4 か、かかかか、かかっ
それからしばらく、白澤の所領は季節外れの長雨に見舞われた。
分厚い雲のせいで気温が上がらず、作物の生育が芳しくない。ここ数日、城で育てているきゅうりの葉が雨に打たれて萎れる様を、雪音が心配そうに見守っていた。
このまま冷夏が続けば、由々しき事態である。聞けば、雨雲は妖山近辺で活発化しているものの、兄の城がある南西方面ではさほど天候の乱れはないらしい。
異常気象の原因は不明だ。どちらにしても自然が引き起こす現象なのだから雨を止める手立てはない。妖山城主が所領のためにできることといえば、不作を見越した救済策を練ることくらいである。けれどもそれが難儀なことで、剛厚は連日家臣らと膝を突き合わせ知恵を絞っていた。
一度飢饉に陥れば、所領は以降数年に渡り荒れてしまう。食うに困った百姓は来年分の種籾を食い潰す。栄養不良の親から子は生まれず、健康に生を受けたとしても結局飢餓や間引きで死んでいく。
物資も人口も減った農村は衰退し、逃散や一揆にも繋がっていくのだ。負の連鎖は何としても断ち切らねばならない。
不意に、ずんと腹の奥底に響くような遠雷が轟いた。今日も、まるで滝のように激しい夏の豪雨が近づいている。
不作の危機を切り抜ける方策に頭を抱えながら曲輪を徘徊する剛厚。物思いに耽れば、全ての音が、ぼんやりと膜が張った先で鳴っているかのように遠く感じられる。その薄い膜を突き抜けて、悪意を帯びた声が鮮明に鼓膜を揺らした。
「姫様は少しも自重なさらないんだなあ」
蒲柳の質が多い白澤の血は、雪音ただ一人を残して絶えた。つまり、家中の者が姫様と呼ぶのは今や、雪音のことだけである。剛厚は吸い寄せられる羽虫のように声の方へと向かった。どうやら蔵の辺りで近習が、休憩がてら雑談をしているらしい。
「見ろ、また妖山の方から雨雲が迫っているぞ。こんな時なのに、姫様はいったいどこへ行かれたのか」
「そもそも姫と呼べるものか疑わしい。山育ちの娘だぞ。正体があやかしであっても不思議ではない」
「しっ、声がでかい。でも待てよ、もしや雪音様はあやかしの姫か何かであり、それを山から引き離して城に招いてしまったがゆえ、妖山がお怒りになり此度の異常気象が」
「ややっ! まさか」
——私は外で育った姫なのです。ですから、家臣たちからは疎まれています。
妖狸の屋敷から帰る道すがら、雪音が口にした言葉が脳裏に蘇る。馬鹿馬鹿しい。剛厚は蔵からやや離れた場所で足を止め、顔をしかめた。
雪音が人間であるということは、鬼である剛厚が文字通り嗅覚と胃をもって知っている。むしろあやかしなのはこの剛厚だ。そうとも知らず、何と的外れな誹謗中傷を繰り広げるのか。
ぽつり、と空から雨粒が落ちた。それは次第に密度を上げ、砂にまだら模様を描き、やがて一面を黒く塗りつぶす。
「うわ、降ってきたな。急いで屋根のある場所に……あ、殿!」
雨に追い立てられるようにして蔵の角から飛び出した近習が、剛厚と鉢合わせて硬直した。剛厚の硬い表情を見て状況を察したのか、顎から雨を滴らせながら、顔面蒼白になる。
決して自慢にはならないが剛厚は、図体が大きいだけでなく顔も怖い。人間に化けるにあたって身体を縮め柔和な目鼻立ちを装える鬼もいるのだが、細かな事柄にはたいそう不器用な剛厚である。鬼の印である角を隠すので精いっぱいだ。
ほとんど鬼そのものの容貌をした剛厚が顔を険しくすれば、そこらの人間はたいていすくみ上がる。それが、やましい会話を交わしていた近習であればなおさらのこと。
雨脚がいっそう強まっていく。ずぶ濡れの近習に一言二言嫌味でも言ってやろうかと思ったが、相手の顔を見る限り相当怯えているようで気勢を削がれた。
「夏とはいえ身体を冷やせば風邪を引く。早く建物に入るがいい」
低く言い、剛厚は踵を返して御殿の方へと足を向けた。
「あ、お待ちを……」
その時だ。
「殿! 一大事です!」
弁明を試みた近習の細い声をかき消すように、大声量が響いた。
裏返った声と共に、ずぶ濡れの男が駆けてくる。剛厚が観山にいた頃から変わらず近辺を世話してくれている、壮年の男である。彼は、顔を真っ赤にしながら半ば悲鳴じみた声でどもる。
「か、かかかか、かかっ」
「どうした。落ち着くのだ」
剛厚が肩を叩くと、近習は唾を呑み、深呼吸をしてから言った。
「か、かか河童! 領民だと主張する河童が、川が氾濫したから助けてくれと城に押し寄せております!」
「はあ、河童が」
古くから妖山城に仕える者ならば、隣人たるあやかしの姿を見ても、まず驚かない。どうやらこの男、観山暮らしが長いため、あやかしに馴染みがないらしい。
とにかく、川が溢れるとは一大事。水辺に住まう河童だけでなく、氾濫地域の民家や田畑も被害を受けるだろう。剛厚は、表情を引き締めて、河童らの待つ屋敷へと向かった。
濡れた衣を絞るのもそこそこに、やや離れた場所でひそひそと様子を窺う人間たちの横をすり抜けて、広間に入る。
老若男女様々な河童がみっしりと集まっている。板敷きの床は、人の館には異様なことに、水草のような緑に埋め尽くされていた。頭の皿や手足など、体の末端が緑色をしているのが河童の特徴なのだ。
剛厚が姿を現すと、騒めいていた室内が、まるで波が引くように静かになる。緑の間から河童の女人が進み出て、切羽詰まった様子で声を上げる。
「妖山様、突然押しかけた無礼をお許しください。ですがお願いです。我々河童は家屋がなくても生きていけます。だから水が引けばすぐに川辺に帰ります。けれど、娘は……水の中で暮らせない娘だけは」
胸に縋りつかれ、剛厚はたじろぐ。
「い、いいや、別に誰一人追い出そうとは」
「おっかさん! やめて、妖山様にご、ごごご無礼よっ」
河童の皿が並ぶ人垣から、異質な頭部がにゅっと出た。あのつるりとした皿には見覚えがある。
「うん? そなたは確か雪音の友の……なつめ、と申したか?」
呼びかければ、頭に陶器の皿を乗せた河童娘は弾かれたように全身を震わせて、床を滑るような勢いで平伏した。
「はひ! わたし、わた、わたくしめなどを覚えていてくださり、し、至極光栄」
「いやいや、楽にしてくれ。顔を上げてほしい。それよりも、いったい何があったのだ」
なつめは少し顎を上げ、上目遣いに剛厚を見る。やがて、生来眠たげな形状をした目にじわじわと涙が浮かび、雫が零れ落ちた。
「ふえええん」
「ど、どうしたっ!」
人間あやかし問わず、女人の涙にはてんで弱い剛厚である。この場の誰よりも狼狽えながら先を促せば、なつめは再び床に鼻先を擦りつけた。
「ぐすっ、どうかお助けください。北藍川が氾濫しました。そ、それで、お雪様……雪音様と戸喜左衛門様が、流されたかもしれなくて……」
滝のような雨が妖山城に降り注ぐ。その轟音は、屋根の下にある剛厚の全身をも強く打ちつけた。




