Track.32
次の日。午前十時前。
俺は、ルクスプロダクション本社ビル十階にあるボーカルスタジオへ向かっていた。
エレベーターを降り、廊下を歩きながら、
ポケットの中の仕事用携帯を取り出す。
……昨日も確認したけどな。
でも、念のため。
画面を操作すると、研究生用の掲示板が表示された。
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【本日のスケジュール】
10:00〜 歌唱レッスン(初級クラス)
場所:10F ボーカルスタジオA
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(……そうだ)
歌もダンスも、レッスンはクラス制。
俺は今、そのいちばん下――初級クラスにいる。
昨日、美央さんから聞いた説明が、頭の中によみがえった。
初級・中級・上級。
歌唱もダンスも仕組みは同じで、
クラスが上がるほど、デビューに近づいていく。
初級は、基礎を叩き込まれる段階。
まだ育成中扱いで、原則としてデビュー候補には入らない。
中級に上がって、ようやくデビュー候補に名前が挙がる。
ここからが、いわゆるデビュー予備軍。
上級は、完全にプロ基準。
すでにデビューしている組や、
デビュー目前の研究生が多く在籍しているらしい。
(つまり……)
初級クラスにいるまま、
デビューまで辿り着くケースは、ほぼゼロ。
実力があれば、いずれ必ずクラスは上がる。
上がれなければ――
どれだけ足掻いても、デビュー候補としては見られない。
(俺は、まだスタートラインにも立ってない側ってことか)
……でも。
歌なら。
正直に言ってしまえば、歌唱レッスンはそこまで怖くない。
インディーズとはいえ、プロの現場でボーカルをしていた俺だ。
場数は踏んでいるし、音程も、リズムも、表現も。
——そこに関しては、はっきりと自信がある。
(午前中の歌唱は……いける)
問題は、その先だ。
午後からの——ダンス。
頭の中で、ステップを思い浮かべてみる。
……が、何も浮かばない。
身体がどう動くのか、想像すらできなかった。
(ダンスで中級に上がる未来ビジョン……
……まったく見えねぇ)
歌で評価されても、ダンスが足を引っ張れば意味がない。
どちらも揃って、はじめて「次」に進める世界だ。
(……ほんと、甘くない)
でも。
だからこそ——
ここが、本当のスタートなんだ。
視線を上げると、ガラス越しにスタジオの中が見えた。
思っていた以上に広い。
天井は高く、壁一面が鏡張り。
マイクスタンドや譜面台が整然と並び、
吸音パネルが貼られた、いかにも「プロ仕様」の空間だ。
(……うわ)
(ここ、完全に現場じゃん)
ライブハウスやスタジオには散々立ってきたはずなのに、
空気が違うだけで、こうも緊張するものか。
ボーカルスタジオの扉を開けると、
すでに十数名ほどの研究生が集まっていた。
——小さい。
一瞬、そう思った。
背も、声も、雰囲気も。
ほとんどが小学生……多く見積もっても、中学生くらいだ。
ストレッチをしている子。
床に座って談笑している子。
水筒を抱えて、きょろきょろしている子。
(……マジか)
鏡張りのスタジオに映る自分が、やけに浮いて見える。
身長も体格も、明らかに一回り大きい。
(四十二年分の人生を積んだ十九歳が、
小学生に混じって基礎から、か……)
胸の奥に、言葉にできない違和感が込み上げた。
恥ずかしさ。
居心地の悪さ。
そして——逃げ場のない現実。
それでも、目は逸らさなかった。
——ここが、俺のスタート地点だ。
年齢も体格も、ここでは関係ない。
今日から入った俺は、間違いなく一番の後輩だ。
大事なのは、順番と立ち位置。
そして——最初の一歩。
俺は腹をくくって、一歩前に出た。
「一ノ瀬奏です! 本日からよろしくお願いします!」
——しーーーん。
スタジオの空気が凍った。
(あ、やった? 声デカすぎた?)
(挨拶……いらなかった?いや、いるよね……?)
その沈黙を、破ったのは——
「あーーーーーー!! ブー太郎!!」
甲高い声が飛んだ瞬間、
スタジオの空気が、ぴたりと止まった。
「……え?」
「ブー太郎って?」
「誰?」
「あのおじさん……?」
小学生たちの間に、ざわざわとした波紋が広がる。
視線が一斉に、俺に集まった。
「誰がブー太郎だブー!!」
俺は即座に返した。
「おじさんじゃないブー」
「一ノ瀬奏だじょ」
とにかく全力で、ブー太郎に乗っかる。
一瞬の間。
それから——
スタジオが、爆発した。
小学生たちが腹を抱えてギャハハハ!と、笑い転げ、
床にしゃがみ込み、息もできないほど笑っている子もいる。
「ブー太郎wwwやばいww!」
「奏だじょ! だってww!」
「ブー!!ww」
……収拾、つかねぇ。
——ちなみに。
このブー太郎の声真似は、
俺の中では「小学生向け物真似レパートリー」の鉄板ネタである。
姉貴の子ども。
友人の子ども。
親戚一同の集まり。
気づけば、何十人ものキッズを相手にしてきた。
この手の年齢層への対応力に関しては、正直アリ寄りのアリだ。
(俺に、死角はない)
……ただし。
ここが芸能事務所のレッスンスタジオでなければ、の話だが。
そんな中で、
俺の脳内では、さっきの声がリフレインしていた。
――ブー太郎。
あの甲高い声。デジャヴどころじゃない。
(前に俺が——
トイレで鼻血出してたときに遭遇した……)
視線をやると、
案の定、そこにいたのは——
後ろ向きキャップの、あの少年だった。
すぐ隣に、もう一人いることにも気づいた。
トイレで出会った、落ち着いたほうの少年——
ピ〇チュウ柄のティッシュをくれた、あの子だ。
(あ……)
(あの二人、レッスンに遅れるとか言ってたよな)
脳内の点と点が、ようやく線になる。
(そうか。研究生だったのか、あの連れション少年ズ……)
その瞬間——
バーンッ!!
スタジオの扉が、勢いよく開いた。
「一体、何の騒ぎだ!? 静かにしないか!!」
低く、よく通る声。
その一声だけで、さっきまでの喧騒が嘘みたいに消えた。
空気が、ピンと張り詰める。
入ってきたのは、四十代くらいの男だった。
短く整えられた黒髪。
無駄のないシャツとスラックス。
がっしりした体格に、背筋はぴんと伸びている。
表情は厳しく、目つきは鋭い。
(……あ、これ絶対、講師だ)
間違いない。
昨日、美央さんが言っていた——
“厳しいけれど、実力を必ず引き出してくれる人”。
ボーカル講師、青木先生。
先生はスタジオ全体を見渡し、鋭い視線を巡らせた。
研究生たちは、ぴたりと動きを止めている。
水を打ったような静けさ。
……の、はずだった。
「ブー太郎が笑かしてきたじょww」
——小さな声。
キャップ少年が、隣に聞こえるか聞こえないかくらいの音量で、こそこそ言った。
(おい。やめろ)
(それ以上、波紋を広げるな)
……が。
「先生~~!! ブー太郎が笑かして来ました!!」
次の瞬間、スタジオに響き渡る元気な声。
——あろうことか。
小学生のひとりが、俺をビシッと指さした。
(ば、ばかっ!!)
(あの野郎チクりやがった!!!)
心の中で叫ぶ間もなく、
「そうそう、ブー太郎のせいだー!」
「ブーブー!」
次々と、乗っかる声。
おい。
やめろ。
ここは芸能事務所のレッスンスタジオだぞ。
終わりの会じゃないブー。
そして——
講師の視線が、ゆっくりとこちらに向いた。
鋭い。
重い。
逃げ場がない。
(……やっば)
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
(これ……第一印象、最悪じゃね?)




