Track.38
ダンスレッスンはウォームアップから始まった。
午前中のヴォーカルレッスン、青木先生のところでも、容赦ない柔軟はやってきた。
だから正直、ストレッチには多少の耐性がついたつもりでいた。つもり、でしかなかったが。
最初は、ターン、タン、タタタン、という軽い足踏みから始まる。
(……あれ?)
(これ、いけるんじゃね?)
そう思った数秒前の自分を、全力で殴りたい。
やっぱり身体が固い人間にとって、ストレッチは問答無用でしんどい。筋肉というより、心が先に悲鳴を上げる。
ただ、AYA先生は青木先生とは全然タイプが違った。
立ち位置や、今やっている動きの意味、次に何をするのかを、流れを止めずにさりげなく教えてくれる。
そのおかげで、俺は妙な置いていかれ感を覚えずに済んでいた。
だが。腿の裏、股関節、背中。どこを伸ばしても、伸びない。いや、伸びてはいるはずなのに、身体がそれを拒否している。
「お腹に、グッと力入れてー」
AYA先生の声が、すっと飛んでくる。
言われた通りに意識すると、ほんの少しだけ可動域が増えた気がした。
(……お?)
(いつもより、伸びてる?)
(AYA先生、的確すぎない??)
ちょっとした成功体験に、内心テンションが上がる。
なお、客観的に見れば、他の研究生と比べて、俺の身体は相変わらずダントツで固い。できてるつもりになっているのは、俺だけだ。
次は、アイソレーションと呼ばれる基礎練習に入った。
首、肩、胸、腰を、順番に「そこだけ」動かしていくらしい。
……らしい、というのは、俺にはその「そこだけ」がさっぱり分からなかったからだ。
ぎこちないながらも、真似はできている。たぶん、なんとか。
問題は、そのあとだった。
「軽い筋トレ」と言われたそれは、俺にとっては全然軽くなかった。腹筋。プランク。体幹。
「ワン、トゥー、スリー」
AYA先生のカウントに合わせて、周りの研究生たちは当たり前みたいに身体を上下させている。
小学生組に至っては、余裕の顔だ。……なんで? さっきまで一緒にアイソレーションやってたよな? 身体の構造、俺と違わない?
俺はというと、一回もできない。
渾身の力を込めても、結果は「微動だにせず」。
プランクに至っては、形に入った瞬間から全身がプルプル震え、三秒ももたずに崩れ落ちた。
ざわ、と小さく空気が揺れる。
視線が集まるのが、分かる。分かるけど、どうにもならない。やってる。俺はちゃんと、やってるんだ。
そんな俺の横に、影が差した。
「一ノ瀬君」
顔を上げると、AYA先生が、しゃがんで目線を合わせてくれていた。
声はいつも通り軽くて、責める色は一切ない。
「膝ついて、やろっか」
それは「できてないよ」という指摘じゃなくて、「続けよう」という提案だった。
妥協、というより救済に近い。
「……はい」
膝をつくと、さっきより少しだけ身体が安定する。
完全にできているとは言えない。でも、ゼロではない。
「うん、そのまま。お腹、軽く締めて」
言われた通りに力を入れると、不思議と崩れにくくなった。
たったそれだけで? と思う反面、今まで俺は何を使って身体を支えていたんだ、とも思う。
周りでは、また「ワン、トゥー」とカウントが進んでいく。
俺は俺の場所で、俺なりに必死だった。
——軽い筋トレ、という言葉を、俺はもう二度と信じない。
そして、基礎ムーブとステップに入った。
基本のボックスステップ。
右、前、左、後ろ。
言葉にすればたったそれだけなのに、実際にやると脳と足が完全に別行動を始める。
右足を出した瞬間に「次どっちだ?」と考えた時点で、もう遅い。足は止まり、リズムは外れ、俺だけワンテンポずつズレていく。
周りを見ると、他の研究生たちは、当たり前みたいな顔で同じ動きを繰り返しながら、少しずつスピードを上げている。
そんな中、俺はと言うと案の定、足はもつれるし、方向は迷子になるしで、完全に取り残された。
そのときだった。
「一ノ瀬君」
また、AYA先生だ。
他の研究生たちが動いている間に、先生はさっと紙を一枚取り出して、ペンで何かを書き始めた。
「これね」
差し出された紙には、四角い枠と矢印。
右足、左足、番号付きで、順番が一目で分かるように描かれている。
「この通りに、順番だけ意識してやってみよっか」
言われた通り、紙を見ながら足を動かす。
右。
前。
左。
後ろ。
……あ。
いける。
さっきまでとは比べものにならないくらい、動きが繋がった。
リズムも、完全じゃないけど、ちゃんと音に乗っている感覚がある。
「そうそう! 今の感じ!」
褒められて、調子に乗る。
同じ動きを繰り返す。五回、六回、七回……十回目あたりで、突然、脳がバグった。
次どっちだっけ? と考えた瞬間、足が絡まり、危うく転びそうになる。
それでも、最初よりは明らかにできていた。
——いや、待て。
これ、教え方が上手すぎるだけでは?
頭で理解できる形にして、身体に落とし込ませる。できない前提で、ちゃんと導いてくれる。
さっきの筋トレのときもそうだったけど、無理なところは無理だと判断して、続けられる形に変えてくれる。
改めて思う。
AYA先生、教えるの、うますぎる。
……そして同時に、
それでもついていけていない自分の現実も、しっかり突きつけられていた。
息が上がり、脚が笑い、時間の感覚が壊れていく。まだ始まったばかりだというのに、すでに全身が悲鳴を上げていた。
——ダンスレッスン初日。
ここからが、本当の意味でのスタートだった。




