7 新しい日々へ
宴席は夜明けまで続いた。
東の空が白み、小鳥が目覚めの声を交わす頃。妖狸屋敷を辞した剛厚と雪音は細い山道を下り城を目指している。
徹夜の目に朝日が染みる。酒と肴、お祭り騒ぎの雰囲気に全身を満たされた剛厚。やや千鳥足で、鼻歌すら漏れる。対して雪音は酒精に強い体質らしく、しっかりとした足取りで下草を踏み分けた。
「や~まのあるじ~の~にょうぼ~うが~」
気づけば鼻歌が大声量になっていたほど機嫌のいい剛厚だが、隣をしずしずと進んでいた雪音の不意の一言で、凍りつくことになる。
「それで」
雪音は透き通った純粋な瞳で剛厚を見上げた。
「殿は鬼なのですか?」
「お~に~のやしき~の……は?」
頭頂から冷水をかけられたかのような心地がして、剛厚は足を止める。
雪音は軽く首を傾けて、夫の言葉を待っている。剛厚は全身の血が停滞したかのような冷たい痺れを覚えた直後、急速に体温が上がるのを感じた。
「な、何を言うか、お、おに?」
「狸爺に鬼と呼ばれておられましたでしょう? 化けることが得意なあやかしは、化けた者を見破るのも得意なものです」
――やいやい、鬼やい。
妙に調子のいい狸爺の呼びかけが、脳裏に蘇る。引っ込む刀騒動でそれどころではなかったが、言われてみれば剛厚の方も「鬼」と呼ばれて自然に反応していた記憶がある。剛厚は声を上ずらせた。
「お、おおお鬼ではないぞ。あれはそう。言葉の綾だ。そなたも知っての通り、我が祖父は鬼十郎と呼ばれているゆえ。狭瀬の一族ということで某のことも鬼と呼んだのだろう。うむ、きっとそうだ」
「……まあ」
雪音は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに取り繕った。剛厚は少し躊躇ってから、言葉を続ける。
「だがな、もし。もしもだぞ。そなたの夫が鬼だとしたら、恐ろしいか」
「いいえ」
なぜそのようなことを聞くのかわからぬ、というような目で、雪音はきょとんと瞬きをした。
「お忘れですか、私は妖山城を預かる白澤家の娘です。あやかし三箇条のことはよく知っています。この心臓が止まるまで、いかなる鬼でも私を食べることはできないでしょう」
「鬼によっては、狙いをつけた人間を密かに死へと導き、何食わぬ顔で朝餉にする者もいるのだぞ」
「でも、殿は人間なのでしょう? それに、万が一鬼だったとしても、あなた様はそのようなことはなさいません。お優しい方ですもの」
「優しい?」
「ええ。だって、身を挺して短刀に挑み、私を助けようとしてくれました。私を食べたいのなら、命を救う必要なんてありませんわ」
「いいや、しかしな」
「源三郎様はもしや、私と離縁したいのですか」
不意に、雪音の声音が湿り気を帯びる。見れば、朝の鮮烈な木漏れ日を受けた雪音の瞳が潤んで揺れていた。
「なっ、違うぞ。断じてそのようなことはない」
「それならばなぜ、このように恐ろしげな仮定の話をなさるのです」
「そ、それはだな。えっと、そなたのような女子は某のように無骨で単純な男にはもったいなく、祝言の間でそなたが失望したのではないかと心配で、いいやそれよりも、大事な日に、妖狸に誑かされて城から忽然と姿を消すような夫など」
最悪だ。
発した言葉がそのまま鋭い刃となって戻ってくる。ぐさりぐさりと心をやられ、図体の割に軟弱な剛厚の心が疼くように傷んだ。さすがにそれ以上、自分をいたぶることもできず、剛厚は黙り込む。
梢で小鳥が鳴いている。山を撫でる微風が枝葉を揺らし、二人の間に広がる沈黙を強調した。やがて、口を開いたのは雪音である。
「無骨だなんて思いませんわ。むしろずっと、夫にするならば屈強なお方がいいと願っておりましたの」
「そ、それは、若い女子には珍しい。何ゆえだ」
雪音は一瞬、すん、と真顔になってから一変、よよ、とよろめき袖で口元を覆った。
「だって、健康なお方ならばきっと、長生きしてくださるでしょう?」
剛厚はふと思い出す。雪音の父である先代当主は身体が弱く、急逝したのだ。彼女には兄が数名いたが、彼らも皆早世している。
白澤の血筋には珍しく、雪音は病弱には見えない。だからこそ、遺された者ゆえの悲しみに、幾度も心を切り刻まれてきたのかもしれない。
「それに、出会ったばかりではありますが、私は、源三郎様の純朴さを好ましく感じております」
懸命に涙を堪え、思いの丈を吐露する雪音。想定外の言葉に、剛厚は石のように硬直した。
「信じられないのであれば、政上の理由ということにしても結構ですわ。あなた様がいらっしゃらなければ、白澤は断絶します。ご存じの通り、外で育った姫ということもあり、私は家臣たちから疎まれています。白澤の娘として皆のためにできる唯一は、奥野国主の異母弟に添うという僥倖にあずかり、白澤領に安寧をもたらす一助となることだけ。ですから、あなた様と共にありたいというのは、私の心からの願いでもありますの」
雪音は袖で涙を拭い、潤んだ瞳で上目遣いに微笑んだ。何と健気な姫だろうか。剛厚は妻の涙に感化されたらしい。気づけば己の目尻からも塩水がはみ出していたのを、瞬きをして引っ込めた。
雪音の白い手を取り、一歩距離を縮める。途端に、香しい血肉の匂いと、何やら胃だけではなく全身を絡め取るように魅惑する甘酸っぱい香りが入り混じって漂い、剛厚の鼻腔を撫でた。
「そうか。ならば改めて、これからよろしく頼むぞ雪音。共に白澤の所領を治め、あやかし、人間を問わず、領民らに安寧を」
凛とした顔で言った時である。
ぐ、ぐうううう……。
突然、剛厚の腹が鳴る。地鳴りのような音だった。あまりのことに、全身が石になる。
雪音は、何の前触れもなく響いた低音を、森の立てる自然音だと思ったらしい。不思議そうに辺りを見回している。ならば誤魔化してしまおうか。けれども腹は主人の意思に反し、再び空腹を主張した。
雪音の視線が、音の出どころである胃部に突き刺さる。さすがにもう言い逃れはできまい。剛厚はたおやかな手を放し、頭を掻いた。
「いいや、すまぬ。どうやら食っても食っても腹が減る質らしく」
雪音はどんぐりの目をいっそう丸くして絶句していたが、やがて袖を口元に当て、軽やかな笑い声を上げた。
「まあ。先ほどの宴席であれほど召し上がったばかりですのに」
「うむ、面目ないというか、何というか」
「壮健である証ですわ。そうだ。朝餉には、私が育てた野菜も出してもらいましょう」
「野菜? 雪音が世話をしているのか」
「はい。城の者たちからは、土いじりなど姫君がすることではないと眉をひそめられますが……」
意向を伺うような視線を受け、剛厚は気になどせんと首を振った。
「万が一籠城にでもなった折、自給できる畑があるのはよきことだ。まあ、戦など起こらないに越したことはないのだが。あ、いいや、もちろん某とて必要とあれば勇猛果敢に、だな」
雪音は武家の娘だ。ならば立身のため、武功を上げることこそ善であるとして育てられてきたことだろう。戦を厭うとは何たる軟弱者よ、と嘆かれても仕方がない。けれども雪音は意に介さず、細腕を庇にして空を見上げ、眩しそうに言った。
「本当に、平和が一番ですわね」
森が開け、新緑の間から白澤の所領が覗く。朝日に照らされた初夏の水田は、鏡面のごとく鮮明に青空と妖山の稜線を映し出す。点々と並ぶ素朴な家屋からは人の営みが煙となって立ち昇る。
美しく穏やかな朝。剛厚と雪音は寄り添い合い、新しい日々へと足を踏み出した。
第一話 終