Track.39
地獄は、そこからさらに三十分ほど続いた。
他の研究生たちは、とっくに別のステップに進んでいる。
にもかかわらず、俺だけがレッスンスタジオの隅で、延々と基本のボックスステップを踏み続けていた。
右、前、左、後ろ。順番は分かっているのに、回数を重ねるほど足が絡まり、集中が切れる。
最高で、十六回。そこを越えると、必ずどこかでリズムが崩れた。
時計を見るたび、心が折れそうになる。三十分もやったのに、まだこれか。
——そう思いかけて、ふと気づく。
……いや、違う。
ここまでは、ウォーミングアップだ。
その事実に気づいた瞬間、背筋が冷えた。
そして、いよいよ課題曲の振りつけに入る。
そう。
ここからがダンスレッスンの本番だった。
課題曲は、2000年代のルクスプロダクションの顔とも言える国民的アイドルグループ〈PRISM〉の『LastTime』。
ドラマ主題歌として大ヒットした曲だ。ミドルテンポで、切ないメロディ。
サビの振りなら、ぼんやりとは覚えている。……ただし、手だけ。足は一切ついてこない。
コンポから音が流れる。
「今日は、Bメロの振り付けね」
「その前に、復習でサビからいこっか」
Bメロに入る前のサビ。
AYA先生と研究生たちが、一斉に踊り出す。完璧に揃っているわけじゃない。それでも、全員が踊っている人間の動きだった。
流れがあり、余裕があり、何より音に乗っている。
俺は、足を固定したまま、手の動きだけを必死でなぞった。
そして、Bメロ。
空気が変わる。
AYA先生の動きは、しなやかで、それでいてキレがある。ひとつひとつの動作が音と噛み合っていて、見ているだけで引き込まれる。
曲が一度止まり、振り付けが分解されていく。
足だけなら、なんとか。
手だけでも、遅れながらついていける。
……両方?
無理だった。
足と手を同時にやろうとした瞬間、思考が追いつかなくなる。どっちを優先するか迷った時点で、身体が止まる。
「一ノ瀬君、まずは足だけやってみよっか」
先生はさりげなく、逃げ道を作ってくれる。
ありがたい。
「タタターン、タンターン」
リズムに合わせて、ステップだけを踏む。何度も聴いたことのある曲だ。
さっきまでの、ひたすら繰り返すボックスステップより、明らかに身体が動いている感覚があった。
息が上がる。
もちろん、他の研究生と比べれば固いし、ぎこちない。
それでも。
曲に合わせて踊る。
その感覚が、少しだけ楽しいと思えた。
——こんなふうに感じたのは、たぶん初めてだった。
振り付けの練習時間は、驚くほどあっという間に過ぎた。
「OK! 今日の振り付け、覚えておいてね。じゃあ最後、クールダウン!」
ストレッチが始まり、研究生たちが一斉に身体をほぐす。
「はい、お疲れ様! 今日はここまで!」
「ありがとうございました!」
——終わった。
そう思った瞬間、膝が震えた。次の一歩が出ず、その場に座り込む。
気づけば、帽子少年——コーマと、ソラをはじめとした小学生たちが集まってきていた。
「ブー太郎!」
「だじょっぷ、だいじょーぶ?」
「なんで身体、曲がらないのー?」
「汗すごい!」
「最初のダンス、もう一回踊って!」
「ぜーぜーいってる!」
そして、少し首をかしげたまま、素朴な疑問が飛んでくる。
「ねえ、なんで大人なのに踊れないの?」
——やめろ。
正論を、そんな無邪気な顔で投げてくるな。
質問というより、もう実況だ。
四方八方から声を浴びせられ、俺は完全に包囲される。
立ち上がろうとしても膝が言うことを聞かず、そのまま床に座り込んだ。
さらに一人、マイクを持つ真似をして、俺の前に手を突き出してくる子がいた。
「感想は?」
「……疲れた。もう、無理」
それだけ答えて、仰向けにひっくり返る。
ゼーゼーと息をする間も、小学生たちは「やっぱり!」「死んでる!」だの、好き勝手に言っていた。
「お疲れさま〜」
ふいに、頭上から大人の声。
驚いて身体を起こすと、小学生たちに混じってAYA先生が覗き込んでいた。
「わっ……お疲れ様です!」
「あはは。そのままでいいよ。
一ノ瀬君、ダンス経験ないんだっけ?」
「はい。全然、ついていけなくて……」
「でも、あの自己紹介ダンス、様になってたよ。相当練習したんじゃない?」
「まあ……それなりに」
「うん。あの場面で固まっちゃう子も多いからね。度胸あるし、リズム感もいい」
「え? 俺、ボロボロでしたけど」
「はは。柔軟とかストレッチとかステップはね」
——全部じゃないか、と心の中で突っ込む。
「でもね、曲がかかったら自然と身体が音を拾ってた。ダンスって、体幹とか柔軟性も大事だけど、同じくらいリズム感とか表現力も必要なの」
「君は、先に音を拾うタイプ。身体が固くてついていけないだけ」
静かに、でもはっきり言ってくれる。
「努力は必要だけど、踊れるようになるよ。頑張ろ。
自主練したいなら、十七時までスタジオ空いてるから。残って練習してもいいよ」
そう言ってから、AYA先生は少し考えるように首を傾げた。
「君は……曲をかけながらのほうが良さそうだね。MDプレイヤーとか、持ってきてもいいし」
今日の俺を、ちゃんと見てくれた上での言葉だった。
「じゃあ、また明日ね」
AYA先生は手を振って、去っていく。
「AYA先生、ばいばーい!」
小学生たちの声が響く。
囲まれたまま、俺は息を整えながら立ち上がった。
「……よし。ちょっと、練習するわ」
気づいたら、そう口に出ていた。
一瞬、空気が止まる。
先に動いたのは、コーマだった。
ちらっと時計を見て、ほんの一拍だけ考えるような間があって——
「……じゃあ、俺も」
それだけ言って、何事もなかったみたいに隣へ来る。
「さっきのとこな。ここはこう踏む」
自分が踊るついで、みたいな顔で、ゆっくり足運びを見せてくれた。
教える、というより、横で一緒に動いてくれる感じだ。
その様子を見て、ソラも小さく頷く。
「じゃあ、ぼくも」
自然に輪に加わって、
「ぼくも最初は全然できなかったよ」と、さらっと言った。
その流れで、ソラがポケットから小さなMDプレイヤーを取り出す。
「ぶーさん、今日持ってきてないんでしょ? これ、使っていいよ」
「……いいの?」
「うん。AYA先生、曲かけながらのほうがいいって言ってたし」
なんてことないみたいに言うけど、鼻血ブーのときにピ〇チュウ柄のティッシュをくれたのといい、
なんだこの子。優しさの塊か。
(……いい子たちだな)
年下で、しかも小学生だけど先輩で。
なのに、誰も偉ぶらず、置いていかず、当たり前みたいに隣にいる。
気づかないうちに、呼吸が少し楽になっていた。
そのとき、ふと引っかかる。
(……あれ?)
コーマとソラ。
この二人、どこかで見たことがある。
帽子を斜めに被って、悪ガキみたいに笑うコーマ。
その横で、柔らかく微笑っているソラ。
——ハッとした。
(……黎明RUSHの)
2025年の未来で、ルクスプロを牽引する兄貴分のグループ。
テレビで何度も見た、あの二人だった。
桐生 光磨。
今はただの生意気な小学生にしか見えないけど、10年後には驚くほど垢抜けて、
ダンスもラップもキレッキレで、バラエティでも引っ張りだこになる男。
南雲 空。
小さいころから変わらない。
穏やかで、人の痛みに自然と気づける子だ。
歌声には芯があり、聴く者を包み込む温かさを持つ黎明RUSHのメインボーカル。
将来は俳優業やナレーションでも活躍し、「声で物語を作る男」として称される。
(……俺、今)
(未来のスター二人に、ダンス教わってるのか)
レッスン初日。
ボロボロで、情けなくて、身体は全然言うことを聞かない。
でも。
(……悪くない)
MDプレイヤーから流れる音に合わせて、もう一度、足を出す。
今はまだ、ついていけなくても。
ここから、だ。




