Track.42
そうだ。
俺、こいつと結構一緒にいたわ。
「なあ、ゴリよ。今日一限って……」
「んあ? 基礎ゼミだろ?」
「おお、そうだよな。実は時間割覚えてなくてさ。ちょっと早めに来たんだわ」
「まじかよハハハハ⤴」
人の少ない朝のキャンパスに、蝉の声とゴリの笑い声がやけに響く。
夏休み明けの九月は、こんな空気だった気がする。
「まあ、俺も何時に家出てたとか覚えてなくてさ。思ったより早く着いたわハハ⤴」
……よし。ついてる。
夏休み明けだ。多少ボケてても通せる。
これなら、二〇〇二年の大学二回生として紛れ込めそうだ。
「んん? するとお前、教科書とかは……?」
「あ、持ってきてないわ」
「おま……相変わらずぶっ飛んでんな〜ハハハハ⤴」
「ははは」
つられて笑う。
ええ。
俺って、ぶっ飛んでたっけ?
「そりゃ、全教科持ってくるか持ってこないかの二択なら、持ってこないしかねーべ」
「それもそうかハハ⤴」
そうして俺は、ゴリと並んで一限の教室へ向かった。
まだ人の少ないキャンパスに、ゴリの笑い声だけがやたらよく響いていた。
謎の「※教室は掲示板で確認」。
その正体は——文学部棟三号館の壁に設置された、ただの物理的な掲示板だった。
こんなの、覚えているわけがない。
……よし。
もうこうなったら、時間割を覚えてない体で通そう。
* * * * * *
そうして俺は、ゴリと並んで基礎ゼミの大講義室へ向かった。
教室はまだ人が少なく、前の方はがらがらだ。俺たちは真ん中より少し後ろ、端すぎず前すぎずの、なんとなく落ち着く席に腰を下ろした。
「いや~、助かったわ。ゴリがいなかったらたぶん文学部棟の周りずっとぐるぐるしてた」
「ハハハハ⤴ 一ノ瀬、そこまで方向音痴だったっけ?」
「いや、方向音痴っていうか……二十——いや、夏休み明けって感覚鈍るだろ」
「それはあるハハ」
そんな話をしながら、ゴリと夏休みのことをぽつぽつ話す。俺は相槌を打ちながら、こいつがどんな夏休みを過ごしていたのかを慎重に拾っていくしかない。うかつに深掘りすると、こっちの記憶の穴がバレる。
そのときだった。
「ちィ~~ッス」
気だるげな声とともに、一人の男が講義室に入ってきた。
茶髪のロン毛。財布のチェーンが歩くたびにしゃらつく。服装は俺と同じく、ちょい悪寄り。ぱっと見は完全に軽いタイプだが——
東 恭介。
見た目はチャラいのに、女子が苦手。しかも恋愛には妙なトラウマがあるらしく、女の子に話しかけられると一瞬だけ目が泳ぐ。見た目と中身のギャップが激しいやつだ。
「お、東」
「おいっす。なんだよ、お前ら早えな」
「一ノ瀬が迷子になりかけてたハハハハ⤴」
「は? マジで? 相変わらずじゃん」
「いや、相変わらずって何だよ」
つられて笑う。
東も俺たちの隣に腰を下ろし、自然と三人で夏休みの話になる。誰がバイトでやらかしたとか、誰が海で焼けすぎたとか、どうでもいい話ばかりなのに、妙に楽しい。
そのうち、講義室に入ってくる学生の数が少しずつ増えていった。
「おー! ゴリ、一ノ瀬、東! 久しぶり~~!」
「おー、3人ともそろってんじゃん」
「奏くん、おはよう」
「おー、久しぶり」
「おはよー」
適当に手を振り、話を合わせる。
……が。
やばい。
顔を見た瞬間に名前まで出てくるやつもいれば、顔は分かるのに名前が出てこないやつもいる。中には、笑顔で手を振ってくるのに——どなた? という人物までいた。
(いたっけ……?)
(こんなおっさんみたいなやつ、大学にいたっけ?)
(いや、いたんだろうな……たぶん)
適当に相槌を打ちながら、頭の中はわりと必死だった。
それでも。
思い出せないことのほうが多いくせに、こうして声をかけられていると、不思議と空気だけは身体が覚えている。
ああ、そうか。
俺——
大学生活、結構エンジョイしてたんだな。
* * * * * *
ざわついていた講義室の空気が、ふっと変わった。
入口のほうに目をやると、ひとりの初老の男性が教壇へ向かって歩いてくる。
そして——
トン。
壇上に上がる直前、一度だけ足を揃える。
(……出た)
山川ステップだ。
顔はぼんやりとしか思い出せなかったのに、この癖だけは妙にはっきり覚えていた。学生たちの間で勝手にそう呼ばれていた、どうでもいい仕草。教授本人はもちろん知らないだろう。
山川教授はそのまま教壇に立ち、出席簿を広げ、低い声で講義を始めた。
基礎ゼミ。
内容は、レポートの書き方だとか、文献の読み方だとか、大学での学び方の基本だとか——たぶん、そういうものだったと思う。
うん。
わからん。
いや、言葉はわかる。日本語だし、何を説明しているのかも一応は聞き取れている。
ただ。
聞いた瞬間に何か思い出せるのではないか、という淡い期待は、ものの数分で消えた。
……何も思い出せない。
(これ、単位取れるのか……?)
急に不安になってくる。
ノートを開いて、周囲を真似してペンを走らせる。左隣ではゴリが、妙に達筆な字で板書を写していた。見た目のわりに字がきれいなの、ずるいだろ。
時々、東がだるそうに足を投げ出しながらも、要点だけはきっちり押さえているのが視界の端に入る。
助かる。
この二人が同じ講義にいてくれるだけで、だいぶ救われる。
何もかも思い出せなくても、とりあえず今ここで浮いてはいない。たぶん。
そのあとの講義も、ゴリか東のどちらかが近くにいた。
教室を移動するときも、「次どこだっけ」と俺が口にする前に、ゴリが「ほら、こっち」と顎で示し、東が「お前ほんと危なっかしいな」と笑う。
……ありがたい。
こうして誰かの隣にいるだけで、二〇〇二年の大学二回生という立場に、少しずつ身体が馴染んでいく気がした。




