Track.33
講師――青木先生の視線が、完全に俺にロックオンされた。
逃げ場ゼロ。
言い訳不可。
ブー太郎、人生終了のお知らせ。
反射的に、体が動いた。
「失礼しましたっ!!」
九十度。
考えるより先に、腰が折れていた。
(やばい……)
(ここで印象最悪は、マジで洒落にならない)
初級・中級・上級。
歌唱やダンスクラスの昇格は、すべて講師判断。
つまり――
目をつけられたら、終わりだ。
最悪の未来だけは、どうしても避けたかった。
スタジオ内は、水を打ったように静まり返っていた。
さっきまで床を転げ回っていた小学生たちも、嘘みたいに背筋を伸ばしている。
青木先生は、俺を一瞥したまま、低い声で言った。
「……一ノ瀬奏」
「は、はいっ!」
反射で返事をした。
声、ちょっと裏返った気がする。
「今日から入った研究生だな」
「はい! 本日からよろしくお願いします!」
もう一度、頭を下げる。
さっきより声量は抑えめ。学習能力。
青木先生は、ふうっと小さく息を吐いた。
「……なるほど」
なるほど、とは。
怒ってるのか。
呆れてるのか。
それとも、もうどうでもいいのか。
どれにしても、怖い。
ゴクリ、と喉が鳴った――その時だった。
「すみません! 遅れました!」
勢いよく、スタジオの扉が開く。
入ってきたのは、一人の少年。
……明らかに、小学生でも中学生でもない。
(高校生……くらいか?)
明るい茶髪。
整った顔立ち。
どこか垢抜けた雰囲気。
(……あれ?)
どこかで、見たことがある。
いや、何度も――
「……五十嵐」
青木先生の声が、ぴしりと飛ぶ。
「遅刻だ。気を引き締めろ」
——五十嵐。
(五十嵐……!?)
脳内のピースが、一気にはまった。
(あ……!!)
少しあどけなさの残る顔立ち。
それでいて、完成されている空気。
間違いない。
朝倉レンと同じグループ。
ALIVEの——五十嵐塁だ。
さっきまで俺に向けられかけていた鋭い視線が、
そのまま五十嵐くんへと移る。
(……助かった)
正直、ほっとした。
今だけは、心の底から。
青木先生が遅刻について短く釘を刺し、
それから、淡々と告げる。
「……じゃあ、始めるぞ。まずは、柔軟から」
——まずは、柔軟。
(……え?)
発声練習からだと思い込んでいた俺は、完全に油断していた。
(やばい……)
説明もほとんどないまま、小学生たちがパタパタと所定の位置に散っていく。
迷いがない。どうやら、これが日常らしい。
俺は状況を飲み込めないまま、空いていた一番後ろのスペースへ移動した。
とりあえず、見よう見まねで同じ動きをする。
「いくぞー。まずは肩のストレッチから。はい!」
パン!と手を叩く音。
(え、もう始まった!?)
先生の号令と同時に、全員が一斉に腕を上げ、体を傾ける。
ワンテンポ遅れてた俺は、すでにズレていた。
「……はい、戻して。次、開脚」
パン!
(ちょ、急すぎない!?)
(説明とか……ないの!?)
内心ツッコミを入れながら、必死に足を開く。
「——はい、座って。次は前屈」
また一斉に動く。
当然、俺だけ遅れる。
(やば……完全に浮いてる……)
(これ、もう目つけられてるよな……?)
そんな不安がよぎった、その瞬間。
「——一ノ瀬」
低い声。
青木先生が、こちらへ歩いてくる。
(え、今!?)
(今来る!?)
「真面目にやらんか!!」
「は、はいっ!!」
いや、真面目に前屈しているんですけど!?
——ただし。
小学生たちは、柔らかさに差こそあれ、
ちゃんと前屈の形になっている。
五十嵐くんはというと、
上半身がそのまま脚にくっつきそうなくらい、余裕のある姿勢だ。
……それに対して俺は。
前屈というより、ほぼ「座って前に手を伸ばしている人」だった。
横から見たら、たぶんカタカナの「ヒ」。
(……誰か、これに正式名称つけてくれ)
そう思った――次の瞬間だった。
「ふざけてるのか!」
——グキィッ!!
「ギャシャーッ!!」
青木先生に背中を容赦なく押され、
自分でも何の声かわからない悲鳴が、スタジオに響いた。
一瞬の静寂。
次の瞬間——
「今の、ギャ〇ドスじゃん!!」
「ギャシャーって言った!!」
「やばwww」
小学生たちが一斉に吹き出す。
(ちがう)
(今のは断じて狙ってない)
(純度100%の悲鳴だ)
ストレッチとは名ばかりの、ほぼ拷問。
(ま、待って……!)
(俺、柔軟って準備運動だと思ってたんだけど!?)
じわじわと背中と太ももに走る激痛に、視界がにじむ。
顔を上げると、
青木先生がこちらを見下ろしていた。
怪訝そうに、眉をひそめている。
「……どうした」
「す、すみません……」
息を整えながら、必死に口を開く。
「これが……限界なんです……」
一瞬の沈黙。
青木先生は、信じられないものを見るような顔をした。
「……は?」
短い一言。
それだけで、十分だった。
(あ……)
(これ、冗談だと思われてる?)
青木先生は、俺の体勢をもう一度だけ確認してから、
低い声で言った。
「……準備運動で、限界?」
それ以上は何も言わなかった。
ただ、視線だけが、やけに重い。
——歌唱なら、自信があると思っていた。
けれど、その前段階で、すでにこれだ。
(……中級クラスに上がる未来)
(まったく見えないんだが……)
俺のアイドル人生は、どうやら——
柔軟からして、前途多難らしい。




