、瓦礫を踏み、広場の中央へ。
ガチャの前に、ひとつのカプセルが転がっていた。
透明な殻の向こう、柔らかい何かが陽の光を受けて揺れている。
膝から崩れた。
手が伸びる。
カプセルに触れると、内部の髪がふわりと揺れた。
黒い。長い。ところどころに乾いた汗の塩が白く残り、端を束ねていた細い紐が、ほどけかけている。
ふたを開ける手が震えて止まらない。歯を食いしばり、爪で縁をこじる。ぱきん、と乾いた音。
香りがした。
煙と灰の世界で、たったひとつ消えなかった、あの微かな甘さ。雨の前の風みたいな、リナの髪の匂い。
「嘘だろ」
声は、誰にも届かないところへ落ちた。
「リナ……おい、どこだ。返してよ。返せよ」
台座に手を叩きつける。
ハンドルが小さく揺れ、透明のドームの内側で別のカプセルが転がった。
ガチャは相変わらず静かで、哀れみも言い訳も持っていない。
背後で、誰かが息を飲んだ。
振り返ると、数人が距離を取って見ていた。サワダもいた。
彼は視線を逸らさず、低い声で言った。
「彼女……昨夜、ひとりで列に並んだ」
「嘘をつくな」
「本当だ。俺は見た。熱が少し引いた時間だった。ふらついてたが、立ってた。順番を譲られて、回した。カプセルを胸に抱えて、こっちへ戻ってきた。それから……見失った。朝まで」
「どこへ行ったんだよ」
「知らない。ただ……」
サワダは顎で地面を示した。
台座の下の隙間。血色の管。
そこに、黒い糸のようなものが一筋絡み、すぐに奥へと吸い込まれて消えていくのが見えた。
ユウトは息を止めた。
髪の、一本。
リナの色。
「中に……」
喉が閉まる。
頭のどこかが冷たく研ぎ澄まされ、別のどこかが悲鳴を上げ続けた。
ユウトは拳銃を抜いた。
サワダの眉が動く。
「やめろ。撃っても壊れない」
「壊れなくていい。目印をつける」
ユウトは台座の側面、管に近いコンクリートの継ぎ目に狙いを定め、弾を撃ち込んだ。
甲高い音。石片が弾け、白い粉が舞う。
管が一瞬、強く脈打った。
周囲の空気が震える。
広場を包む灰が、流れを変えた。
ユウトはもう一発を、台座の真下へ撃った。
響き。沈黙。
ガチャの中で、カプセルが三つほど一度に踊り、やがて元の鈍さに落ち着いた。
「さあ、出せ」
ユウトは台座に額を押し当て、絞り出す。
「運でも景品でもないやつを、今すぐ吐き出せ。髪だけじゃない。彼女を返せ」
返事は、ない。
あるはずもない。
それでも、彼はしばらく額を離さなかった。冷たい石に、自分の熱と汗が移っていくのを感じながら。
やがて、肩に手が置かれた。
サワダではない。小柄な老女だった。
「坊や。あたしの孫もね、ここで髪になって戻ってきたよ」
ユウトはゆっくり顔を上げた。
老女は、笑っているのか泣いているのか分からない顔で、かすれた声を続けた。
「それでも朝は来るんだ。残った者にだけ、朝は来る。朝が来るということは、歩けってことだよ」
「歩いて、どこへ」
「あんたの弾が教える場所へ。若い足は、そのために残ったんだろ」
彼女の目の奥に、微かな光があった。
ユウトは返す言葉を持たず、老女の手をそっと外した。
リナの髪を、布に包む。
細い束は驚くほど軽く、指に絡む感触だけが生々しかった。
あの日、彼女が自分の髪を高い位置で結び、真剣な顔で「似合う?」と訊いたとき、ユウトは冗談で「戦士みたいだ」と答えた。彼女は笑って、戦士の真似をしてみせた。その笑い声が、今でも耳の奥に残っている。
ユウトはテントに戻り、布切れを小さな袋に縫いつけた。針金と糸は、修理用に少しだけ持っていた。震える手つきで、丁寧に縫い口を塞ぐ。
袋には彼女の名前を刻まず、代わりに弾の数字の一部を書き写した。座標の前半。
生と死と機械の腹をつなぐ、細い線。
それを道標にする。
広場を出る準備をするあいだ、何度も何度も振り返ってしまう。
台座の下。管。ドーム。
透明の向こうで、カプセルがまたひとつ、転がる。
あの音に、今の自分はもう祈れない。
祈る代わりに、歩く。
祈るより先に、彼女が選んだ「順番」の意味を探しに行く。
荷物を背負うと、肩が重い。
銃は空になり、弾はない。
代わりに、袋が胸の位置で小さく揺れた。
「行ってくる」
誰に向かって言ったのか、自分でもわからない。
テントの柱、瓦礫の影、掲示板の残骸、灰の空——そこに散ったすべてに。
広場の外れで、サワダが待っていた。
「送る」
「いらない」
「座標の先は、俺も気になってた。弾を持ってても、ひとりだと道を勘違いする」
「俺は誰かを撃つ気はない」
「俺もだ。撃たれたくはあるがな」
奇妙な冗談だったが、ユウトは笑えなかった。
サワダは肩をすくめ、歩き出す姿勢だけを見せて、結局は広場へ戻った。
「戻ったとき、報せろ」
背中越しの声は、風に割れて聞き取りにくかった。
ユウトは返事をしなかった。
昼前、街を北へ向かう。
崩れた高架、ひび割れた道路、倒れた標識。
途中、給水塔の影でしばらく休み、リナの髪の袋に触れた。
心臓の鼓動が、その重さを確かめる。
彼女の「順番」は、死ぬためじゃない。誰かを生かすために、自分がそこに立つのだと確かめるためだったのだと、勝手に信じることにした。
それがただの自己救済でもいい。今はそれしか、足を前へ出す方法がない。
午後、座標の前半にあたる地点に着いた。
そこは、かつて病院だった。
白い外壁は煤に黒く染まり、窓ガラスは半分以上が抜け落ち、入口には「立入禁止」のテープが風に擦れて鳴っている。
ユウトは息を整え、拳銃の空の重みを確認し、扉を押した。
ロビーには、車椅子がひっくり返っていた。
カルテが散らばり、薬品棚の扉は全部開いている。
誰かが何度も漁った跡。
それでも、何かが残っているとすれば、深いところだ。
彼は階段を降り、地下の薬品庫へ向かった。
扉にはチェーン。南京錠は錆びて膨らんでいる。
ユウトは鉄パイプでこじり、時間をかけて壊した。
中は暗い。懐中ライトは弱々しい。
棚には、ラベルの剝がれた瓶がいくつもある。
中身が残っているものは少し。
匂いを嗅ぎ、振り、光に透かす。
解熱剤に見えるものがあった。錠剤。湿気で変形しているが、まだ砕けない。
ユウトは小躍りしそうになる膝を押さえ、ポケットへ慎重に入れた。
その時——低く、重い音が床下を駆け抜けた。
広場の地下で聞いた脈の音に、よく似ている。
壁に耳を当てると、ずるずると何かが這う気配。
この病院も、繋がっている。
この街の下で、あの配管は網の目になり、死と生を行き来させている。
ガチャは中心で、ここは末端。
末端が呼吸をし、中心が吐き出す。
リナの髪は、その流れの中で一瞬だけ岸に打ち上げられた“漂着物”だ。
ユウトは、棚の奥に視線を入れた。
暗がりの底で、銀色の包みがひとつ光った。
救急用のアンプル。ラベルは擦れて読めない。
それでも、注射器とセットになっている。
彼はそれも拾い集め、布に包んだ。
帰り道、雲が厚くなった。
風の匂いが変わる。遠くで砂が巻き上がる音。
広場へ急ぐ足が、勝手に速くなる。
リナが待っている——その言葉が、胸の中で何度もぶつかって壊れ、また形になって胸骨を叩いた。
広場に戻ると、列は短く、顔ぶれは疲れていた。
サワダがこちらを見て、目だけで何かを尋ねた。
ユウトは返さない。テントへ走る。
布をめくる。
空気が止まる。
そこには、彼女の体の形にだけ沈んだ寝床と、薄い汗の匂いが残っていた。
ユウトは膝をつき、震える手で布を握りしめた。
袋が胸で小さく鳴る。髪が、そこにある。
彼はゆっくりと袋を取り出し、額に当てた。
「戻ったよ。遅くなって、ごめん」
声は、かすれていたが、確かに音になった。
「聞いてる?」
返事は、ない。
だけど、彼はもう一度言う。
「聞いてて。これから、座標の全部をたどる。管の根の先まで行く。あなたが回した“順番”の奥まで届くまで、何度でも」
薬を握る手に、力が入った。
小さな錠剤一つにすがるみっともなさを、恥ずかしいと思う余裕はなかった。
生者の恥は、生き続けるための燃料だ。
ユウトは立ち上がり、広場を横切って台座の前に立つ。
透明なドームに、自分の顔が歪んで映る。
その向こうで、カプセルがゆっくりと転がった。
「お前は生きてる。だったら、わかるはずだ。俺がどれだけ本気か」
ユウトは囁き、指で台座の弾痕をなぞった。
目印は、ここから始まる。
彼は踵を返し、灰の道へ踏み出した。
空は薄く暗く、風は冷たく、喉は渇いて、胸は痛む。
だが、歩幅は揃っていた。
胸元の小さな袋が、足音に合わせて揺れる。
髪の一本一本が、道を引く糸になれ。
彼女がこの街に託した最後の「順番」が、誰かの死体ではなく、誰かの明日へ繋がるように。
ユウトは歩いた。
座標の続きが、灰の向こうで待っている。
その先で、彼は必ず、名前を呼ぶ。
髪ではなく、体ではなく、声で。
それが叶わなかったとしても——呼ぶことだけは、誰も奪えない。
風が、少しだけ匂いを変えた。
雨の前の匂い。
ユウトは顔を上げ、遠くの雲の切れ間に、薄い光を見た。
それは希望なんかじゃない。
ただ、次の一歩を映す光だった。
それだけで、十分だと思った。
第4話「血とコイン」
ガチャの透明なドームに、額を押しつけていた。
冷たい。石の棺に触れているみたいだ。
「返せよ……リナを……」
声は自分のものだと思えないほどかすれていた。どれだけ繰り返しても、機械は何も言わない。内部のカプセルが、呼吸のように転がる音だけが返ってくる。
胸元の小さな袋を握る。縫い目の向こうで、彼女の髪が音もなく揺れた気がした。そこにあるのに、いない。いないのに、そこにある。どちらを信じても、体が軋む。
「返せ」
呟きは石畳に吸い込まれ、台座の下の“脈”に絡まって消えた。
その日から、ユウトは広場に張りつくようになった。
列が延びる。順番が生まれる。コインが掲げられ、視線が集まる。
コインを持つ人間は、守られた。彼らは列の外で肩を叩かれ、食べ物を差し出され、笑顔を向けられた。神さまみたいに扱われる、と誰かが冗談を言った。誰も笑えなかった。冗談は、当たり前の顔をしてそこに座ったからだ。
逆に、コインを失った者は、早かった。列からこぼれ、肩をぶつけられ、足を払われ、いつのまにか広場の影にうずくまる。夜にはいなくなる。朝、カプセルの中で見かける。指、耳、布に包まれた名もない一部。
ガチャは、広場を祭壇に変えつつあった。血の匂いが、灰の匂いに混ざって濃くなっていった。
ユウトは最初、頼んだ。コインを分けてくれ、と。
次に、取引した。解熱剤らしい錠剤と引き換えに、と。
それでも足りないとわかると、殴った。
殴って奪った。
奪っても、また足りなくなる。
両手の中で鳴る、小さな金属の音だけが、夜の底をつなぎとめてくれた。
サワダが何度か止めに入った。
「目が危ない」
「放っておけ」
「お前は“戻る場所”を残しておけ」
「戻る場所は、もう飲み込まれた」
言いながら、ユウトは自分の声の冷たさに驚いた。驚きはすぐに鈍くなり、鈍さは簡単に習慣に変わる。
拳が、腰が、足が、コインを持つ手を狙って動いた。自分の体が、別の誰かの意思で操られているように軽くなる瞬間が増えた。
殴ったあと、胸の袋に触れる。布越しに伝わる重みが、罪と同じ単位で計測できそうで怖かった。
ある夕暮れ、ユウトは列の前で叫んだ。
「回すのは俺だ」
手には三枚のコイン。錆と血で汚れている。
周りがざわつく。
サワダが一歩前へ出る。
「ルールを守れ」
「ルール?」
ユウトは笑った。口の端だけが上がる笑いだった。
「ここにあるのは順番じゃない。死ぬ順だ。書き換えられるなら、書き換える」
サワダはしばらく黙り、やがて肩をすとんと落とした。
「好きにしろ」
言いながら、彼は列の人々を手で制した。誰も近づかなかった。目が合うのを避け、足元だけを見ていた。
一枚目を入れた。
回した。
落ちた。
ふたを開ける。
刃渡りの短い鉈。
二枚目。
回す。
乾いたクラッカーが三片。
三枚目。
回す。
弾。座標の刻印。
息が詰まる。
弾に触れた瞬間、台座の下の管がひとつ強く打った。体の奥で、同じ場所がうずいた。
透明なドームに映る自分の顔は、他人のもののようだった。頬がこけ、目の下に影。リナの髪の袋だけが、胸の上でまっすぐに位置を保っている。
夜になると、火の周りに“儀式”が生まれた。
コインを持つ者は中央に座り、持たざる者は距離をあけて壁際に寄る。中央では、持つ者同士が取引をする。食料、刃物、靴、毛布。言葉より先にコインが動く。
誰かが訴える。
「子どもにミルクを」
誰かが答える。
「コインがないなら、朝まで待て」
誰かが怒鳴る。
「朝までって、どの朝だ」
怒鳴り声は、すぐに押し黙らされた。押さえつけられ、殴られ、足音の陰に飲まれていく。
ガチャの中のカプセルが、低い音で転がる。それは合図に似ていた。許しではない。許しは、ここでは“当たり”の別名になってしまった。
ユウトは眠らなかった。眠ると、夢がリナの声を連れてくる。起きると、声は灰になっている。
起き続けると、灰の中に声が戻ってくることがある。声は「やめて」とも「行け」とも言わなかった。
ただ、髪の匂いがする。
その匂いが、ユウトを広場に縛った。
ある夜、悲鳴が聞こえた。
広場の外れ。倒れた外灯の影。
ユウトは反射で走った。
そこにいたのは、小さな影だった。
白いワンピースが血で貼りつき、膝から下が泥だらけ。髪は短く切りそろえられているのに、端々がざらついている。
少女がこちらを見上げた。目の白が、薄い灯りを拾った。
「助けて、とは言わない」
最初に発した言葉がそれだった。声は小さく、しかし芯があった。
「言えば、代わりに何かを求められるから」
ユウトは一瞬遅れて、周囲を見渡した。追っている足音はない。風の音と遠い咳だけ。
「傷は」
「平気。よく血が出る体質なだけ」
少女は立とうとして、よろけた。ユウトは思わず肩を支えた。血が手に移る。生温かい。
「名前は」
「ノノ」
短く答えて、彼女は自分の左前腕を捲った。
そこに、見覚えのあるマークがあった。ガチャの台座に刻まれた、円と歯車の簡単な刻印。けれど、これは皮膚に焼きついている。輪郭が盛り上がり、中心に小さな凹み。
「それ、どこで」
「ここで」
ノノは顎で広場を指す。
「下で」
「下?」
「うん。地下。あなた、もう見たでしょ。管。脈。袋。あれ、ひとつじゃないよ。広場の下は迷路。『選別システム』があるの」
選別、という言葉が耳に刺さる。
「何を選ぶ」
「次の結果。誰に何を出すか。誰から何を取るか。組み合わせ。確率。あらかじめ決めるんじゃなくて、食べたもので決めるの」
「食べた……?」
「人のDNA。血、髪、皮膚。カプセルに入った“欠片”は、ただの供物じゃない。データ。あれが落ちるたび、下の生き物は学ぶ。誰が回せば暴れるか、誰が当てれば泣くか。誰が、次に必要か」
ノノは淡々と言った。言葉の端で、息が揺れる。彼女の体は軽く震えている。寒さか、痛みか、それとも恐怖か。
「嘘だと思うなら、明日、管の太いところに耳を当ててごらん。人の声がする。混ざってる。泣き声、笑い声、祈り、ため息。ぜんぶ、細かく砕かれて、流れてる。あれはただの血じゃない」
ユウトはノノの前腕にもう一度目を落とした。刻印の周りの皮膚が、薄く青い。血管が浮いて見える。
「その印は……どうして」
「選ばれた人につく。『検査済』の合図。上で回すとき、何が出ても、その人にふさわしくなるように」
「ふさわしく?」
「よく出来た皮肉。私が回すと、たいてい“刃物”が出た。ほら、似合いそうでしょ」
ノノは無表情で言って、自分の細い手を見た。爪の間の汚れは新しく、乾いた血が筋になって残っている。
「あなたは?」
ノノが顔を上げた。
「あなたは、もう選ばれてるよ」
「やめろ」
「本当。胸の、袋。彼女の髪。その匂い。下はそれを嗅いでる。あなたの歩き方、呼吸、声。ぜんぶ、もう読まれてる」
「俺は……座標を辿る。そこに何があるか確かめる」
「座標は餌です。目的地があると思わせるための。『先へ行け』って背中を押して、必要な感情を増やす。希望。執着。復讐。どれでもいい」
ノノは言葉を切り、短く咳き込んだ。肩が跳ね、口元に血の点が咲く。
「大丈夫か」
「平気」
そう言うと、ノノはユウトからすっと身を引き、地面に座り込んだ。足が上手く言うことをきかないようだ。
「どうしてそんなことを、俺に話す」
「あなたが壊れてるから」
ユウトは息を止めた。
ノノは続ける。
「壊れてる人は、話を真っ直ぐに受け取る。余計な飾りや嘘で守らない。そういう人にしか、たぶん、届かない。あともうひとつ。私も、あなたに賭けたい」
「何を」
「順番」
ノノは笑いもしないで言った。
「私、コインを持ってない。奪う力もない。あなたは持ってる。奪ってきた。つまり、あなたが“神側”に立つなら、私みたいな“持たない側”は、あなたにすがるしかない。ね、滑稽でしょ」
「俺は神じゃない」
「じゃあ何」
「……返してほしいだけだ」
「返ってこないよ」
ノノの声は、優しかった。
「でも、『返ってこない』の先にしか、道はない。あなたが歩くなら、私もついていく。下があなたを選んだなら、下にとって最悪の選択を、あなたはしてくれるかもしれない」
ユウトは立ち上がった。足元が一瞬ふらつく。
広場の中央、ガチャのドームに夜の火が映り、いくつもの揺れる灯りが歪んで混ざっている。
台座の下の管は、今夜も規則的に脈打っていた。
「選ばれた、っていうのは、つまりどういうことだ」
「そのうちわかる。印が出る。皮膚の下に、熱が走る。回さなくても、呼ばれる。落ちるカプセルが、あなたにしか見えない順番で転がる」
ノノは肩をすくめ、右手を差し出した。
「宿、貸して。血が乾くまで」
ユウトは頷いた。
彼女をテントへ連れていき、古い毛布をかける。水を渡すと、ノノは少しだけ口を湿らせ、目を閉じた。
「痛むところは」
「全部」
「眠れ」
「眠れるなら、とっくに神さまになってる」
馬鹿みたいな返事だったが、ユウトは笑えなかった。笑いは喉の奥でからからの音になり、やがて消えた。
外に出ると、サワダが火の影から現れた。
「拾ったな」
「ああ」
「気をつけろ。印がある」
「見た」
「印のついたやつは、だいたい長生きしない」
「知ってる」
短い会話が途切れたところで、ガチャの中のカプセルがひとつ、静かに転がった。風はない。
ユウトは足を向ける。
台座の弾痕に、指先を当てる。
そこはもう、冷たくも温かくもなかった。
ただの石。
ただの境界。
ここで世界は、上と下に分かれる。
その夜、ユウトは眠りつづけるふりをした。
目を閉じ、耳を開く。
地面の下で、遠い笑い声が混じった。
祈りの言葉が砕け、ため息が細かくなり、泣き声が長い管を滑っていく。
ノノの言った通りだった。
そこに、リナの声はなかった。
でも、匂いがした。髪の匂い。
胸の袋に顔を埋めると、ほんの一瞬だけ呼吸が楽になった。
明け方、ノノは小さくうなされた。
ユウトは起き上がり、水を差し出した。
「座標の続きに行く」
自分で驚くほど、声は落ち着いていた。
「来るか」
「もちろん」
ノノは立ち上がり、刻印のある前腕を布で巻いた。
「あなた、たぶん今日、呼ばれるよ」
「どういう」
「行けばわかる」
ノノは広場の中心をちらりと見た。
「それと、彼女の髪、持っていって。『選別システム』がいちばん強く反応するのは、それだから」
ユウトは袋を胸の内側に差し直した。
風は冷たく、空は暗い。
広場の外へ踏み出した足が、石畳の境界で一瞬止まる。
背中に、透明な目がいくつもついている感じがした。ドームの向こうから、見られている。
振り返らない。
振り返ったら、戻ってしまう。
戻ったら、回してしまう。
回したら、また誰かの髪が出る。
「行こう」
ノノが並んだ。歩幅は小さいが、乱れない。
ユウトは右手で胸の袋を押さえ、左手で空の拳銃の冷たさを確かめた。
遠く、崩れた高架の向こうで、朝の気配が薄く滲み始めている。
選ばれるという言葉が、背骨の奥でじりじりと焼ける。
選ばれたなら、選び返す。
それが出来るかどうかもわからないまま、ユウトは前へ出た。
最初の角を曲がったときだ。
前腕の内側に、熱が走った。
刺すような痛みではない。じわ、と広がる痺れ。
袖を捲る。
皮膚の下、青く細い血管の交差点に、薄い円が浮いて見えた。
刻印と同じ形。
まだ外からは触れない。内側だけが熱い。
ノノが頷いた。
「ほら、言ったでしょ」
ユウトは何も言わず、袖を戻した。
歩く。
呼吸を合わせる。
地面の下の脈と、胸の上の袋と、前腕の熱が、奇妙に同じテンポで進み始めた。
選ばれたのなら、なおさら。
返せ、という言葉を、何度でも言える場所へ。
背後で、回る音がした。
振り向かなかった。
振り向かないことが、今できる唯一の反抗だと、ユウトは思った。
風が灰を運び、朝がゆっくり押し寄せる。
血とコインが作った祭壇から離れるほど、足の裏の感覚が戻ってくる。
痛みは、生きている証拠だ。
痛みを持ったまま、ユウトは歩いた。
彼の順番が、誰かの順番を終わらせるためではなく、誰かの明日を繋ぐためにあることを、いつか証明するために。
第5話「沈む機械」
地下へ降りる階段は、半分ほど泥で埋まっていた。
コンクリートに染みついた鉄の匂いと、濁った水の気配。足元で水がわずかに跳ねて、ランプの光がひしゃげた魚の目みたいに震える。
「こっち」
ノノが先を行く。白いワンピースは昨夜からの血の色を乾いた茶に変え、裾がほつれている。左の前腕は布で巻かれ、その下にある刻印が体温でうっすら浮き上がっていた。
階段を曲がるたびに、地面の下の脈は強くなる。
ずう、ずう、と大きなものが寝返りを打つみたいな、厚い響き。壁の中を液体が走る摩擦音が、耳の奥をくすぐる。
途中、崩れた改札をくぐった。錆びたバーが斜めに折れ、そこを通った人影の数だけ塗装が剥がれていた。かつて通勤時間だった場所に、今は時間がなく、あるのは順番だけだと思うと、喉の奥が固くなる。
地下のプラットフォームに降りる。
天井の梁が折れ、そこに黒い根が垂れさがっていた。根、としか言いようがない。
それは管の束だった。太いものは人の胴、細いものは髪の毛ほど。色は赤から黒へ、途中で層をつくり、途中に透明の節がある。節の中を、何かが流れていた。
プラットフォームの床にも、壁にも、柱にも、それは絡みついている。古い駅名標を飲み込み、時計を抱え、売店のシャッターを持ち上げたまま固め、広告看板の笑顔を半分だけ残して、残りを塗りつぶしていた。
「ここが“根”だよ」
ノノが言った。
「ガチャの真下。千本じゃない、たぶんもっと。数えるの、やめちゃった」
ユウトは息を呑む。胸がきゅっと縮まり、袋の重みが内側へ沈んでいく。
根は、どこまでも続いていた。地平はなく、闇の先で別の闇に繋がっている。遠くの方で、節がひとつ光り、その光が波のように隣へ移り、また消える。そのリズムが、地上のガチャの回転にきっと重なっているのだろうと思った。
足元で水が鳴った。
ノノがしゃがみ込み、床と根の境目に耳を当てる。
「聴こえる?」
ユウトも膝をつき、耳を近づけた。
最初は流れる音だけ。小石が水路を転がるみたいな、細い音。やがて、その中に人の声が混じった。
笑い声。泣き声。怒鳴り声。ため息。祈り。
どれも、砕けて短い。単語にならない。小さな破片が高速でぶつかり、離れる。
それは、ガチャの前の広場で聞いた音に似ていた。ただし百倍も千倍も多い量で、休むことなく、昼も夜もない。
「ねえ、ユウト」
ノノが小さく呼ぶ。
「これ、血だけじゃないんだよ。水でも、油でもない。ぜんぶ混ざってる。体から出るものと、一緒に出た“思い出”が、砕けて流れてる。ここは……台所」
「台所?」
「うん。料理をするところ。材料は、人。味付けは、運」
ユウトは顔を上げ、根の一本を凝視した。節の中で、何かが渦を巻いている。細かい破片が合わさって、また分かれ、別の形に並び替わる。
「誰が、料理してる」
「さあ。昔の人? 今の機械? その両方? たぶん最初のきっかけは人。ぜんぶが壊れたとき、どうしても“生き残る仕組み”がほしくなった。公平じゃないと暴動が起きる。だから、“運”で配る機械を作った。運なら誰も恨まない、そう考えた人がいた。……でも、運は空から降ってこない。だから、運を作った。食べた。分解して、配った」
ノノの声は、淡々としていた。ぜんぶの恐怖を何度も噛みしめて、言葉へ薄めて出すみたいな声だった。
「そのために、人のDNAを拾った。髪、爪、血、皮膚。誰かが当たりを引いたとき、その人の『確率の癖』を読み取って、別の人のカプセルに混ぜる。誰かが外れを引いたとき、その人の『外れの癖』は捨てられるか、たまに別の誰かの罰になる。そうやって、運の流れを調整してる。抽選箱の中身を、引くたびに入れ替えるみたいに」
「……運の、移植」
「そう」
ノノはうなずき、唇を噛んだ。
「最初は善意だったのかもね。誰か一人が当たり続けないように、誰か一人が外れ続けないように。平均を作るために」
「平均のために、誰かの指がカプセルに入るのか」
「平均のために、誰かの恋が追い出されるの」
ノノは、まっすぐユウトを見た。
「あなたの彼女の髪は、誰かの当たりに使われるよ。甘い匂い、やわらかい癖。『守りたい』って気持ちごと、誰かの景品に付け足される。そうすると、その人は次も当たりを引きやすくなる。だって、守りたい相手がいる人は、コインを持つまでに死なないから」
「やめろ」
喉が塞がり、声が擦れた。
袋を握る手に、汗が滲む。
「彼女の髪は、俺が——」
「止められないよ」
ノノは首を振った。
「あなたがここに来る前から、根は“覚えた”。あなたが弾を握って震えた朝も、座標をなぞった夜も、彼女の指の匂いも。全部、選別の材料になってる」
ユウトは立ち上がり、ふらつきながらも根の束に近づいた。
節のひとつに手を伸ばす。薄い透明の膜が、くらげみたいに呼吸をする。触れた指先の熱を、すうっと吸い上げて、すぐ返す。
節の向こうに、色の違う粒が見えた。黒。金。赤。白。
指を押し当てた瞬間、視界の隅に光が走った。
地上の広場。転がるカプセル。薄い笑い声。
次の瞬間、別の映像が重なる。
学校の廊下。窓の外の夕焼け。体育館の匂い。
さらに別の、見覚えのない街角。雨に濡れたアスファルト。傘の骨が折れて、笑いながら走る女の子。
それらが一瞬で去り、また戻り、めまいの端で粉になって崩れた。
「視た?」
ノノが低く問う。
ユウトは頷けなかった。頷いたら、視たものが現実になってしまう気がした。
「ここは、みんなの『当たった瞬間』の残像でいっぱいだよ。全部が混ざって、次の誰かの当たりの味になる」
「そんなの、当たりじゃない」
「でも、みんな“当たり”って呼ぶ。名前は残すの。名前は、祈りだから」
ノノは、涙を一滴こぼした。
「私はね、最初『外れ』ばかり引いた。刃物とか、壊れた食器とか、誰かの写真の端っことか。怒って、喚いて、台座を殴った。ある日、下へ落ちた。気がついたらここにいて、刻印を焼かれた。『あなたは当たりを出しやすい人です』って。笑えたよ。上では外れだったくせに」
「刻印、は……」
「逆流の印。上へ戻してもらえる代わりに、上で回すたび下が“味見”に入ってくる。私の血、私の声、私の笑い方が、誰かの当たりの“調味料”になる」
ノノは左腕を抱えた。そこからゆっくりと熱が広がっている。
「だから私、笑わないようにした。泣きもしない。味を薄くするために」
ユウトは言葉を失い、ただ根を見つめた。
根の奥で、光がふっと消え、すぐ隣の節がゆっくり光る。その間隔。呼吸。
地上のガチャのハンドルが、誰かが触れもしないのに微かに揺れる理由が、ここにあった。
「伝えとくね」
ノノは、急に子どもみたいな言い方をした。
「さっきまで、上の広場で回した人。あの人が当てた乾パンの『当たり味』、すごく薄かった。たぶん、あなたが昨日撃ち込んだ弾痕のせい。根っこの流れが一部で詰まって、配合が崩れてる」
「つまり」
「この街の“味”が壊れはじめてる。平等も、均しも、平均も」
ノノは息を吸い込み、吐いた。
「チャンスだよ。……たぶん、これが最後の」
ユウトは、胸の袋を強く抱いた。
声が出る前に、体が動いた。根の束に顔を近づけ、吐き出すように言葉が流れた。
「運の移植なんて、誰が望んだ」
根は答えない。代わりに、腕の内側がぴりっと熱を帯びた。薄い丸の輪郭が、皮膚の下に浮かぶ。
ノノがうなずく。
「出た。選ばれてるって言ったでしょ」
「選ばれて、どうなる」
「あなたが回すと、ここは“あなたに合わせて”配合を変える。あなたの当たりの記憶、あなたの外れの痛み。彼女を抱いたときの匂い。全部ぜんぶ、均されて、誰かの口へ入っていく」
ユウトは膝から崩れた。
床に手をついたまま、肩が勝手に震える。
喉が閉じ、でも音が漏れる。泣いているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「俺が……」
舌がうまく回らない。
「俺が“当たり”を引いたから、リナが“外れ”になった」
言ってから、頭の中で何度も同じ文が反響した。
あの日。リンゴ。銃弾。髪。
選別は、偶然の顔をしていたけれど、偶然のために誰かが溶かされ、混ぜられ、運ばれていった。
呼吸が浅くなる。目の前がかすむ。
ノノがそばにしゃがみ、背中に手を置いた。
「違うよ、ユウト。あなたが殺したんじゃない。仕組みが殺した。あなたが“当たり”を引けたのは、彼女がいたから。あなたが彼女を守れるくらいの運を持てたのは、彼女があげたから。それは罪じゃない。……でも、あなたが動かなかったら、罪になる」
「動く?」
「うん」
ノノは微笑んだ。微笑み方を忘れていた唇が、ぎこちなく形を作る。
「最後の一回、回してみなよ。全部、終わるから」
その言葉は、地下の空気より重かった。
「全部、終わる?」
「うん。私、見たことある。昔、ここがまだ今ほど太っていなかった頃、誰かがやった。『最後の一回』ってね。きっとその人も、あなたみたいに壊れてた。ハンドルを回した瞬間、下がひとつに繋がって、根が“満腹”になったの。しばらくのあいだ、広場から何も出なくなった。列は消えて、静かになって、街が……止まった」
「止まって、どうなった」
「時間が動いてないあいだに、何人かは遠くへ逃げたって話。何人かは戻ってこなかったって話。『全部終わる』の意味は、人によって違う。でも、ここに居続ける私から見たら、あれは確かに“終わり”だった」
ノノは目を細め、根の群れの向こうを見た。
「そのあと、根はまた腹を空かせて、もっと深く広く、遠くまで食べるようになった。だからね、終わりをもう一度作るなら、今。あなたが弾痕を開けたおかげで、少し弱ってる」
ユウトは立ち上がった。
内側の熱が脈に合わせて動いている。前腕の輪郭がじんじんする。
広場に戻らなければ。
ハンドルを回さなければ。
最後の一回。
息を整えようとするたび、喉にリナの名前が引っかかる。発音したら崩れる。だから、呼ばない。
彼女の髪の袋を胸の真ん中に置き直し、紐を強く結んだ。
「ノノ、来るか」
「もちろん」
ノノは立ち上がり、少しだけ笑う練習をしてから、真顔に戻った。
二人はプラットフォームを離れ、狭い通路を戻る。階段を上がるたび、地面の上の気配が近づく。人の足音、咳、低い呼び声。
最後の踊り場を曲がったところで、ユウトは足を止めた。
地上から、カプセルが転がる音がした。
いつもより早い。
まるで、上から誰かが急かしているみたいな、乾いた連打。
広場に出ると、空が白み始めていた。
夜の火はほとんど消えて、煙だけが薄く漂う。人々は、眠りと空腹の間に引き裂かれた顔をしている。
ガチャの前には、もう列ができていた。
サワダが台座の横に立ち、棒きれで簡単な柵を描いている。
ユウトを見ると、彼は一瞬だけ目を細め、すぐに視線を逸らした。
「ルールを守れよ」
小さな声。
ユウトは頷かなかった。頷けば、戻る。それはもう出来ない。
台座の前まで行く。
透明のドームの内側で、カプセルが二つ同時に転がり、また止まる。その動きは、呼吸ではない。痙攣のようだ。
ハンドルの根元に、昨日の弾痕がある。白い割れ目。
ユウトは息を吸い、吐いた。
胸の袋が、小さく鳴る。
ノノが隣で囁く。
「回した瞬間、戻るかもしれないよ、全部。彼女も、あなたも、ここも。あるいは……」
「あるいは?」
「何も残らない」
ユウトは笑った。乾いた音。
「選べないんだろ。なら、回すしかない」
手を伸ばす。
ハンドルに触れる前に、前腕の内側で熱が弾けた。
刻印が、皮膚の上へ染み出していく。薄い円がくっきりと浮かび、中心がひとつ脈打つ。
同時に、台座の下の根が鳴った。
広場の石畳の隙間から、微かな風が吹き上がる。
列の人々がざわめく。
サワダが棒きれを落とした。
ノノは、息を止めた。
ユウトはハンドルを握った。
冷たい金属が、手のひらの汗を吸う。
目を閉じる。
回す前の静けさ。
リナの髪の匂い。
リンゴの甘さ。
弾の刻印。
広場の朝。
地下の声。
全部がその瞬間だけ、同じ高さに並ぶ。
——回した。
ガチャリ、という音が、いつもと違った。
落ちる音がしない。
代わりに、地面の下から大きな音が上がってくる。
根が息を吸い込むような、重い気圧の変化。胸が内側から押され、耳が痛くなる。
透明のドームの中で、カプセルの色が変わった。赤でも青でもなく、色が抜けるみたいに白く。
白が、ひとつ。ふたつ。
やがて全部が白くなり、境界が滲む。
輪郭がぼけて、光だけが残る。
広場のざわめきが、消えた。
音はある。根の鳴き声。石の軋み。風の擦れ。
でも、人の声が止まった。
列が動かない。
誰も息をするのを忘れたみたいに、胸を止めている。
台座の下で、何かがほどける音がした。太いロープを解くときの、重たい摩擦音。
次の瞬間、地面がわずかに沈んだ。
台座が、ゆっくりと下へ下へと引かれていく。
石畳がひび割れ、弾痕が開き、透明のドームが砂のように崩れて、白い光に飲まれた。
「沈んでる」
ノノの声は、遠かった。
ユウトは、足を踏み出さなかった。
目の前で、世界の中心が沈むのを、見続けるしかなかった。
沈むにつれ、根の声は低くなり、広場の空気が軽くなった。
逆だ。
何かが満たされていくのに、息がしやすくなる。
喉に残っていた灰の味が、薄くなる。
風が違う方向から吹いてきて、遠くで鳥が鳴いた気がした。
鳥なんて、ここにはいないはずなのに。
沈みきったあと、広場には穴が残った。
穴の縁は滑らかで、内側は白い。
光はもう出ない。
ただ、静かだった。
列の一番前にいた女が、我に返ったみたいに穴を覗き込み、次いで子どもが泣き、老人がしゃがみ込んだ。
サワダが穴の縁に近づき、石をひとつ落としてみた。
音は、しなかった。底がないのか、底が遠すぎるのか。
広場の端で、誰かが笑った。神経が切れて出る笑い。すぐに、別の誰かが泣いた。
ユウトは、膝が抜けて座り込んだ。
胸の袋が、心臓の動きに合わせて小さく揺れる。
ノノは黙って隣に腰を下ろし、腕の刻印を撫でた。
「終わった?」
ユウトの問いは、空に向かった。
ノノは少し考えてから、首をかしげた。
「たぶん、一回ぶんは。根は満腹になった。しばらくは、何も出ない。人は、誰も“当たらない”。誰も“外れない”。だから、きっとここは静かになる」
「静かになって、どうする」
「静かになった街で、どうするかは、上にいる人の仕事。下は、もうしばらく動かない」
ノノは顔を上げて、薄い空を見た。
「逃げる人は、今のうちに逃げる。残る人は、穴の縁で考える。配るものが運しかなかった時代から、何を配り直すか」
「配るもの……」
「言葉とか、分け方とか、順番じゃない何か」
ノノは笑おうとして、やめた。
「そんなの、私には思いつかないけどね」
ユウトは穴の縁へ近づいた。
白い内側に、自分の顔がぼんやり映った。
そこに、リナの顔が重なる。
笑う前の口元。眠る前のまつげの影。
袋を胸に押し当て、穴へ向かって、小さな声で言った。
「返せ、とはもう言わない。……見ててくれ」
風がうなずいた気がした。
穴の底から、返事はなかった。
広場の人々が少しずつ動き出した。
列は消え、代わりに丸ができた。穴を囲む輪。
サワダが見回し、苦笑した。
「仕事が増えた。柵を作り直して、落ちないように見張りを立てる。水を分ける順番を考える。……運がなくても出来る仕事だ」
ユウトはうなずいた。
ノノが袖を引く。
「行こう。座標の続き、まだ残ってる。根が満腹のうちに、いちばん深いところへ行ける」
「深いところに、何がある」
「あなたの『当たり』が、最初に生まれた場所」
「そこへ行けば、彼女は」
ノノは首を横に振る。
「彼女は、もうどこにもいない。でも、『当たり』の始まりを知れたら、“次に配るもの”を一瞬だけあなたが選べる。……もしかしたら、それは彼女の望みと同じかもしれない」
ユウトは穴から目を離し、広場を見渡した。
誰もコインを掲げていない。
誰もハンドルを待っていない。
子どもが穴の縁に近づき、母親が慌てて抱き上げた。老人がベンチに腰かけ、空を見ている。サワダが棒きれで簡単な看板を描いた。「近づくな」。字が下手で、でも大きかった。
風に紛れて、どこかで本当に鳥が鳴いた気がした。
ユウトは、胸の袋をそっと撫でた。
「行こう」
ノノと並び、広場の外へ向かう。
背中で、穴が静かに呼吸する。
地面の下の根は眠り、街は、少しだけ軽くなった。
階段を降りる。
暗がりが、今日だけは冷たいだけだった。昨日まで感じた、あの生温かい舌の感触は、薄い。
プラットフォームに出ると、根は確かに静かだった。節の光は止まり、透明の膜は動かない。
ノノが耳を当てる。
「声が、ない。……今だけは、ね」
ユウトは頷き、足を進めた。
座標の数字が、頭の中で静かに並ぶ。
弾の刻印は、今もポケットで冷たい。
前腕の輪郭は、まだじんじんする。
選ばれたのなら、選び返す。
配られるだけの街から、配り直すために。
背中に、光が落ちた。
振り返ると、階段の上に朝が来ていた。
破れた天井の向こうで、雲が薄くほどける。
ユウトは目を細め、短く息を吐いた。
それは希望じゃない。
希望に名前をつける前の、ただの光だ。
それで十分だった。
足元の暗闇は続いている。
でも、行く先が、ほんの少し見える。
それだけあれば、人は歩ける。
リナが教えてくれたのは、きっとそういうことだ。
二人は、沈んだ機械の心臓へ向かって歩き出した。
静かな根の海を抜け、そのさらに下へ。
誰も当たらず、誰も外れない数時間のうちに、選別の始まりへ辿り着くために。
そして、配るものを変えるために。
髪の匂いと、地下の冷たい空気を胸いっぱいに抱えて、ユウトは、次の階段を降りていった。
第6話「最後のガチャ」
夜明けは、ゆっくりと広場を洗った。
灰は薄い霜のように地面に張りつき、風が吹くたびに白くほどける。石畳の割れ目に積もった灰は、昨日までの血と涙と足跡を覆って、すべてを「なかったこと」にしていく。
ユウトは、その上を歩いていた。靴底が薄くなっていて、踏みしめるたびに指先まで振動が上がる。背負った荷は軽い。持てるものは少ししかない。持たないものは、もう数えきれない。
広場の中央へ近づくと、風の音が変わった。
穴は静かに口を閉ざし、昨夜沈んだ機械の痕跡は、白い円の縁を残すだけになっていた。穴の周りには誰もいない。サワダも、老女も、子どもたちも、ノノも。姿は見えず、声も聞こえない。彼らが「しばらくは何も出ない街」をどこで迎えるのか、ユウトには分からない。ただ、今この瞬間、ここにいるのは自分ひとりだと思うと、胸の奥で何かが凹んだように痛んだ。
ガチャが、あった。
穴の縁から少し離れた場所に、古いベンチの脚を加工して組んだ台座が立ち、その上に透明のドームがのっている。昨夜沈んだ機械の残骸から、誰かが拾い上げて仮に据えたものか、それとも根のどこかが吐き戻したものか。判断のための手がかりはどこにもなかった。
近づくと、ドームの内側に薄い曇りが残っているのが見えた。人の指の跡だ。昨日の誰か、今日の誰か、明日の誰か。はっきり区別できないほど重なり、擦り合い、ぼやけている。
ハンドルの根元に、ひとつだけ新しい金属の光があった。磨かれたばかりのような、細い継ぎ目の縁。そこへ指を置いてみる。冷たい。けれど、冬の金属の刺すような冷たさではなく、夜風にさらした石の温度のような、鈍い冷たさ。
ユウトは、ドームの向こうを覗いた。
空のカプセルが、ひとつ。ゆっくり転がって、止まる。
その音は聞こえなかった。風が運ぶ音、穴の縁で擦れる砂の音、遠くで軒先が揺れる音――それらに紛れて、機械の中の小さな移動は音にならず、ただ視線の端をかすめるだけだ。
胸の袋へ手を当てる。
薄い布の下で、髪が重さの形を保っている。あの匂いは、もう残っていない。それでも、布越しに触れるたびに、指先に柔らかな感覚がよみがえる。
名前を呼ばないと決めてから、何度も呼びたくなった。呼ばなかった。呼ばないことが、約束を守る唯一の方法のように思えた。彼女が自分の順番を選んだあの日から、ユウトは「選び返す」しか生き方を持てなかった。
コインが、ひとつ。
ポケットの底で、金属の輪郭が指先に触れた。最後の一枚。ノノは地下の暗がりで、「あなたは今日、呼ばれる」と言った。刻印の輪郭は今も皮膚の下で淡く熱を保ち、ときどき脈打つように疼いた。
ノノは、もういない。どこへ行ったのかは分からない。座標の続きへ向かったのか、別の「終わり」を探しに行ったのか。それとも広場の端で眠っているのか。
いずれにせよ、最後の一枚はユウトの手の中にある。他の誰のものでもない。奪ったものでも、譲られたものでもない。沈んでいった機械が、なぜか戻してくれた「時間」。その最後の欠片が、今ここにある。
ユウトは空を仰いだ。
雲は薄く、色は浅い。朝はまだ深呼吸の途中で、街は肺の中で静かに膨らんでいるようだった。
広場の建物の壁に、昔の広告の端が残っていた。笑う女の子が紙コップを掲げている。印刷の色はほとんど剝げて、笑顔だけが輪郭で分かる。
子どもの頃、こういう笑顔の意味が分からないままだった。今も、分からない。けれど、分からなくても前に進めることを、この街はいやというほど教えてきた。分からないまま、それでも。
「見ててくれ」
穴へ向かって言ったのと同じ言葉が、勝手に口をついた。
返事は、風の揺らぎだけ。
ユウトはコインを投入口へ持っていく。
指がふるえた。汗で滑る。握り直す。
投入口は正確で、音は残酷なほど軽かった。
コトン。
ハンドルを握る。
金属が皮膚を吸い、熱を奪い、指の骨の長さまで正確に測る。
ユウトは目を閉じた。
目を閉じると、色が消える。音だけが大きくなる。
遠いところで鳥が鳴いた気がした。
鼻の奥に、灰のにおい。
舌の上に、リンゴの甘さの記憶。
耳の近くで、髪が擦れる音。
胸の内側で、まだ消えない鼓動。
回した。
ガチャリ。
回転は、驚くほど滑らかだった。昨夜、沈んだ心臓の余韻が、どこかにまだ残っているのかもしれない。
落ちる音が、確かにした。
ユウトは、息を止めた。
取り出し口へ手を伸ばす。
指先が当たる。冷たい。丸い。
掴む。持ち上げる。
ふたを、開ける。
中に、それはあった。
握りこぶしほどの、赤いもの。薄い膜に包まれて、湿っている。
心臓。
小さな心臓。
まだ動いている。
ぴくり、ぴくり、と規則を学ぼうとするみたいに、整わないテンポで跳ねていた。
膜の内側に浮いた血が、鼓動に合わせて揺れる。
薄い血管が光に透け、糸のような枝分かれが見える。
ユウトは、言葉を失った。喉にかかったのは、驚きでも恐怖でもなく、ただ純粋な「理解の遅れ」だった。世界の説明が、ほんの数秒だけ遅れてやってくる。遅れて届いた説明は、遅れて届いた分だけ鋭く、心臓の形をした事実を胸に突き立てる。
「小さいな」
声は、自分で驚くほど静かだった。
街の音が戻ってきた。風。看板の軋み。遠い建物の崩れるような音。
心臓は、ユウトの手の中で相変わらず跳ねている。
それは誰のものだろう。
ユウトのものか。
リナのものか。
ノノのものか。
誰か知らない誰かの、始まらない朝のものか。
考えるより先に、体が動いた。
ユウトは、その小さな心臓を胸に押し当てた。胸骨の真ん中、袋のすぐ横。
冷たさと熱が同時に来た。小さな鼓動が皮膚を通り、骨を通り、指の骨のうら側まで響き、そして、自分の鼓動の音にぶつかった。
ぶつかって、止まった。
ユウトの心臓が、音をやめた。
息が、続く途中でほどける。
頭の中の音が遠ざかる。
指先から力が抜けて、小さな心臓を落としてしまわないように、と反射で腕に力を込めた瞬間、別の場所に光が灯った。
ガチャの奥で、光が点る。
透明のドームの中ではない。さらに奥。台座の内部。目では見えなかったはずの深さから、淡い光が湧き上がった。
穴は白い。昨日の残光をまだ噛んでいるような色。
光はそこへ吸い込まれ、反対に、地面の下から新しい脈がゆっくり立ち上がる。
ユウトは膝をついた。
痛みはなかった。
体は軽い。驚くほど軽い。
痛みがないことへ怯える余裕も、もうなかった。
視界の端で、ドームの内側の空気が歪んだ。
気温が一度だけ上がり、すぐに元へ戻る。
カプセルがゆっくりと、誰にも触れられていないのに転がり、出口へ向かって一直線に滑った。
流れだ。
下が目を覚ましたのではない。眠ったまま、夢の中で反応している。
そんなふうに、ユウトは思った。思ってしまうほど、心は静かだった。
「リナ」
初めて、声に出して呼んだ。
それでも世界は壊れなかった。
空は落ちず、広場は燃えず、穴は広がらなかった。
ただ、胸の袋が、ほんの少し重くなった気がしただけだ。
ユウトは、袋の上からそっと手を重ねた。
心臓の鼓動は戻らない。戻らないまま、体のどこかがまだ動いているのを、残された感覚が確かめる。
握った指のひらの皺、腕の内側の刻印の輪郭、喉の奥に残る灰の味、靴のかかとに挟まった小石の存在――そういう「小さいこと」だけが世界をつなぎ止めてくれた。
ガチャの奥の光が、強くなった。
白でも青でもない、温度のない光。
それは呼吸のように膨らみ、しぼみ、穴の白とゆっくり混ざった。
混ざって、また分かれ、輪になり、輪はまたほどけて筋になり、筋は台座の下へ降りていく。
ユウトは、その流れの向こう側に、たしかに何かを見た。
髪。
彼女の髪が、風に揺れるように。
笑い声はない。涙もない。
ただ、リナが、誰のものにもならない背中で立っている姿を。振り返らない。振り返らないまま、前へ歩いていく。その歩幅が、自分の歩幅とよく似ていて、ユウトは痛みの代わりに安心を覚えた。
体が、崩れはじめた。
崩れるといっても、砕けるのではない。眠りへ入る直前、指先から温度が落ちていく感じに近い。
足首が軽くなる。
膝がやわらぐ。
腰が緩み、胸がほどけ、肩がほどけ、首の後ろの強ばりが解けていく。
地面は遠のかず、逆に近づいてきた。
ユウトは恐怖を探したが、見つからなかった。
最後に見つけたのは、空の薄さと、雲の境い目のやわらかさと、朝の風が灰を撫でる音だけだった。
透明のドームの縁が、視界の端へ移動する。
その手前で、小さな心臓がまだ跳ねている。
ユウトは、落としていないと知って、安堵した。
「ごめん」
誰に向けたのか分からない言葉が、唇から零れた。
「ありがとう」
続けて出た言葉は、いつかノノが言った「味を薄くする」という努力とは逆の方向だった。
味は濃くなる。
濃くなって、根は満腹になる。
街は、少しだけ楽になる。
彼の体は、ゆっくりと台座の内部へ、光の方へ、吸い込まれていった。
翌日。
広場に新しいガチャが立っていた。
穴の縁から半歩離れて、真新しい台座は、夜のうちに誰かが磨いたのだろう、不要な傷をほとんど持っていなかった。ハンドルの軸はなだらかで、透明のドームは厚みを増し、内側には封印のような線が一本走っている。
朝日が差すと、ドームは薄く光を返した。
広場の端から、少し遅れて人々が現れた。
サワダは棒きれを肩に担ぎ、老女は籠を抱え、子どもたちは小声で競争をしてから、穴の縁で立ち止まり、看板の文字を指でなぞった。
ノノは、最後に姿を見せた。ワンピースは泥で新しい色を覚え、左の腕の布は少しだけほつれが増えている。彼女はまっすぐ台座の前に立ち、刻印のある前腕をそっと撫でた。
台座の前のプレートには、刻まれていた。
新しい線の彫りは浅く、しかしはっきりしている。
読むのに時間は要らなかった。
そこにあったのは、簡単な文字の列。
——ガチャNo.37:ユウト
声を上げたのは、老女だった。
「かわいい番号だねえ」
誰も返事をしない。
番号の意味を考える者、名前の意味を考える者、何も考えないように視線を落とす者。
サワダが、ゆっくり頷いた。
「回すなら、今じゃない」
「何も出ない期間は終わったのかい」
「終わってないかもしれない。終わったかもしれない。……“運”次第だ」
サワダの言い方は、少しだけひっかかりがあった。運という言葉が、以前のように容易く口から出てこないのだ。
ノノは、そっとドームに手を添えた。
中の空気は冷たく、音はしなかった。
彼女は目を閉じ、しばらく耳を澄ませ、それから、何も言わず手を離した。
広場に、少しだけ会話が戻った。
水の配り方を相談する声。穴の柵をどう補強するかの議論。子どもたちの背丈を比べる笑い。
太陽は少しずつ高くなり、灰に染み込んだ夜が完全に引いていく。
誰も、まだ回さなかった。
番号はそこにあり、名前はそこにあり、ハンドルはそこにある。
けれど、手は伸びない。
伸ばさないでいられる時間が、今はたしかにある。
それだけで、広場の空気は昨日までと別のものになった。
昼前、子どもが台座の前で立ち止まった。
母親が慌てて手を引く。
子どもは振り返らず、手の中の小石をこっそりカプセルの出口へ置いた。
石は音もなく転がり、出口の前で止まる。
母親は叱らなかった。
ノノは、その様子を見て、小さく笑った。笑うことをやめていたはずの口元が、ほんの少しだけ形を取り戻した。
彼女はプレートの文字に指を沿わせ、声に出さずに読み返す。
ユウト。
名前は、祈り。
祈りは、分け合える。
分け合うものが、もう一度、運だけでない何かになっていくことを、彼女は強くは望まなかった。ただ、薄く、ゆっくり、願った。
午後、雲が寄ってきた。
風の匂いが変わる。
遠くの高架の向こうで、鳩の群れが一瞬だけ輪になった。
ここではもう滅多に見ない光景に、老女が手を叩いた。
サワダが笑った。
子どもたちが走った。
穴の縁の看板に新しい板が継ぎ足され、文字は濃く塗り直された。
そのすべての時間の上で、ガチャは静かに立っていた。
回せば、“運”が出る。
そう刻まれたプレートの言葉を、誰も声に出さなかった。
声に出さずに、みんな、別の言葉を考えた。
回さなくても、分けられるもののこと。
順番じゃない順番のこと。
外れにならない外れのこと。
当たりでも外れでもないまま残る、誰かの髪の重さのこと。
夕方、ノノはもう一度、台座の前に立った。
前腕の布を少しめくる。刻印はまだ薄く熱い。
彼女は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
ハンドルへ手を伸ばしかけて、止めた。
手を引っ込め、代わりにプレートに指を添える。
「またね」
それだけ言って、背を向けた。
彼女の歩幅は小さいまま、でも、乱れていなかった。
夜が近づく。
空は薄紫に染まり、広場の角に残った街灯が、弱い光を点す。
ガチャの透明なドームは、わずかにその光を返す。
返した光は、穴の縁を照らし、白い円の内側に細い影を作った。
影は風に揺れ、まるでそこにまだ何かが呼吸しているように見えた。
呼吸の主は、もういない。
でも、呼吸の形は残る。
形が残るなら、明日、誰かがそれをなぞる。
指で、足で、声で。
その誰かの名前は、今はまだわからない。
わからないままで、いい。
夜の一番静かな時間、風がいったんやんだ。
ガチャの中で、カプセルがひとつ、音もなく転がった。
転がって、戻る。
戻って、止まる。
誰もそれを見ていない。
見ていないけれど、街のどこかで眠れない誰かが、胸に手を当てて、鼓動を数えている。
数えて、眠る。
眠って、朝を迎える。
朝、広場に新しい子どもの笑い声が落ちる。
それは「当たり」でも「外れ」でもない。
ただの、朝の音だ。
プレートの文字は夜露で濡れ、月の代わりの薄い灯りに滲んだ。
——ガチャNo.37:ユウト
その下に、小さな文字があることに、気づく者は少ない。
刻みは浅く、彫った者の手は迷っていた。
それでも刻まれている。
読もうとすれば、読める。
回せば、“運”が出る。
回さなくても、“朝”は来る。
灰の街の空に、鳥が二度ほど輪を書いて、夜は完全に降りた。
穴は静かに黒くなり、ガチャは透明なまま立っている。
立ったまま、誰かの名前を受け取り、誰かの名前を見送る場所になった。
ユウトの名は、そこで風に触れ、灰に触れ、朝に触れ、夜に触れ、やがてゆっくり街に溶けていく。
溶ける途中で、誰かの足音が通り過ぎる。
誰かはプレートに触れ、何も言わず、何も回さず、ただ歩いていった。
もう祈らないと決めた人にも、祈りは残る。
祈りはいつも、誰かの名前の形をしていて、呼ばなくても、そこにある。
呼んだときだけ、少しだけ温度を持って、胸の上でひらく。
その温度の分だけ、世界は伸びる。
伸びた分だけ、明日は来る。
明日は来て、誰かは回し、誰かは回さず、誰かは笑い、誰かは泣き、誰かは穴の縁で空を見上げる。
その全部が、もう「運」だけでは決まらないことを、この街はいつか思い出すだろう。
風がまた動き出した。
灰が夜の中で薄く舞い、ガチャのドームに触れて、すぐ落ちた。
ドームの内側で、目に見えないくらい小さな光が、一瞬だけ点った。
それは、誰にも気づかれず、誰にも説明されず、誰にも奪われないまま、すぐに消えた。
けれど、消えた光の跡だけが、確かにそこにあった。
【了】




