1 何せ、我らは人間ではなくて
時は戦国。下剋上の時代。
隣人を討ち、主君を殺め、己の富のため領土を拡大せんと戦いに明け暮れる武将たちが群雄割拠する島国。
そんな血腥い混沌の中心地から遠く離れた東北の果てに、奥野という国がある。国主の家名は狭瀬。その躍進の始まりは、一人の男に遡る。
農民出身の地侍でありながら鬼神の如く活躍で身を立て国人となり、古くから続く由緒正しい家柄の主君を斬り領国を得た男の名を狭瀬十郎厚義という。人は彼を、畏怖をもって鬼十郎と呼んだ。
鬼十郎の時代から下ること数十年。この物語の主人公の一人は、勇猛果敢で知られる狭瀬宗家当主源太郎厚隆……のぱっとしない二番目の異母弟、源三郎剛厚。
幼少期から何かと煮え切らない性格の、図体の大きな男である。
「北の妖山城、ですか」
剛厚は、長兄である厚隆の言葉に耳を疑って、やや間の抜けた声を漏らした。長兄厚隆は、困惑を浮かべる異母弟に左様と頷いて、心底参ったというような表情で顎を撫でる。
「ああ。我ら狭瀬の忠実な家臣であり妖山城主でもある白澤家当主が、つい先日息を引き取った。何の前触れもなく、朝起きたら冷たくなっていたらしいのだ。以前から病弱な男だったとはいえ突然のことで、後継ぎの指名も済んでおらん。それどころか、一族の者で遺されたのは、亡き当主の娘ただ一人。姫は未婚で子もなく、後継の男子がおらぬらしい。今や妖山城では、腹に一物抱えた野心家どもが、我こそが城主の座を得んと権謀術数を巡らせている。そこでおまえに白羽の矢が立ったのだよ、剛厚」
身体は大きいが、争いごとには無頓着な三男剛厚だ。長兄の真意がわからず、ただ曖昧な言葉を返す。
「はあ。しかし、妖山には馴染みがなく」
「妖山には多種多様なあやかしが住まうのだ。古くから彼の地を治め、あやかしと渡り合う力を持つ白澤家を断絶させてはならぬ。さりとて、妖山城主を継ぐのは相応の人物でなくてはな。ゆえに剛厚、おまえだよ。我が異母弟であり、性根善良、野心なし。さらに稀代の巨漢。山奥の芋臭いあやかしくらい、おまえならば簡単に従えられるだろう。いずれにしても、決定事項だ。実は生前の白澤当主から同意を得て、おまえを白澤の婿養子にすることが決まっていた。喪が明けたら、当主の娘を娶り妖山城主を名乗れ」
「大兄者、初耳ですぞ! 事後相談などひどいではないですか」
「すまぬすまぬ。だが白澤の姫は、北国らしい色白の肌をした可憐な娘だと聞くぞ。一目見ればおまえもきっと、幸運に感謝することになるだろう。そうそう、器量よしなだけではなく、聡明だということでも評判なのだ。わしも何度か文を交わしたが、噂通り賢そうな娘だぞ。どうやら外で育てられた姫だそうで、当主の命もいよいよとなった三ヶ月前、嫁入り道具と一緒に一足先に妖山城へ入ったそうだ。今や父亡き城で、寂しさを募らせながら、おまえがやって来るのを健気に待っているらしい。愛いことではないか」
厚隆は呵呵と笑い、末弟の肩をばしばし叩く。半ば放心状態に陥った剛厚。分厚い筋肉に覆われているとはいえ、異母兄の手の動きに合わせ身体が前後に大きく揺れる。
「いや、しかし人間の妻など、可哀想です。ほら、たとえば清々しい朝。腹が減って目覚め、隣で眠っている人間がいたら、こう、つい食ってしまいたくなるやもしれません。若い娘の肉は柔らかくて美味そうで……」
「まあ辛抱するのだな。そのうち食っていいだろうが、自然に死ぬまで待て。その時までたらふく飯を食わせて肥やせばいいのだ」
「辛抱だなんて無理ですよ。骨と皮ばかりだったとしても、娘の肉からはいい匂いがするのです。大兄者もよくご存じでしょう。毎日顔を合わせていたら、本能には抗えません。何せ、我らは人間ではなくて」
(――鬼ね)
祝言を終え、縁起物と嫁入り道具がみっしりと並んだ寝所。代々妖山城主を務める白澤家の姫君である雪音は、正面に座る大男を舐めるように観察し冷静に結論づけた。
彼の名は、狭瀬改め白澤源三郎剛厚。今日から雪音の夫となる男だ。剛厚には以前から、実は人間ではなく鬼であるのだとの噂がある。なるほど確かに、実際に目にすれば疑いようがない。
六尺(約百八十センチ)はゆうに超えるであろう長身、それを支える胴体は新郎の白直垂の下に隠れていてもわかるほど分厚い。袖から覗いた腕は、小柄な雪音がぶら下がってもびくともしないだろうほど逞しく、泣く子も黙る強面を乗せた首は丸太のように太い。まるで仁王像のようだ。
けれども、屈強な男というだけならば、人間だといってもあり得ないことはない。雪音が剛厚を鬼だと断定したのはひとえに、彼女があやかしの暮らす山の麓で育ったから。つまり雪音は、人に化けるあやかしをよく理解しているのだ。
まあ、それを抜きにしても彼の正体を見抜くことは造作ない。どうやら剛厚は、人に化けるのが得意ではないようなのだ。上手くやる鬼ならば、もう少し常識的な体格に縮まることができるだろう。
「その」
太い指を繊細に揉みながら、剛厚が居心地悪そうに身じろぎをした。
「この顔が恐ろしいか」
確かに相当な強面である。濃い眉、彫りの深い顔立ち。大きな眼窩や広い顎が骨張っていて、睨まれれば誰もがすくみ上がるような容貌だ。
けれども、顔というよりもむしろ全身を眺め回す新妻に戸惑った様子の巨躯は、容姿と仕草が不釣り合いで愛嬌がある。強そうで、可愛らしく、何というか、ああ、これは。
(最高ですわ。色々な意味で)
雪音は惚れ惚れとして、にやけた口元を袖で覆い、目を細めた。
その様子が、顔をしかめたようにでも見えたのだろう。剛厚は困ったように眉尻を下げ、わざとらしく咳払いする。
「あの、白澤のご息女。やはりこの縁談はなかったことに」
「まあ! なぜですか」
やっと口を開いたと思いきや素っ頓狂な声を上げた雪音にびくりと肩を揺らし、剛厚は太い指で頭を掻く。
「いや、その。某はこのように無骨な男だ。鬼だという噂もあるし」
あくまでも自身が鬼であることは告げず、人間で通すつもりらしい。
(うふふ、何て可愛らしいのでしょう)
雪音は再び緩んだ口元を隠しつつ、とりあえず話を纏めにかかる。いつまでも押し問答をするのは愚かの極み。何といっても今宵は、夫婦で初めての晩なのだから。
「まあ、鬼だなんて。そんな心ない噂が広まるのも、奥野国を治める狭瀬のお家が繁栄しているからに他なりません。人は、富み栄える者を妬み、面白おかしく悪し様に言うものです。どうかお気になさらないでくださいませ」
「うむ……」
「それに私は昔から、強そうな殿方にどうしようもなく惹かれますの。鬼だろうが何であろうが、問題ありませんわ」
「はあ……それは、どういう」
「ですから、どうかお気になさらないでくださいませ」
にっこりと微笑み、同じ言葉を繰り返す。戸惑いの渦にすっかり呑まれた様子の剛厚に、雪音は端座したまま膝を滑らせて迫る。
「祝言を挙げたのです。誰が何と言おうと、すでに私はあなたの妻ですわ。そう、今宵からずっと」
逞しい腕に軽く身体を寄せ、あえて耳元に息がかかるようにして囁いた。善良で初心そうな夫は、ごくりと唾を呑み込んだ。
そして。