1 あれも治療、これも治療、他意はない
「大兄者のお身体はまだ見つからないのか」
凍りかけの川に落ちひどい風邪に悩まされて三日の後。すっかり体力の戻った剛厚は、もたらされた長兄行方不明の報せに、強面をいっそう険しくした。
この日、合議が行われている妖山城の広間には、次兄も並んでいる。先日の事件以降、幸厚は妖山城に滞在しているのだ。
「兄上の身体が北藍川の龍に攫われたところまでは見たのだが」
「某も、北藍ならば何か知っているのではないかと思い、大兄者の消息を訊ねたのですが、どうやら泥酔していて何も覚えていないらしく」
北藍は、南蒼川が涸れかけた事件で厚隆に恨みを抱いている。川に引きずり込み見事復讐を果たして溜飲が下がるかと思いきや、酒精に酔い何一つ記憶に残っていないとのことで、ぎりぎりと歯噛みしていた。
悔しがり、地団駄を踏むように尻尾で地面を叩き続けていた小さな龍を思い出せば、自ずと渋い顔になる。
厚隆を川に引きずり込んだ時には堂々たる巨躯を見せていた北藍。けれども木々の鬱蒼と茂る妖山に戻れば便宜上、いつもの一尺五寸なのである。
今すぐには進みようのない議論を見かねたのか、側に控えていた近習が、溜め息混じりに言った。
「ご存命なのか、川底に沈んでおられるのか。はたまた、陸に打ち上げられて獣の餌にでもなったのか。消えた狭瀬源太郎の生死を確認するのはもちろん重要ですが、我らには並行して対処せねばならぬ懸案がございます」
「うぬ、それは?」
「奥野国はどなたがお治めになるのでしょうか」
「もちろん小兄者だろう」
近習の言葉に、きっぱりと答える。優柔不断な剛厚だが、このことばかりは迷う必要もない。けれども当の幸厚は、すぐには頷かなかった。
「そなたはそれでいいのか剛厚」
「何がです」
「奥野国が欲しいとは思わないのか」
「な、何を仰るか。滅相もない!」
思わず素っ頓狂な声が出た。剛厚は咳払いをしてから、いくらか落ち着いた声音で言った。
「いいですか、小兄者が大兄者の後継として相応しいのは、何も生まれ順ばかりが理由ではありません。小兄者は大兄者の右腕として領国運営に携わってきたではありませんか。奥野国への理解は、某などよりもうんと深いはずです。それに」
剛厚は首を巡らせ、居並ぶ家臣らへと順々に目を遣った。
「某は妖山城主。白澤の婿養子なのですから、観山ではなくこの城を治めねばなりません。白澤の姫である雪音もいることですし」
珍しく城主らしい態度で述べたつもりであるのだが、雪音の名を出した途端、すっと空気が冷えた。気のせいかと思いきや、そうではない。先々代から白澤に仕えている古参の近習が、臆することなく剛厚を見上げた。
「そのことですが、姫様の正体は人間ではなく妖狐であると、もっぱらの噂。此度の件で、敵の手から逃れるために、何人もの男を誑かして失神させたとか」
「う、うむ」
「ならばもしや、先代が早世なさったのも、白澤の男児が皆蒲柳の質であったのも、全ては妖狐……姫様の母親のせいだったのではありませぬか? 雪音様の正体は、すでに民草の中で噂になっているようです。先代を死に追いやった女狐の娘を、白澤の姫、殿の奥方として扱うことに、反感を持つ者も多く出ることでしょう」
剛厚は咄嗟に言葉が浮かばない。妖狐は男の纏う陽の気を吸う。陽の気すなわち、生きるための活力たる生気である。妖狐に魅入られ生命力を奪われ続けた白澤の前当主。それが原因で病がちになり、とうとう命を落としてしまったのだと考える者がいるのも理解ができる。だがしかし。
「雪音の母君が、あやかし三箇条を破ってしまった可能性は確かにある。だからといって、雪音自身に罪はないはずだ。それに、妖狐がだめだというのなら、某のことはいかにする。正真正銘の人食い鬼なのだぞ」
そう、剛厚は二度にわたって鬼姿をさらしている。雪音が攫われたと知った時と北藍川での騒動時。雪音よりも一足先に、あやかしであることが公となってしまったのだ。けれども古参の近習は、首を横に振る。
「鬼は死肉しか食わぬよう定められております。殿は慈悲深いお人柄ゆえ、あやかし三箇条をしかと守ってくださいましょう。何も心配はありませぬ。元より、主君のご不興をかえばどちらにしても切腹になるのです。我らとしては鬼の主君はそう恐ろしいものでもなく、むしろ殿のような強く優しき鬼が妖山城主であられるのなら、家臣一同安心してお仕えできるというものです。されど妖狐は、生きた男から生気を奪います」
「雪音がそなたの気を吸うとでもいうか」
「いいえ、そのようなことは。ですが実際、この近辺で妖狐による不審死事件があったばかり。はたして民は納得するでしょうか」
「あれは兄の企みであり、妖狐は関係ない」
とはいえ民の中には未だ、狐が鳴く夜に発生した一連の不審死事件を、妖狐の仕業だと考える者がいる。
元々妖狐は、人間はもちろんのこと、あやかしからも遠巻きにされる存在だ。人間あやかし獣を問わず、異性を誘惑し、雄が持つ陽の気を吸うのだから無理もない。欲望に忠実な淫乱な種族だと厭われている。
人間から嫌われるのは鬼も同じだが、鬼の場合は家臣らが述べたように、仲間となれば心強いものである。けれども妖狐は違う。ただ、侮蔑の対象となるだけだ。
(だが、雪音はそうではない)
剛厚は身をもって知っている。彼女は剛厚の生気を吸い尽くそうとはしなかった。少し無鉄砲なところはあるものの、越えてはならない一線を理解した慎み深い妻だった。
この騒動で雪音は男たちの生気を吸って失神させたのだが、それはむしろ剛厚たちのためである。いわば自己犠牲にも等しい。にもかかわらず、その行いに眉をひそめられるなど、雪音が哀れでならない。
眉間に深い山谷ができ、鼻に皺が寄る。腹の奥底で、獰猛な炎の蛇が這いずっているかのような心地がする。堪えきれずに声を荒げかけた時だった。慌ただしい足音が廊下に響き、開け放たれた庭側の障子の向こうから、若い近習が現れ膝を突いた。
「殿、申し上げます。奥方様がお目覚めになられました。発熱も治まったようです」
「何と、雪音が!」
思わず腰を浮かせた剛厚の眉間から凹凸が消え去った。
川に落ちて以来高熱が続き、目を開けても朦朧としながら粥をすするだけだった雪音の容態が、ようやく安定したというのだ。重苦しい気分は一息で吹き飛んだ。けれどもなぜ、こうも急激に回復したのだろうか。
もしや昨晩、愛しさと心配でどうしようもなくなり、妻の青ざめた唇についばむような接吻をしたのがよかったか。
泣く子も黙る強面であのような所業、我ながら変態じみているのだが、雪音は妖狐。陽の気を吸えば肉体の回復は早まるはず。そう、これは治療。
うやむやにしていたが、川岸でのあれも治療。全ては雪音の身体のためなのだ。他意はない。
「殿? お顔が赤くございませんか。よもやまだ本調子ではなく」
「い、いいいいいいや、大事ない! とにかく」
剛厚は顔を引き締め、古参の近習に険しい目を戻してきっぱりと告げた。
「某はそなたの経験と明晰さを頼りにしているのだ。だからこそ、偏見や憶測で話すことは断じて許さぬ」
「……過ぎたことを申し上げました。ご無礼をお許しください」
剛厚は鷹揚に頷き、異母兄を見る。視線を受け取った幸厚は意図を汲み取り頷いた。
「行ってこい、奥方のところへ」
「小兄者に皆、かたじけない! すぐに戻る」
言うなり剛厚は勢いよく廊下に跳び出す。脇目もふらずに御殿内を足早に進み、雪音が伏せる病間へと駆け込んだ。




