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あやかし化かし合い戦記 〜煮え切らない人食い鬼と美味そうな妻〜  作者: 平本りこ
最終話 煮え切らなかった人食い鬼と美味そうだった妻
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3 この手は決して離さない

 ――突然の出奔をお詫びいたします。しかし私は悪しき妖狐ようこ。どうやら人間のご家臣や民たちから恨みをかっている様子。ならば殿のお邪魔にはなりとうございません。離縁をいたしたく、どうかご容赦くださいませ。 雪音





雪音ゆきね


 信じがたい思いで紙面を二度なぞり、文をぐしゃりと握り潰す。


 己の鼓動ばかりが大きく響き、周囲の音が不自然に反響している。視界が渦を巻き、まるで泥で形作られた世界が徐々に崩れていくかのようだった。剛厚つよあつは、気づけば走り出していた。


 雪音は善良なあやかしだ。もし、真に悪しき妖狐だというならば、剛厚の生気をしこたま吸い取り、それから去ればいいはずである。本来彼女にとっては、獲物の生死など関係ない。それなのに、妖山あやかしやま城主としての剛厚の外聞を案じ、たったの一度も強引に生気を吸うことなく去って行くなど。


「悪しき妖狐の行いではない」


 身を切るような寒気の中、剛厚は城の裏を抜け妖山の獣道を駆け上る。御殿を出る際に引っ掴んできた頭巾を被ってもなお、息を吸えば肺が凍るように冷える。けれども心の痛みに比べればこの程度、何ということもない。


 剛厚は雪と篠笹しのざさを踏み分けて、目的地である豪奢な山屋敷に飛び込んだ。


「雪音はどこだ」

「うわっ!」


 喉から心臓が飛び出したかのような裏返り声が返ってくる。


 剛厚の怪力により半分外れた障子が斜めに傾ぐのを間一髪跳んで避け、茶色い毛の塊が、怒りを露わに仁王立ちした。


「な、何だい何だい! びっくりしたじゃないかい!」

つゆ、雪音の居場所を知らぬか」

「えっ、し、知らないよ。お雪が一人でふらっとどこかへ行っちまうのは、いつものことじゃないか」

「その様子だと、雪音が城を出たことは知っていたのだな」

「ぎゃっ、ばれた!」


 剛厚は一歩距離を詰める。


「どこにいる。言わねばそなたをこの腕で」


 全身に力を込めて筋肉を隆起させる。厚着の下で、身体が一回り大きくなった。さらには、これ見よがしに拳をぽきぽきと鳴らして威嚇する。


「あわわわわ」


 露の葉が目を回しかけている。か弱き小さな妖狸ようりを脅すなど、心が痛む行いだ。けれども背に腹は代えられない。


「わ、わかったよ! 言うからやめて。あたいをへし折らないで!」


 剛厚は拳を下ろす。露の葉は部屋の中央辺りまで逃げて距離をおいてから、警戒を崩さずに毛を逆立てたまま白状した。


「ほ、本当は内緒なんだけど。今、お雪はね……」





 妖山は、さほど標高の高い山ではない。頂から麓までびっしりと樹木が生えており、夏にはきちんと雪解けもする。その頂上の一角に、木々のない岩場がある。


 季節は冬。雪が厚く積もっているのだが、眼下には遮るものがなく、北の大海と南の白澤領が一望できる。


 妖狐の姿で軽々と山を登った雪音は、身に馴染んだ人間姿になり、風に吹かれながら一人、岩場に佇んでいる。


 紺碧に煌めく海。振り向けば、けぶる白に染まる人里の景色。


 雪音は、生まれ育った妖山から去ろうと心に決めた。その前に、領地を一望したかったのだ。


 生まれ故郷であり友の家であり、そして、愛おしい人が治めることになる白澤領。その全てを目に焼きつける。山を下りれば二度と、妖山の地を踏むことはない。そうすることが、剛厚のためになる。そう結論づけたはずなのに。


(胸が痛い。人を愛し、執着するだなんて、私はやっぱりできそこないの妖狐なのだわ)


 疼く痛みに決心が揺らぎそうになる。今ならまだ間に合う。何でもない顔をして城に戻り、置手紙は戯れだったと弁明すれば、剛厚ならば許してくれるだろう。


 けれどもそれでは意味がない。己が寄り添うことで、愛おしい人が不幸になるのは……温かかった眼差しが、突如として凍るような嫌悪を帯びて雪音に注がれるのは、もう見たくないのだ。


 雪音は郷愁を振り切って、きびすを返す。来た道を戻り、どこか知らない土地に行こう。そう思った矢先のことである。


 ざくり、と雪を踏み分ける音がする。直後、裸の木々の間から、巨大な人影がぬっと現れた。


「と、殿」


 思わず袖を口元に当て、目を丸くする。


 そう、分厚い雪を掘るようにして現れたのは、額に角を生やした大きな男。彼は脚力に頼り雪山を登って来たらしい。人間の身体では到底なし得ぬ所業である。さすがに息が弾んでいるが、衰弱した様子は微塵もない。


「雪音、これはどういうことだ」


 剛厚の拳が開き、小さなごみ屑が差し出される。いったいこれは何かしら、と本気で首を傾けてから思い至る。握りつぶされて皺くちゃになってはいるものの、これは紛れもなく雪音の置手紙だ。


 紙のなれ果てをじっと見つめて動かない雪音に、剛厚は肩を怒らせて歩み寄る。


「なぜ勝手に去ろうとする。妖狐だからといって、それがしがそなたを軽んずると思うのか」


 憤った声など、剛厚らしくない。雪音はおもむろに顔を上げ、何か気の利いた冗談でも口にしようと試みた。けれども真っ直ぐに注がれた真摯な瞳に射抜かれて、雪音の唇は弱々しい心の内を吐き出した。


「正体が広まってしまったからにはもう、お側にいるのが辛いのです」


 剛厚が微かに眉を動かした。何を言うでもなく、雪音の言葉が続くのを待っている。


「図太い女に見えるでしょうけれど、本当はずっと、自分が妖狐だと知られるのが恐ろしかったのですわ。当然のことながら、殿方の多くが私を嫌悪なさるから」

「いまさら真実を知ったとて、某の心は何ら変わらない。昨日の語らいで、伝わらなかったのか」

「そのお気持ちはきっと、妖狐の身体から滲み出る誘惑の香りのせいですわ」

「いいや、違う。何せそなたは、今まで一度も某を本気で誘惑しようとはしなかっただろう。今思えば確かに、そなたから妖狐の放つ麝香のような甘酸っぱい香りを感じたこともあった。だがそれはほんの時々、意図せず滲み出たかのような微かなものだった。この半年間ずっと感じてきたのは、妖狐ではなく人間の血肉の匂い。にもかかわらず、いつしかそなたに食欲ではなく愛情を抱くようになったのは、某が雪音という女人に惹かれたからだ。……そなたは、某が嫌いか?」


 雪音は息を呑み、剛厚の姿をまじまじと見上げた。頭巾の上に雪が積もっている。さして身支度もしなかったと見え、山登りの装備ではない。人間ならば、とうに凍死しているだろう。


 それほどまでに剛厚は、雪音を案じてくれたのか。胸の奥に、温かな火が灯る。まろやかで清い、宝玉のような灯だ。だからこそ、触れるのが恐ろしい。


 その温かさに身を委ねてしまえば、もう二度と後戻りはできない。剛厚を失えばきっと、雪音は生きていけなくなる。


「雪音、どうなのだ」


 心根の優しい剛厚は、今さらながら、自身の発した言葉の圧にたじろいだらしい。心許なげに眉尻を下げた。


(ああきっと、このお方も恐ろしいのだわ。大切なものが手のひらをすり抜けていってしまうのが)


 すとん、と心の奥底に何かが納まる音がした。その途端、雪音の目尻から雫が落ちる。凍りつく前にと慌てて袖で拭い、雪音はかぶりを振った。


「いいえ、いいえ。私は殿をお慕いしております。いつからか、あなた様のことを獲物とは思えなくなってしまいました。でも、だからこそ辛いのです。私に愛されるということは、生気を失い心身が衰えていくということです。お慕いするお方に、そのような運命を与えたくはありません」

「某ならば問題ない」

「ですが、ご家臣衆や民は私を厭い、その結果あなた様のことも、妖狐に誑かされた城主だと悪し様に言うでしょう。いいえ、事実そうなのです。私は悪しき妖狐ですから」

「己をそのように申すでない。では雪音は、生涯一人で過ごすというのか」

「わかりません。でも、殿には幸せになって欲しいのです。身を立て、多くの人々に愛されて」

「某は、屈強さにだけは自身があるぞ。生気を吸われても、そう簡単に衰えはしない。その、まあほどほどにしておいて欲しいが、いや、そうでなくてな」


 剛厚は咳払いをしてから、紙屑を懐に仕舞う。それから雪音に手を差し出した。


「とにかく、離縁は許さぬ。どうしてもというのなら、某を倒してから行くのだ」

「まあ。倒す」

「つまり、生気を吸い尽くせ。そうして失神でもさせてみるがいい」


 雪音は呆気に取られ、瞬きを繰り返す。相手が何者であったとしても、無抵抗のところを襲い、時間をかければ失神させることは可能だろう。だが、意識を失ったまま雪山に放置されてしまえば、いかに鬼とはいえ命はない。雪音はゆっくりと首を横に振る。


「そのようなこと、できませんわ」


 雪音の返答を耳にして、剛厚が徐々に破顔する。大きな口を開き屈託なく笑った。


「うむ、そう言うだろうと思ったぞ。なぜなら某の提案は、悪しき妖狐の所業ゆえ」


 ――私は悪しき妖狐。


 己が文に記した文字が、脳裏を過る。胸に生まれた灯が、じわじわと勢いづいた。雪音は、心の奥に生まれた煌めく温もりを抱き締めて、涙を堪えつつ唇を尖らせる。


「ずるいお方ですこと」

「うむ。某もあやかしだからな。言っても聞かぬ女子おなごを言葉で化かす程度はするぞ。さあ」


 剛厚は一歩足を踏み出した。


「帰ろう」


 有無を言わさず手を取られ、体温がつながった。雪音は躊躇いながらも分厚い手のひらを握り返し、未だ戸惑いを帯びた幸福を噛み締める。


 胸に宿った宝玉のような煌めきが、荒れた心の土壌に根を下ろす。それを種として、かつて諦めた恋に絶望し粉々に砕けてしまった美しき花が、再び芽吹いたような心地がした。


 そして、心に決めた。己の命が尽きるまで、この手は決して離さない。


 ふわり、と冬風が肌を撫でる。あまりの冷たさに、どちらからともなく身体を寄せ合った。


 風に揺り起こされた樹上の雪が、風花かざはなとなり晴天の下をはらはらと舞う。それらは日差しを受けて、まるで光の粒のように二人を包み込んだ。





 こうして、鬼と妖狐の化かし合いの物語は幕を下ろした。これから始まるのは、二人がありのままの心を通わせて、次なる苦難を乗り越え絆を深めていく物語。


 けれどもそれは、また別の機会に語ることとしよう。



<完>

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