初コメがついた
短編のエッセイを投稿すると、いいねをつけてくださる方が一定数いて嬉しく、ここ数日で連投してしまった。
いくら壁に向かって喋っているようなものだと割り切って書いていても、反応があると嬉しいものである。
四本目にして初めて感想が届いた。
内容は、私が揶揄した食品の来歴について、認識が間違っているという指摘だった。
餡だけに、アンチコメントをくださったのかもしれない。
餡だけに、あんた呼ばわりもされた。
未熟な私は、あんちょくに腹を立ててしまった。
あんまり性格の良い筆者ではないことが明るみに出てしまったか。
仕事でも腹の立つことがしばしばあって、どうしてそうなっているのかと思うばかりである。
こういった疑問の答えはたいてい「当初は問題にならなかった」というものだ。
時代が変わったり、現場に降ろしたりすると、机上では問題がないように見えたのに、不具合が出てくる。
しかし、一度降ろして、確定した形をとったものを、覆すということが組織の中では妙に難しいのである。
現場の人間にも悪い話ではないはずなのに、現場の人間が変化を拒むことが少なくない。
気持ちはわかる。
私もたいがい保守派である。
新しいことを試みること自体、耐えられないほど苦痛なのだ。
こうなってくると、悪い話ではないはずなのに、という雑感の方が間違っている。
改善になるかどうか、まだわからない時点では、変化なんて、悪い話に他ならないのである。
絶対に良くなる、と決めてかかっている私も危険なのだ。
反省、反省。
初コメも、純度100%の善意だったかもしれない。
つい喧嘩腰になって、ムキになって返信してしまった。
指摘されても直さない私が害悪の側になっている。
共感性というか、理解力というか、コミュニケーション能力の問題のような気がする。どれも、私には縁遠い。
壁に話しているつもりで書いていると言ったが、本当にそうで、人に伝わる文章というよりは、自分で聞いていて気持ちのいい語感を優先している。独りよがり。
この弊害がもう現実に出ていて、朝礼で社訓を唱和しようと思ったら、暗記していたものが出てこなくなっていた。
壁にかけられた社訓を前に、うちの社訓語呂悪すぎっ、と暫く立ち尽くしてしまった。
ところで、保守とタイトルにつけたら、内容に関わらず評価が伸びた。
これが噂に聞いていたネトウヨかと、初めてその存在に触れた気がした。
感想を送ってこないだけ奥ゆかしい。