7 父上、お戻りでしたか
「そこまでじゃ」
寒々とした雪原に、太い声が轟いた。声の出どころは、いつの間にか忍び寄っていた牛車である。
都の大路を進むような瀟洒な造りのそれが、積雪をものともせずに進む様子は場違いであり、むしろ不気味さを醸し出している。粉雪の混じる冬の風が牛車の前簾を揺らし、内部も寒そうだ。
「何者だ」
さすがの厚隆も目を剥いて、異形の牛車に向き直る。前簾の辺りから、再び太い声がした。
「愚か者どもめ。わしは、兄弟で争えなどとは教えておらぬ。おぬしら、父の言葉を忘れたか」
ただでさえ冷えた空気が、いっそう凍る。狭瀬の三兄弟は硬直し、誰一人として動けない。その間にも、牛車は真っ直ぐに雪を裂いて接近する。
「容易く折れてしまう矢も、三本揃えばそうそう折れぬ。いかなる時も三人で支え合い、奥野国を盛り立てよと命じただろう」
「ち、父上。奥野国に戻っていらしたのですか」
最初に呟いたのは、雪に沈みかけた幸厚だった。
脇差二本分ほどの距離をおき、牛車が止まる。牛の口鼻から白い息が広がった。まるで牛が言葉を発しているかのようにも見える。
「おお、幸厚か。いつまで雪に埋もれておるつもりじゃ。これ、厚隆、弟を踏みつけるとは何事か。剛厚、刀を収めよ。兄に刃を向けるなど不忠である」
威厳のある声音に、混乱した頭はいとも簡単に翻弄された。厚隆が足をどかし、幸厚が起き上がり、剛厚が納刀する。牛車から満足げな声がした。
「そうじゃ、それでよい。厚隆、こちらへ。久しいのう。よく顔を見せてくれ」
素直に足を踏み出す厚隆。けれども不意に、何かに阻まれたかのように立ち止まり、もう一歩が続かない。ざくり、と雪を踏む余韻が空気に溶ける。厚隆は軽く首を傾けて前簾を窺った。
「父上が突然国を出て隠居なさったのは、十年程も前のことでしたね」
「うむ、そうだったか?」
「なぜ剛厚の名をご存じなのですか」
長兄の言葉に、剛厚もはっと息を呑む。厚隆は訝しみを深め、やがて目の奥を暗く光らせた。
「当時、源三郎はまだ元服しておらず、剛厚という名を得てはおりませんでした。どこかでお耳にされたのでしょうか、それともあなたは父上のふりをした」
厚隆は大股で雪を踏み分け、長く鋭利な爪の生えた鬼の手で前簾を掴んだ。そして。
「お覚悟を、義兄上様」
凛とした女人の声。
厚隆が引き裂くより前に前簾が内側から割れ、白と灰色ばかりの雪世界に、鮮やかな赤が牛車から飛び出した。紅の小袖を纏った小柄な女人が、厚隆の首に噛みつき……いいや、吸いついた。
「ゆ、雪音!?」
剛厚が裏返った声を上げる。辺りに、甘酸っぱい麝香のような濃密な香りが広がった。
長兄の太い首に腕を回してしがみついた雪音が、剛厚に軽く目線を流す。妖艶で、それでいてどこか悲しげな眼差しだった。けれども視線の交わりは、ほんの一瞬のこと。我に返った厚隆が、よろめきながらも屈強な腕を振り回し、雪音を打ったのだ。
息を呑むような悲鳴が上がり、雪音の小さな身体は呆気なく雪に叩き落とされる。
「雪音!」
剛厚が助けに走ろうとするが、雪音は軽やかな身のこなしで飛び起きて、もう一度厚隆に襲いかかった。
「しつこいぞ!」
激高した厚隆が雪音の脇を掴んで引きはがし、まるで物を投げるかのように大きく振りかぶる。
「大兄者、何を!」
「凍りつけ、妖狐!」
雷鳴のような叫びと共に、厚隆は雪音を放り投げた。曇天に紅の袖がひらひらと舞う。弧を描いて落下する先は、北藍川だ。
剛厚の全身から血の気が引いた。真冬の川に落ちれば、命が危険。さらに悪いことに今は、厚隆のあやかし軍団を足止めするため、北藍が酒に酔っている。落水の衝撃で川の水を一口でも飲めば、酒精で意識を失い沈んで行くかもしれない。
「さらばだ」
厚隆が吐き捨てて、雪を蹴り逃げ出した。
剛厚は咄嗟に動けない。雪音を救わねば。けれども厚隆を取り逃がすわけにもいかない。頭が痺れたように思考が止まり、ただ拳を握る。その時だ。
「源三郎」
強く肩を掴まれた。振り向けば、先ほどまで雪に半ば埋もれていた次兄幸厚が、唇を紫色にしながら立っていた。
「兄上のことは私に任せろ。そなたは奥方を」
「……かたじけない!」
剛厚は雪を蹴り、半ばつんのめりながら川へと向かう。体中の筋肉がめきめきと発達し、額が燃えるように熱くなる。変化を解き鬼の姿をとれば、舞い続ける粉雪など、皮膚を撫でる小雨ほどの冷たさとしか感じなくなる。
ざぶん、と飛沫を上げて、雪音が川に落ちた。一拍遅れて剛厚も、身を切るように冷たい水へと飛び込んだ。




