Track.40
翌朝。
起き上がろうとして、まず固まった。
……痛い。
太もも、ふくらはぎ、腹。背中まで重い。昨日使った筋肉が、律儀に全部主張している。
(四十二歳の俺は二、三日後に筋肉痛はやってきたのに)
(若いっていいなあ……いや、痛いけど)
階段を降りるたびに脚が笑う。
それでも、レッスンは始まる。
ウォームアップ。
ストレッチ。
昨日より、伸びない。
ただ固いだけじゃない。筋肉痛が可動域を奪っている。
アイソレーションで肩を回せば背中が軋み、腰を動かせば内ももが引きつる。
そして基礎ムーブ。
ボックスステップ。
右、前、左、後ろ。
昨日は最高で十六回。
今日は——五回。
六回目で崩れ、立て直そうとしてさらにもつれる。
足が、重い。
周りでは、もう次のステップに進んでいる。俺だけ、また隅で基本の繰り返し。
(なんで昨日より動かないんだよ)
悔しさを飲み込んだまま、レッスンは先へ進む。
課題曲。
音が流れた瞬間、空気が変わる。
サビの振り。
昨日は、手だけならなんとか形になった。
足だけでも、ぎこちないなりに踏めていた。
今日は——
足が、出ない。
出しているつもりなのに、ワンテンポ遅れる。リズムが半拍ずつズレていく。
(……なんでだよ)
昨日より、明らかに動けていない。
Bメロに入る。
足だけやってみる。
それすら、崩れる。
昨日はできたはずのステップが、途中で止まる。 太ももが重く、膝がわずかに震える。
(昨日は、できたんだぞ)
(手だけなら、足だけなら、なんとかなってた)
リズムが噛み合わない。
音は流れているのに、自分だけ取り残されている感覚。
周りは動いている。俺だけ、止まっている。
……リズムが噛み合わない。
(昨日、コーマもソラも残ってくれて、一緒に練習しただろ)
(少しは前に進んでるはずだろ)
(なのに、なんでどうして……)
身体が思うように動かない。焦れば焦るほど、固くなる。
情けなさと悔しさで、足先が震えた。
そのとき。
他の研究生に指示を飛ばしながら、AYA先生がこちらへ歩いてくる。
「……一ノ瀬君」
顔を上げると、いつの間にか目の前にAYA先生が立っていた。
「筋肉痛だね」
一発で言い当てられる。
「え、あ……はい」
「昨日ちゃんと使った証拠。悪いことじゃないよ」
そう言いながら、俺の足元を見て、軽くしゃがむ。
「今ね、痛いから守ろうとして、膝が外に逃げてる。だから半拍遅れる」
言われた瞬間、自分でも分かる。
「力、抜いて。痛いときほど固めない」
そう言って、足の向きをほんの少し直された。
「もう一回」
音に合わせて踏む。
さっきより、ズレない。
「……あ」
「昨日より悪く見えるのはね、身体が昨日の動きを覚えようとしてる途中だから。今は再構築してる段階」
再構築。
その言葉が、胸に落ちる。
「止まるより、軽く動かしたほうが回復は早いよ。今日は全力出す日じゃない。フォームを覚える日」
他の研究生に指示を飛ばしながら、さらっと続ける。
「水分ちゃんと取ってる? あとタンパク質。筋肉は材料ないと治らない」
「……あ」
「ストレッチも、伸ばしすぎない。痛いの我慢して無理に広げると逆効果。今日は、ほぐすくらいでいい」
立ち上がりながら、最後に一言。
「お風呂はぬるめで温めて。冷やしっぱなしは固まるよ」
そして、視線をまっすぐ向けて。
「痛いからってフォーム崩して覚えたら、あとで直すの倍かかる。そこだけは守って」
言い切る。
優しいのに、甘くない。
音がもう一度流れる。
さっきより、ほんの少しだけ足が揃う。
完璧じゃない。
でも——
止まってはいない。
* * * * * *
昼休憩。
食堂で向かい合った五十嵐くんが、俺のトレイを見て吹き出した。
「ハハハっ!それで、ザ・タンパク質なレパートリーなんだ」
鶏むね肉、ゆで卵、冷ややっこ、味噌汁。
我ながら極端だ。
「AYA先生が、タンパク質って」
「真面目だなあ」
笑いながら、五十嵐くんは自分の唐揚げを一つ俺の皿に置く。
「俺もさ、ダンス初日頑張りすぎて、次の日ボロボロだったわ」
「……やっぱそうなる?」
「なるなる。気合い入れすぎると逆にツケが来るって学んだ」
箸を動かしながら続ける。
「ちゃんと寝たほうがいい。ほんと、それだけで違う」
「寝るだけ?」
「うん。回復しないと身体固いまんまだし。あと柔軟は毎日ちょっとでいい。無理に伸ばさないで」
「そっか」
箸を動かしながら、さらっと続ける。
「痛いのは、昨日ちゃんとやった証拠じゃん。だから焦らなくていい」
軽く言うのに、妙に響く。
「俺さ、ダンスは経験者だったけど」
「そうなんだ」
「AYA先生の初日の自己紹介セッションの時はさ、真っ白になって、身体一ミリも動かなかった」
「……マジで?」
「マジマジ。頭真っ白でさ、地獄だったわ~」
肩をすくめて、苦笑する。
「同期の小学生は普通に踊れてんのに、俺だけ固まってんの。あれ、結構くるぞ?」
軽く笑い飛ばしてるけど、たぶん本気で悔しかったんだろう。
「でも一ノ瀬君、踊れたんだろ?」
「まあ……なんとか」
「それ、普通にすごいって」
さらっと言われて、箸が止まる。
「昨日のボーカルレッスンでもさ、一番声が前に出てたし」
「なんつーかさ、表現するの、怖がってないよな」
「え?」
「技術はあとからつく。でも前出られるやつは伸びる」
軽い口調なのに、妙に真っ直ぐだった。
俺はしばらく、ゆで卵を箸でつついたまま動けなかった。
(……前、出られるやつ)
そんなふうに言われたこと、あったか?
昨日からずっと、できないことばかり数えていた。
足が動かない。身体が固い。回数が伸びない。
でも。
できたことも、あったのかもしれない。
少なくとも、逃げなかった。
箸を持ち直す。
「……ありがとな」
「なにが?」
「いや、別に」
五十嵐くんは首を傾げてから、「フフッ」と笑った。
それだけで、さっきまで胸に張りついていた重さが、少しだけ軽くなっていた。
* * * * * *
午後のボーカルレッスンは、五十嵐くんと同じ初級クラス。
柔軟に入った瞬間、昨日よりいう事を聞かない身体が悲鳴を上げた。青木先生の視線が一瞬鋭くなった気がする。
だが。
発声練習に入ると、意外にも声が伸びる。
腹に力を入れる感覚が、昨日より分かる。
ダンスで使った体幹が、わずかに支えている。
(……あれ?)
課題曲を歌い終えたとき、昨日より手応えがあった。
土日のレッスン終了。
スタジオを出ようとしたところで、小学生たちに捕まる。
「ブー太郎!」
「かなでだじょ!」
「今日も固かったね!」
「なー、今日も練習して帰るの?」
好き勝手言われながら、なぜか笑っている自分がいる。
「……今日は帰るわ」
「えー!」
「サボり?」
「サボりじゃねえ」
笑いながら手を振る。
ルクスプロダクションの本社ビルを出た瞬間、むわっとした熱気が肌にまとわりついた。
夕方なのに、アスファルトはまだ昼の熱を抱え込んでいる。
風はぬるく、湿っていて。Tシャツが背中に張りつく。
五十嵐くんと並んで帰り道を歩き、他愛ない話をしながら駅へ向かう。
身体は痛い。
足は重い。
でも。
止まってはいない。
信号待ちの間、空がやけに広く見えた。
入道雲の残りかすみたいな白が、夕焼けに溶けている。
二〇〇二年九月一日、日曜日。
夏の終わり。
でも、俺にとっては始まりだ。
帰宅して、バッグを置いた瞬間、その事実が、じわりと現実味を帯びる。
明日から、大学の新学期。
二十年ぶりに、大学に通う。
(……マジか)
ダンスにボーカルに、大学生。
身体は十九歳。
中身は四十二歳。
新しい一週間が、もう始まろうとしている。




