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9 柄にもないけれど

「ぶえっくしゅっ!」


 戸喜左衛門ときざえもんの大きなくしゃみが反響し、雪音ゆきねに耳鳴りを残した。


 北藍川ほくらんがわ沿いの山肌に空いた洞窟にて。さあさあと降りしきる雨を背景音に、小さく揺れる焚火の朱色が、岩壁に雪音と戸喜左衛門の影を映し出している。日が暮れてしまう前までは、洞窟の入り口はぽっかりと薄光の円を描いていたのだが、今や夜の漆黒が漂うだけだ。


「夜が更けてしまいましたわね」


 川水と雨で濡れたまま乾き切らない袖をさすりつつ、雪音はぽつりと呟いた。


 夕餉の時間はとうに過ぎた。雪音の不在に気づいた剛厚つよあつは、たいそう心配していることだろう。彼は、大きな身体に似合わず心優しい鬼なのだ。


 湿った髪が重たい。洞窟の外では、雨脚は強まる一方である。妖山あやかしやま城の菜園にて、突然の降雨から雪音を守ってくれた剛厚の袖が懐かしい。


 お世辞にも親しみやすいとは形容できない剛厚のごつごつとした顔。そこに浮かぶ純朴な笑みが脳裏に蘇り、雪音は人知れず胸を押さえた。


 日中に戸喜左衛門が指摘した通り、剛厚は雪音にとって都合のいい夫である。けれどもそれは、白澤家存続のため、奥野国おくののくにを治める狭瀬はざせ源太郎の異母弟を婿養子として城主に迎えることが最善だったからだけではない。雪音自身にとってもこの縁は、願ってもないものだった。


 だから、剛厚のことを思うと胸が痛むのは、条件のいい夫から愛想を尽かされることが恐ろしいというだけなのだろう。純粋な好意ではない。男女の情など、雪音にとって、厄介なものでしかないのだから。


「妖山殿も心配しておられような」


 物思いに沈んだ雪音の横顔に、戸喜左衛門が気遣わしげな声をかける。雪音ははっと顔を上げ、取り繕った。


「そうね、なつめもきっと泣いているわ」


 戸喜左衛門は、ああと呻き、焚火に手を翳した。夏とはいえ、川に流され水浸しになったのだ。涼やかな夜風に吹かれれば、自ずと身体の芯が冷える。


「雪音殿、妖山殿だが、あれはもしや、鬼だろう」


 不意に切り込んだ戸喜左衛門の言葉に、雪音は感心して目を丸くした。


「化ける種類のあやかしならまだしも、天狗である戸喜左衛門が、よく気づきましたわね」

「まあ、あれほどわかりやすければ。しかし雪音殿、人間の身体であのお方と共に過ごして問題はないのか。互いに妙な気を遣わぬためにも、しっかりと話しておく方が賢明でござろう」


 雪音は、柄にもない憂いを振り切るため、意識して軽い調子で返す。


「殿の正体になどとっくに気づいております、とお伝えしたいところですけれど、あまりにも必死で隠そうとするものだから、次第に可愛らしく見えてしまって、機会を逃してしまいましたの」

「可愛らしく……まことか。あの屈強なお方を、でござるか」

「筋骨隆々の強そうな殿方はそれだけで素敵だけれど、容姿と不釣り合いな、少し気弱にも見える優しさに言いようのない愛おしさを感じるのですわ」

「相変わらず偏った好みをしておるのだな」

「まあひどい」


 雪音は袖で口元を押さえてころころと笑い、戸喜左衛門に水を向けた。


「ところで戸喜左衛門は、なつめとはどのようにして仲を深めたのかしら」

「むっ、なつめか」


 戸喜左衛門の頬に朱が差した。普段からほろ酔いで過ごすことの多い天狗とはいえ、さすがに今日は素面である。酒精で顔が赤らんでいるわけではない。


(まあ。戸喜左衛門が照れている?)


 なつめとは戸喜左衛門経由で出会った雪音だが、戸喜左衛門自身とは、妖山城に入る前からの知人である。彼はどちらかといえば硬派な質であり、女人に鼻の下を伸ばすような性格ではない。だからこそ異性の友人が少ない雪音であっても、交友を深められたのだ。


 戸喜左衛門の変化に少なからず驚きながらも、雪音は静かに耳を傾けた。


「あれはちょうど一年と少し前。すがすがしい秋晴れの日のことだった。わしは酒肴の川魚でも釣ろうかと、司川つかさがわの中州におったのだ。しかし皆知っての通り、山の天候は変わりやすい。急に上流で、まとまった雨が降ったのだろう。気づけば中州は狭まり急流に囲まれていた。慌てて水をかき分け岸に向かったのだが、無様なことに川床の小石に足を滑らせてしまってな。実はこの戸喜左衛門、恥ずかしながら泳ぎが苦手でござる。迫り来る濁流に呑まれ、あわや一巻の終わりか、と覚悟したその時、緑色のたおやかな腕がわしを抱き締めて、力強く岸に引き上げてくれたのだ」

「それがなつめだったのね」

「いかにも。転倒した際に水を飲み半ば意識を失いかけたわしは、束の間呼吸が止まっていたらしい。それでだな」


 戸喜左衛門の顔がいっそう紅潮する。


「こう、なつめがわしの唇にそっと近づいて、せ、接吻を」

「まあ」

「なつめがふう、と息を吹き込んでくれた直後、わしの意識はこの世に戻ってきた。目を開いたわしに気づき、なつめの顔がほっとしたように緩んだ時、この戸喜左衛門、天命を知ったのでござる」

「天命?」

「うむ。わしはなつめと出会い、彼女を愛するためにこの世に生を受けたのだと」

「それは」


 つまり一目惚れか。雪音は半分口を開いたが、婉曲な言葉が見つけられず、すぐに閉ざす。戸喜左衛門は構わず続けた。


「しかし天狗は空に、河童は水に生きる者。我らの仲を同族に認めてもらうまでには苦難の連続でござった。そしてつい先日、やっと婚姻の許しが出たばかりだというのに、今やわしは川に流されて龍の捕虜。さぞかしなつめも失望しておろう」

「なつめは、そんなことで愛想を尽かしたりしませんわ」

「そうだといいのだが」


 頬を掻く戸喜左衛門。自嘲気味な語り口であったのだが、何も本気でなつめの愛が揺らぐなどとは思っていないだろう。二人の間には、深い絆があるのだから。


「愛し愛される関係は素敵ですわね。羨ましいわ」


 己の口から漏れた言葉に、雪音ははっと息を呑む。先ほどから、柄にもない感傷ばかりが胸を満たしている。戸喜左衛門は少し首を傾けて、愛情深い声音で言った。


「雪音殿にも妖山殿がおられるだろう。わしが言うのも無礼かもしれぬが、あのお方は善良そうではないか。さぞかし奥方を大切に」

「おいおい、緊張感のない人質だな」


 不意に洞窟の入り口から、姫君の打掛うちかけのごとく派手な色柄物を纏った人影が現れた。藍色の短髪が焚火に照らされて紫色を帯びている。人型をとった龍の北藍ほくらんだ。彼が近づくと、その腕に産着に包まれた赤子が抱かれているのに気づく。


「北藍殿、その赤子は?」


 咳払いをして取り繕い戸喜左衛門が訊ねれば、北藍は意外なことに愛情に満ちた顔でふにゃりと笑んで、腕の中にある柔らかな髪を撫でた。


「ああ、弟だ。どうやらさっきの氾濫で、北藍川から分流して新しい川が生まれたらしい」

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