Track.23
夜風が少し冷たくなってきた。
シフトの時間終了後、裏口を出ると、ちょうど笠井さんも帰り支度をしていた。
「あ、笠井さん。さっきはぶつかっちゃってすみません。大丈夫ですか?」
「ふふっ、一ノ瀬くんのほうこそ大丈夫? 顔から天ぷらかぶってたけど」
「……油と氷のミックスは新感覚でしたね」
「それ、笑えないでしょ!」
二人して吹き出す。
そのまま、店の脇の公園へ。
自販機で買ったペットボトルのお茶を片手に、ベンチに腰を下ろした。
「……もう俺も湊くんと、真宙くんのファンになりましたっ!!」
「わかる!DUELやばいよね〜〜!!」
「ただ喋ってるだけで絵になるって、あれ反則ですよ」
「でしょ!? 湊くんの笑顔なんて、国宝級なんだから!」
「俺、“奏くん”って名前で呼ばれたんですよ!!」
「えっ!? 名前呼ばれたの!? それはもう昇天しちゃうわね!」
「笠井さんのほうは?」
「わたしは会計のとき。“また来ますね”って湊くんが言ってくれて……!」
「うわぁぁ……」
「“やっぱ旨かったわ。ごちそうさま”って真宙くんも! もう~~!!痺れたわ!!」
二人で顔を見合わせて、思わず笑い合う。
夜の街に、ファン談義のテンションが小さく弾けた。
* * * * * *
ひとしきり騒いだあと、ふっと笠井さんが黙り込んだ。
夜風が少し冷たくなり、街灯の光が二人の影を長く伸ばす。
「……わたしね」
ペットボトルを見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「家庭の事情で、夜の数時間だけ働かせてもらってるんだけど……」
「はい」
「実は、一ヶ月前に離婚したの」
「……離婚、ですか」
「うん。夫の浮気。どうしても許せなかったの」
笠井さんは、苦笑を浮かべながらズボンの裾をギュッと握りしめた。
「子どもはまだ小さいのにね。
これから一人親で、きっと苦労をかけると思う。
わたしさえ我慢していれば良かったのかなって、今でも考えるの」
少し俯いたまま、言葉を続ける。
「離婚してから、昼間の仕事だけじゃ足りなくて、夜も働くようになった。
親に子どもを見てもらってるけど、私が仕事に出るとき“ママ行かないで”って泣くのよ。
そのたびに胸が痛くなるの。
……わたし、何やってるんだろうって」
夜の静けさが二人の間に降りた。
遠くで電車の音が響き、街灯の光が笠井さんの横顔を照らす。
しばらくして、笠井さんは深く息を吸い込み、俯いていた顔を上げた。
目元にうっすら涙の跡が光っていたが、その瞳はもう前を向いていた。
「でもね、今日DUELに会って思ったの」
「……え?」
「人生って、捨てたもんじゃないなって」
ふっと笑う。その笑顔には、さっきまでの影が少しもなかった。
「たとえ今がどん底でも、心の奥が動く瞬間って、ちゃんとあるのね。
あの人たちを見てたら……不思議と力が湧いてきたの」
笠井さんはまっすぐ前を見据えた。
「まだ頑張れるって、心から思えた」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
その言葉が、ゆっくりと俺の中に染みていった。
「DUELって、ステージの上だけじゃなくて、
本当に人生を照らしてくれる人たちなのね」
小さくうなずきながら、俺は言葉を失っていた。
“照らす”という言葉が、心の奥に残響のように響いていた。
——俺は、アイドルになりたい。
それは、かつて死の間際に口にした、軽い願いのはずだった。
「モテたい」なんて、冗談みたいな理由で。
だけど今は違う。
この胸の奥で、確かに燃えている。
“俺も、誰かの心を照らせるようになりたい。”って——本気で思った。
あの人たちみたいに、人を笑顔にできる存在になりたい。
胸の奥がじんわり熱を帯びる。
はっきりとわかった。俺はアイドルになりたいんだ。
——あの光の中に、自分の居場所を作りたい。
胸の奥に溜め込んだ熱が、抑えきれずに口からこぼれた。
「笠井さん、俺……!」
言葉が勝手に飛び出す。
「俺、アイドルになります!!」
一瞬の静寂。
夜風が頬を撫で、街灯の光がふたりを包む。
笠井さんは目を丸くしたあと、ふっと優しく笑った。
「……ふふっ。いいじゃない。応援するわ」
その声が、胸の奥にあたたかく染み込んだ。
「はいっ!!」
夜空に響く返事は、どこまでもまっすぐだった。
暗い空の向こうで、街の灯が静かに瞬いていた。
それはまるで、未来のステージライトみたいに見えた。
* * * * * *
日曜日。
地元の北斗町の駅に降り立った。
いつもより少し早い午後の光が、ホームを白く照らしている。
バイトが休みで、両親が家にいる日を選んだ。
もう——何も迷うことはなかった。
アイドルになりたい。
その想いを、今日は正面から親に伝えるつもりだ。
研究生として軌道に乗るまでは、親に金銭的に支えてもらうことになる。
生半可な気持ちでは納得してくれないだろう。
だから、俺は考えた。
この“本気”をどう伝えればいいかを。
そうしてレポート用紙に熱い思いを書き出したら——気づけば十枚。
バッチリ、セリフの練習もしてきた。
抜かりはない。完璧だ。
(よし……落ち着け。今日は俺の人生を変える日だ)
そうして、俺は実家へと向かった。
懐かしい商店街の通りを抜けるたびに、胸の鼓動が少しずつ早くなっていった。




