Track.27
2002年8月30日(金)――
夏の空気が、まだ少しだけ街の隅に残っていた。
蝉の声が遠くでくぐもり、アスファルトの照り返しも、昨日よりいくらかやわらいでいる。
都心のガラス街。その真ん中にそびえる、ルクスプロダクション本社。
青空を映す外壁はまぶしく、ビルの上階が見えないほど高い。
三度目の来社だった。
けれど、前の二回とはまったく違う。
前はただのゲスト。
今日から——俺も、ルクスプロダクションの所属タレントだ。
受付で名前を伝えると、奥から美央さんが姿を現した。
肩から薄手の赤いニットカーディガンをかけ、
中にはベージュのノースリーブブラウス。
動くたびに、袖の間から白い二の腕がちらりと覗く。
控えめなのに、やけに目を引いた。
(……やっぱ、綺麗だな)
髪はすっきりと後ろでまとめられ、耳元の小さなピアスが光を受けて揺れる。
どこを切り取っても絵になる人だと思う。
——けど、あの白Tのようなピッチリした服は、もう二度と見ていない。
あの日、俺が「でっかい大福……」とか口走ってしまったせいで、
彼女は二度と豊満な胸の形がはっきりわかる服を着なくなった。
(……絶対そうだ。俺対策で……)
思い出すだけで頭を抱えたくなる。
俺の視線に気づいたのか、美央さんはふっと肩にかけた赤いカーディガンを引き寄せた。
(ちょ、まって……! いま俺、見てた? いや、そんなつもりじゃ……!)
(やばい、また変態認定されてるかもしれない!)
顔が一気に熱くなる。
そんな俺の挙動不審っぷりをよそに、美央さんは何事もなかったように、
落ち着いた声で言った。
「おはようございます、一ノ瀬くん」
「お、おはようございます!」
「緊張しなくていいの。今日はオリエンテーションと社内案内だけだから」
優しく微笑むその仕草に、また胸の鼓動が跳ねた。
「ハ、ハイッ!」
「じゃあ、これ社員証ね」
彼女が差し出したのは、首から下げるタイプのカードホルダーだった。
白地に黒文字で【GUEST】と印字された仮の社員証。
「今はゲスト用のものだけど、一ノ瀬くん専用のカードが出来たら切り替えてもらうわ」
「あ、ありがとうございます!」
「これで、ゲートを通れるから。——ついて来て?」
美央さんの言葉にうなずき、俺も彼女のあとを追って歩き出した。
ロビーの奥には、奇妙な装置がいくつも並んでいた。
胸の高さほどの金属製の柱がいくつも並び、その間には銀色のバー。
一昔前の空港の搭乗ゲートみたいに、社員証を差し込むとバーが横に回転して通れる仕組みになっている。
(……なんだこれ)
初めて見る形状の入場ゲートに、思わず足を止めた。
2025年なら、改札機のようなゲートをタッチ式のICカードで通るのが主流だ。
けれど、2002年ではこれが最先端だったのだろう。
無駄にメカメカしくて、いかにも「ハイテク企業」という感じがする。
美央さんは慣れた手つきでカードを差し込み、バーがカチリと音を立てて開く。
颯爽と通過するその姿が、またやたら格好よく見えた。
(なるほど。ああやってスマートに行けばいいのか)
俺も真似して、颯爽とカードを差し込んだ——
……つもりだったが、カードが通らない。
「あ、あれ?」
差し込み口をのぞき込もうとして、少しかがんだその瞬間——
ガンッ!!
バーが自動で戻ってきて、鈍い衝撃が体の芯にクリティカルヒットした。
「ぐ……ぅ……!!」
立っていられず、その場にしゃがみ込む。
息がうまく吸えない。
脂汗が額をつたい、顔から血の気が引いていくのが自分でもわかった。
「一ノ瀬くん!? ちょっと、しっかりして!」
美央さんが慌てて駆け寄る。
その声は、さっきまでの落ち着いたトーンとはまるで違っていた。
「顔が真っ青よ……どこか、ひどく打ったの!?」
声を返そうにも、喉が変な音しか出ない。
まさか……俺の、俺にヒットするとは……!
このバー、なんという手練れ!!
半泣きになりながら、かろうじて声を出す。
「…………だ、だいじょうぶです…………たぶん……」
「どこを打ったの!?」
「えっ」
「え?」
「その……あの……男として……かなり……核心部分を……」
なんという生き地獄。
美央さんにこんな説明をしないといけないなんて……。
「っ——!?」
美央さんの顔が、一瞬で真っ赤になる。
「ちょ、ちょっと待って! いま係員——」
「やめてください! お願いします、俺の尊厳が死にます!」
ロビーのあちこちからくすくす笑い声が聞こえたような気がした。
俺はうずくまったまま、顔から火が出そうになる。
……初出勤、開始五分で、人生最大の痛恨打だった。
* * * * * *
それから——、たぶん五分は経った。
俺はまだうずくまったままで、周りを通る社員たちがちらちらとこちらを見ていく。
何人かは心配そうに声をかけてくれた。
「だ、大丈夫ですか? 救急車——」
「あの、救護室——」
そのたびに、美央さんがすぐさま答えてくれた。
「大丈夫です。……少し、バーと格闘しただけなので」
その冷静な対応が、逆にいたたまれない。
顔から火が出そうだった。
やっと痛みが落ち着いてきて、俺はふらつきながら立ち上がる。
「あ。……なんとか行けそう、です」
「ほんとに? 無理しないで」
「お騒がせしました……」
頭を下げて、再びゲートの前に立つ。
美央さんが、少し柔らかく笑った。
「じゃあ——バーがちゃんと閉まってから、ここに社員証を入れてね?」
まるで小学生に教えるみたいに、ゆっくりと丁寧に説明してくれる。
その口調が優しすぎて、余計に恥ずかしい。
今度こそ慎重にカードを差し込み、バーが開くのを確認してから一歩を踏み出した。
通過の瞬間、美央さんが「はい、どうぞ」と軽く手を伸ばしてくれて、
反射的にその手を取った。
柔らかく、温かい。
たったそれだけの動作なのに、胸の奥がドキッと跳ねた。
(やばい……また変な汗出てきた……)
(いや、待て。これは汗じゃない。尊さに心が融けてるだけだ……)
(変態の俺にも優しくしてくれる美央さん……マジ女神……!)
一瞬、脳内で後光が差して見えた。
「……行くわよ、一ノ瀬くん」
「ハッ! はいっ!」
その声でようやく現実に引き戻され、俺は慌てて歩き出した。
* * * * * *
ゲートを抜けると、空気が変わった。
外のざわめきが一気に遠のき、代わりにエアコンの低い風の音が耳に残る。
広い廊下の壁には、所属タレントたちのポスターがずらりと並んでいた。
国民的アイドルPRISM。
それに続くトップアイドルLINK5。
そして、勢いに乗る若手ユニットDUEL。
どのグループも、いわばルクスの顔。
テレビで見ない日はない、まさに芸能界の王者たちだった。
その下には、新人グループの写真も掲示されている。
A、L、B……ZERO、SPLASH、み組……?
耳馴染みのないグループ名もあるが、顔ぶれを見ると、見覚えのあるメンバーがちらほらいる。
(そうか。グループって、最初に組んでもそのままデビューできるわけじゃないんだ)
(別のユニットに移ったり、合体したり、解散したり……。そうやって少しずつ“最適な形”を探していく)
アイドルグループ界のあるあるだ。
だけど、こうしてポスターや写真を眺めていると、その一枚一枚の裏に——
無数の努力や涙が積み重なっていることが、妙に実感できた。
この頃はまだ、研究生の誰もが自分の席を探していた時期。
俺も——その中に入るんだ。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
「この奥が新人研修室よ。今日はオリエンテーションと、社内のルール説明がメインになるわ」
「オリエンテーションって……俺、一人ですよね?」
「そう。普通はオーディションで選ばれた同期が数名~十名ほどまとめて入所するんだけど、
一ノ瀬くんは社長のスカウト枠だから、特別に個別オリエンテーションになってるの」
「と、特別……」
(響きだけ聞くとカッコいいけど、要は“ぼっちスタート”ってことだよな)
美央さんが立ち止まり、振り返る。
「——ようこそ、ルクスプロダクションへ」
ゆっくりと扉を開ける彼女の後ろ姿を見て、
俺は深呼吸をひとつしてから、その背中を追った。
眩しい光が差し込む研修室へ、一歩、足を踏み入れる。
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登場人物紹介
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◆ ルクスプロダクション
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一ノ瀬 奏
本作の主人公。元・売れないインディーズバンド《EveLink》のボーカル。
42歳でトラックに轢かれ、2002年の大学時代にタイムリープ。
やり直しの人生で再び音楽に挑み、アイドルという新たな夢に踏み出す。
どこかズレていて、肝心なときほど空回りしてしまう。
歌は抜群、でも運動神経は壊滅的な残念イケメン。
鳳来 カレン
ルクスプロダクション代表取締役社長。60歳前後。
日本の男性芸能界を牽引する女帝。
人のオーラが見える特技を持ち、その光で才能を見抜く。
鮮烈な光を放つ者は例外なくスターとなる。
一ノ瀬奏の中に“百年に一度の閃光”を見た。
早乙女 美央
ルクスプロダクション・マネジメント部所属。30歳。
可愛らしい顔立ちにグラビアアイドル級のスタイルを持ちながら、
仕事ぶりは冷静でストイック。
「甘やかさない・逃がさない・ブレさせない」がモットーの鬼マネとして社内でも恐れられている。
かつては自らもアイドルを志していたが夢破れ、裏方の道へ。
いまでは「タレントを支えることこそが自分の天職」と信じて疑わない。




