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Track.20

 トイレの鏡の前。

 ティッシュを鼻に押し当てながら、俺はしばし固まっていた。


「……クッ」


 まさか、あれしきのことで鼻血ブーとは……。

 ドーテーじゃあるまいし。


 …………いや、十九歳の俺、ドーテーだったわ。

 

 情けなくため息をつきつつ、もう一度ティッシュを詰め直す。

 流石に四十二歳でこのザマはどうかと思う。

 けど——身体は十九歳のウブな俺。


 あんなグラドル級の巨乳美人に、

 『奏くん……いつでも待ってるから♡』

 (※言われてない)


 なんて微笑まれたら、そりゃ鼻血くらい出るわ!!

 ティッシュで押さえながら、鏡の中の自分にぼやいていた、そのとき——


 

 ガチャッ。


 

 トイレのドアが勢いよく開く。

 中にいた俺と、小学生くらいの少年二人の視線がガチッとぶつかる。


 

 ………………。


 

 鼻にティッシュを詰めた俺。

 ぽかんと固まる少年たち。

 数秒の沈黙。


「わーーー!! 鼻血ブーーー!!!」


 甲高い声がトイレ中に響き渡る。

 前のめりで叫んだ少年は、キャップを後ろにかぶった元気そうなタイプだった。


「おっちゃん鼻血マン!?」

 キャップ少年が指を差してくる。


「お、おっちゃん!?」

「少年よ。俺はおっちゃんではない」


 19歳だぞ。ピチピチだぞ。……鼻血マンではあるが。


 鼻にティッシュを詰めながら冷静に否定する俺がツボにハマったのか、

「おっちゃんおもしれーー!」

 キャップ少年はゲラゲラ笑っている。


 その隣の少年が、あわててキャップ少年の袖を引く。

「もう、コウったらやめなよ。おっちゃんじゃなくてお兄さんでしょ」

 落ち着いた声。目元が印象的な整った顔立ちをしている。


 一瞬、本来の俺の姿が見えてしまったのかと焦ったが――違ったようだ。


 ふと横から、静かな影が差した。

 「これ、使ってください」

 そう言って差し出されたのは、ピカチュウ柄のポケットティッシュだった。


 なんていい子なんだ……!

 感激のあまり、俺は思わず胸に手を当て、優雅に一礼。


「メルスィ・ボクー!」

 執事ポーズでキメる俺。

 ——ちなみにこれは、フランス語の“ありがとう”と、目の前の少年=“僕”を掛けた渾身のギャグだ。


 ……が。


「鼻からティッシュ出てるのに紳士的って……」

 ピカチュウのティッシュの少年もついに吹き出した。


 なんだか——別のベクトルの笑いになってしまったようだ。


「ちょ、やばっ……っはははは!」

 二人して腹を抱えてゲラゲラ笑う。

 

 そして、しばらく笑ったあと。ここへ来た目的を思い出したようだ。

 

「だ、だめだ……もれるーーー!!」

 キャップ少年が慌てて小便器のほうへダッシュ。

「ちょ、待って! 僕も!」

 ピカチュウ少年も笑いながら隣に駆け込む。


 二人は用を済ませ、まだ笑いをこらえながら手を洗っていた。


「……行こっか」

「ああ。鼻血ブー太郎のせいでレッスン、遅れる」


「誰がブー太郎だブー!」

 ブー太郎の声真似で返してやると、

 二人は文字通りひっくり返るほど笑いながら、仲良く並んでトイレを出ていった。


 ……やっぱり、小学生にはわかりやすいギャグが一番だな。


 そして、ふと思う。

(しかし——あの連れション少年ズ、どこかで見たことあるような……)

 


 * * * * * *


 

 帰宅後、机の上に三枚の紙を並べた。


 ——社長からの名刺。

 ——美央さんからの名刺。

 ——そして、ルクスプロダクションの契約書。


 入所はできる。それは間違いない。

 だけど、問題は——収入だ。


 しばらく……いや、どのくらいの期間になるのかもわからない間、ノーギャラ。

 しかも、アルバイトは禁止。


 独り立ちできるまでの金銭面は、親に頼るしかないのだろうか。


 一週目でも、三十を過ぎて「会社辞めてバンド一本でやる!」と宣言した俺を、

 親は「夢に向かって頑張れ」と応援してくれた。

 四十を過ぎて職なし資格なしのフリーターになっても、

 実家で暮らすことを許してくれた。

 ……もしかしたら、アイドルになる夢も応援してくれるかもしれない。


 でも。


 今の俺は、大学生だ。

 親に無理を言って一人暮らしさせてもらっている身。

 学費も、家賃も、親が払ってくれている。

 そのうえで「アイドルになりたいから生活費ちょうだい」なんて——

 そんなこと、言えるはずがない。


 一週目で、同級生や先輩から聞いて知っていた。

 子ども一人を大学まで出すことが、どれほど大変か。

 学費も家賃も出してもらっていた自分が、

 どれだけ恵まれていたのか。


 頭の中で、現実と夢がぐるぐると渦を巻く。

 せっかくもらったチャンスなのに——決断を出せずにいた。


 考えても答えは見えないまま、俺はいつものバイト先——居酒屋『勝太郎』へ向かった。


 そこで、まさかの出会いが待っているなんて、このときの俺はまだ知る由もなかった。

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