Track.26
——数日後。
ルクスプロダクション。
大理石の床と、静かな空調の音。
緊張で汗ばんだ手に契約書類を握りしめながら、受付に向かう。
応接室に通され待っていると、すぐに美央さんが現れた。
白いブラウスにスリムなパンツ姿。
モデルかと思うほどスタイルが良くて、思わず「……やっぱ、美人だな」と心の中で呟いてしまう。
少し茶の入った髪を後ろでまとめ、耳元のピアスがきらりと光った。
その動きひとつひとつが洗練されていて、思わず目が奪われる。
「そう。決心がついたのね」
落ち着いた声なのに、柔らかい響きがある。
「はい。本気でやりたいと思ってます」
「いいわ。その覚悟があれば十分」
書類に目を通す横顔は、真剣そのもので。
プロの顔って、こういうことを言うんだなと思った。
「これで、あなたもルクスプロダクションの一員ね」
彼女はペンを置いて微笑むと、右手を差し出した。
「あなたのマネジメントを担当するわ。長い付き合いになると思うけど、これからよろしくね」
「……よろしくお願いします!」
握手した瞬間、思わずドキッとする。
手のひらの感触がリアルすぎて、頭のどこかが変に熱い。
(落ち着け俺、マネージャー相手に何考えてんだ)
正式な契約開始は、大学の夏休みが終わる八月末から。
それまでは、できる限りバイトをして生活費を貯めておきたかった。
親に援助してもらうとはいえ——やっぱりギリギリまでは、自分の力で稼いでおきたい。
そう心に決め、俺はもう一度深く頭を下げた。
ドアを出ると、ビルの吹き抜けから射し込む夏の光がまぶしかった。
蝉の声が、遠くで反響している。
——ここから、本当に始まるんだ。
夢も、不安も、全部抱えたまま。
俺は、次のステージへ歩き出した。
* * * * * *
閉店後の居酒屋「勝太郎」。
油の匂いと、どこか名残惜しいざわめき。
「——奏くん、やめるって、本当に?」
カウンター越しに、店長が目を丸くした。
隣では、じゅん兄がオーマイガーと言わんばかりのリアクションをしている。
「かなでぃ〜ん、マジか!? やめるの!? あ、やっば、俺の青春こぼれた〜〜!⤵⤵」
……じゅん兄、ブレないな。
このテンションの高さ、相変わらずだ。
「すみません。夢を追いたくて。……アイドル、目指すことにしました」
「おおっ……そういう事!?」
店長が目を丸くして、それからすぐ笑った。
「奏くんならやれるよ。根は真面目だしな」
じゅん兄は一瞬ぽかんとして——
「お、おいおい!? かなでぃ〜ん、アイドルかよ☆」
「……応援するわ⤴⤴」
そして親指を立ててニカッと笑う。
……さすがじゅん兄。ノリがいいにもほどがある。
「応援て……まだデビューもしてないですから」
「関係ねぇ関係ねぇ!」
じゅん兄は突然、カウンターを手でドンッと叩き、
「人生、勢いとノリで行くのがチョベリグ〜〜☆」
と、謎の決めポーズ。
店長が苦笑いして肩をすくめる。
「ま、八月いっぱいか。送別会は盛大にやるからね」
「はい……ありがとうございます!」
「じゃあ、奏くん。今のうちにサイン書いてもらおうか」
「気が早いっすね」
思わず笑って返すと、店長もじゅん兄もつられて笑った。
……なんだかんだで、この店が好きだった。
ここで過ごした時間も、きっと全部が財産になる。
* * * * * *
そして、八月も下旬に差し掛かり
セミの声が落ち着きはじめた夕方。
部屋のチャイムが鳴った。
「……ん? 誰だ?」
ドアを開けると——
「一ノ瀬氏〜〜!!」
そこに立っていたのは、
リュックとポスター筒を背負った、ヒョロっとした男。
俺の親友——ヤマジだった。
「コミケ前日だから、泊めてくれないか? キリッ」
無駄にイケボで言う、ヤマジ。
「お前、相変わらずだな」
そう言いながら、久々の再会に思わず目頭が熱くなる。
「ちょw 一ノ瀬氏w どしたんw 夏休み前にも会ってたし! 熱烈歓迎乙ww」
(こっちは六年ぶりくらいか……もう、会えないと思ってたお前に会えて、嬉しいんだよ)
「……いや、なんか、色々あって」
「ほうほう。聞かせてもらおうか」
キラーンと目を光らせるヤマジを、とりあえず部屋に通した。
ヤマジはリュックを下ろすと、勝手知ったる様子でガタついたローテーブルの前に座る。
冷蔵庫から麦茶を取り出し、氷を入れたコップに注いだ。
「ほれ、麦茶」
「きゃっ、気がきくぅ〜。てかこのローテーブル、まだ現役なんw」
「壊れかけてるけどな」
コップの中で氷がカランと鳴る。
この音が、妙に懐かしくて胸にしみた。
そして俺は深呼吸して、アイドルになる話を打ち明けた。
ヤマジは一瞬黙って——
「……日本語でおk」
「だから! 本当にスカウトされたんだって!」
「いや、エ○ァの最終回より意味わからん展開すぐるww てかマジなん!?」
書類を見せると、ヤマジの目が点になった。
「うっそ……ルクスって、あのルクスプロダクション!? 最大手すぎて草も生えんわ」
「そう。そこ」
「やばスキ゚、ワロリンヌwwwwwww」
……いや、盛大に草生やしてるし。
机に突っ伏して爆笑しながら、
「いやもう、ガンガレ、超ガンガレww」
メガネの奥で目尻をくしゃっとさせる。
「……応援してくれるのかよ」
「当たり前だろ。俺の親友がアイドルとか、何その胸アツ展開w 全俺が震撼したはww」
「ありがとな」
「おう。……でも、マジで無理すんなし」
その言葉に、思わず笑って頷いた。
どんな冗談混じりでも、彼の言葉はいつも優しい。
冷えた麦茶を一口飲む。
窓の外では、夏の終わりを告げる風鈴が小さく鳴っていた。
——きっと、ここからが本当の始まりだ。
* * * * * *
Chapter 2:Crossroads 完




