2 ちょっと廁に行っただけなのに
「すまぬ!」
剛厚は突然、すっくと立ち上がる。反射的に上体を引いた雪音と目が合うと、まるで針で指でも刺したかのような顔をする。すぐに取り繕ったはいいのだが、次の瞬間には切迫した表情が浮かんだ。
「す、すまぬが、ちょっと廁に」
ぐ、ぐぐぐぐぐうう。
雪音が目を丸くするのとほとんど同時、剛厚の腹が低く鳴る。厠……もしや腹でも壊したのだろうか。
恥じらいもなく迫っていた雪音もさすがに鼻白み、瞬きを繰り返してからゆったりと頷いた。
「わかりました、私はここでお待ちしております」
「かたじけない!」
突風を残し、寝所を出て行く剛厚。相当慌てていたのだろう、襖は開け放たれたままで、薄暗い廊下に行灯の朱色がゆらゆらと火影を落としているのがよく見える。
夫の騒がしい足音が消え去るまで呆然としていた雪音だが、不意に、火照った肌を宵の冷気に撫でられ我に返る。初夏とはいえ、夜はまだ冷えるのだ。ぶるりと身震いをして、ひとまず襖を閉じる。それから寝所の中央に戻り、寝具の横にちょこんと座った。
しんと静まり返る部屋の中。遠くで鳴く虫の声が妙に大きく耳に響く。
厠はそう遠くない。盛大に腹を下してでもいない限り、さほど時間をかけず戻って来るだろう。夫の重量感のある足音が近づくのを、今か今かと待つ。けれども耳に届くのは、か細い虫の音ばかり。待てど暮らせど剛厚は帰らない。
雪音は端座したまま、はて、と首を傾けた。まさかこれは。
「逃げられた?」
思わず呟きを落とした時だ。
「ぶっ、ふははは! ひーっひっひっ」
突然、部屋の隅から悪霊のように邪悪な笑い声が上がった。見れば、嫁入り道具の山の中、漆塗りの長櫃が、かたかたと小刻みに振動しているではないか。
心底おかしそうに引き笑いをする長櫃。慣れぬ者ならば、耳目を疑うような怪奇現象に卒倒しても不思議ではない。けれども雪音は、あやかしの住まう山を治める家の姫である。顔をしかめ、冷静に部屋の端へと膝を滑らせた。
いつの間にか長櫃の側面に、茶色くふさふさした尾が生えている。逆の側面にぎょろりと現れた黒い瞳が、灯台の火を受けて朱金に煌めいた。そこに嘲りの色を見た雪音は全てを察し、全身の毛を逆立たせる。
「化けていたのね、妖狸!」
「ご名答」
どろん、と白煙が出て、奇怪な長櫃は一瞬にしてかき消えた。嫁入り道具の群れの真ん中には、長櫃の代わりに丸々とした狸が牙を剥き出して座っていた。
「いやあ滑稽、滑稽。待てど暮らせど夫は戻らぬのう」
「いつからそこにいたのかしら。初夜を盗み見なんて悪趣味ねえ」
雪音は鷹揚な口調で言いつつも、鋭い眼光で狸を睨む。虚勢を張った様子がたいそう愉快と見えて、妖狸は雪音に近づきながら、己の腹を抱えてひいひい笑う。
「何とまあ、相変わらずの破廉恥女よ! 聞け、おぬしの夫はわしが預かっておる。取り戻したくば、妖山の我が家に招かれよ」
「まあ」
「露の葉の家。そう聞けば、場所はわかるじゃろう。よいか、すぐに来るのじゃぞ。必ずじゃ!」
再びどろんと白煙。気づけば膝立ちになっていた雪音の正面に、一枚の葉が舞い落ちた。どうやら妖狸は一足先に妖山に帰ったらしい。雪音は落ち葉を一瞥し、鼻から下を袖で覆って顔をしかめる。やがて、一つ溜め息をつき腰を上げた。
「悪戯が過ぎるわね、狸爺」
屈強な鬼が妖狸に捕らわれてどうこうされるとは思えぬものの、あやかし同士の喧嘩となれば、流血は免れない。拳での語らいは極力避けるのが、あやかし社会円満の秘訣である。
「でも、露の葉ねえ。懐かしい名だこと」
雪音は妖狸の招きに応じざるを得ず、着の身着のまま、つまり新婦の白小袖姿のまま部屋を出て、灯も持たず大胆に山へと分け入った。