はじめに
クリスマスイブ、やっと自宅に帰って来ました。
まだ自宅療養であり、何かあれば病院に逆戻りもあります。
自分の体ですが、どうなっているのかまったく判りません。
回復の途中なのか、人生のロスタイムなのか?
どれだけ考えても答えはありません。
と言う訳で、不安に思っても仕方ないと諦めてやれる事をするだけです。
事の始まりは11月8日晚にお尻から出血しました。
以前もあったので寝て我慢すれば治ると軽く考えておりましたが、朝方になっても止まらず、救急車を呼んで放出の病院に搬送されました。
救急車を降りる前にコロナチェック?
もし陽性ならどうするのでしょう?
私は陰性だったので病院に入りましたが、設備が余りない病院だったのでお腹を見て経過入院とか言われました。
訳の判らない理由で入院とか嫌なので止血の点滴を打って貰って退院させて貰ったのです。
代わりに鶴見区のコープおおさか病院に紹介状を書いて貰い、そちらで検査して貰う事になりました。
タクシーで一度自宅に帰り、着替えてからコープおおさか病院に行って検査です。
待ち時間が長く、いつになったら診察して貰えるかとぐったりです。
出血で血が減っていますが、割と元気でした。
やっと診察が始まると、採血され、尿を取り、レントゲンです。
それが終わると、また診察まで待機です・・・・・・・・・・・・?
突然、病院の受付は駆けて来ます。
「冬星さん、大変です。バイタルが大変な事になっています」
「えっ、ちょっとしんどいだけですよ」
「そんな状況じゃありません」
コープおおさか病院では、外科医がいない日なので緊急手術できる病院を探し、城東区の済生会野江病院が受け入れてくれる事になりました。
ベッドに寝かされて大腸が完全に破損して出血していると教えられ、再び救急車で輸送です。
病院に着くとベッドに寝かされ、コロナチェックと出術時の死亡した場合の責任を問わない書類にサインをし、再びレントゲンを撮られました。
ここで服を脱がされ、病院の寝着に着替えると、服やズボン、財布などを立会いに来た父に渡し、私は靴以外の持ち物を引き剥がされたのです。
そして、手術室に連れて行かれ、麻酔を打たれて意識を無くしました。
四階の緊急病棟で気が付いたのは四日後であり、5日目にテレビのある部屋に移動され、機動戦士ガンダム『水星の魔女』総集編を見たので日曜日に間違いありません。
翌日、緊急病棟から一般病棟へ移されました。
傷完治の経過待ちになった訳です。
このまま何事も無ければ、3日間ほど昏睡しただけで体力も然程失われておらず、2週間ほどで退院していたでしょう。
そう、何かあったのです。
私が連れて行かれた一般病棟は何というか空気が悪く、臭いも酷く度々咳き込む環境だったのです。
そして、その日の晚です。
出術の日から点滴だけで何も食べていないのに腸が突然に活性化し、何が起ったのかと戸惑っている所で、私は大きなクシャミをやってしまいました。
咳込むだけでもお腹が少し張るでしょう。
クシャミとなると全開です。
ここに不幸が重なります。
手術の後、経過を見る為にお腹は切った儘だったのです。
ガーゼを取ってお腹を覗かれるのは余り気持ちの良いモノではありません。
見習い看護士の研修に来た人にも覗かれました。
好きにしてくれという感じです。
もう察した方もいるでしょう。
開かれた儘のお腹に大きなクシャミです。
見事に腸と大腸が飛び出す『脱腸』が起ったのです。
斜め下にぼっこりと自分の腸が見えるのは気持ち悪く、ナースを呼んで医師に来て貰うのに30分も掛かりました。
ナースが常に声を掛けてくれます。
やっと来た医師は内科であり、外科を呼ぶのに1時間も掛かりました。
内科の先生は「大丈夫、大丈夫」と軽く答えます。
外科医が到着しても、出術が決まっただけで手術室を確保して、スタッフを揃えるのに1時間も掛かると言われ、私はそこでギブアップです。
何故なら、腸が乾かないようにお腹には蒸留水が随時掛けられており、最初に比べると倍以上も重くなったような感じになっていました。
さらにお腹を支えるように膝を立て、お腹が上になる格好をさせられていましたので、その膝がガクガクと震え出し、太股が限界に近付いていたのです。
後で思ったのですが、赤ちゃんをお腹に抱える妊婦の凄さを体験した思いです。
私のギブアップに反応して、外科医の先生が即座に対応します。
「ここで緊急オペをする」
「先生、ここでは・・・・・・・・・・・・」
「大丈夫だ」
医師が決断しました。
手術室を待たず、病室でのオペを敢行したのです。
その後、麻酔を打たれて再び眠りに付きました。
再び、意識が朦朧とした世界に入り、目が覚めても現実と夢の境界が判らない日々を3週間も過ごし、12月6日まで虚ろな夢を見続けたのです。
12月6日と言えば、サッカーワールドカップの日本代表とクロアチアの対戦日です。
大好きなサッカーの試合をすべて見損ねた事になります。
そのサッカーの試合がある早朝に持ち込まれた荷物から私の携帯のタイマーがなり、そのタイマーを医師が止め、医師が私の携帯を持っていたのを見たのです。
私は「あっ、私の携帯」と声を出すと、はっきりと意識が浮上しました。
はっきりした状況と言ってもパニックです。
状況把握が出来ません。
私は夢で何度も火葬場に連れて行かれそうになり、もう死んでいるのではないか?
あるいは、都合の良いファンタジーの力で逃げ出して余暇を楽しんでいた?
都合が良すぎると感じていましたが、目が覚めると両手を拘束されて身動きできない状況に慌てました。
拘束具はすぐに解除されましたが点滴が両腕にあり、尿道は閉じられて、お腹から直接尿を取る機械と血を抜く機械がお腹から出ているのです。
私はナースが言う儘にされる『寝たきり』です。
医師が両親に電話を掛け、両親の声を聞いて、私はまだ病院で治療中だと悟ったのです。
生きているだけです。
気持ちは、細い蜘蛛の糸にぶら下がっているようでした。
もちろん、この時点で3週間も経っているなど知る訳もありません。
それから三日ほど治療すると、再び緊急病棟から一般病棟へ部屋替えです。
右手の点滴は外れましたが、右に尿と血を取る機械、左に点滴で身動きが取れないのは同じです。
ナースの言われる儘に一般病棟に移ります。
窓際で景色を楽しめる部屋ですが、ベッドから動けない私には関係ありません。
布団を肩まで被ると、汗が出て来て寝着はびっしょりと濡れて風邪を引きそうになり、布団をお腹までにして、窓から来る冷気に耐えながら過ごす日々の始まりです。
通気性の良い夏布団のようなシーツが1枚あれば解決するのですが、病院は快適性には無頓着です。
しかも昼と夜に点滴を3度ほど交換するので、その度に起こされます。
寒さとゆっくり眠れない日々を送ったのです。
ナースから日本がクロアチアに負けたと聞いて数日後、12日(月)か、14日(水)に外科医の先生がやって来て、傷の状況を見ました。
食道科、精神科、糖尿など先生が多くて名前が覚えられません。
主治医の名前もかなり後になって知る事になります。
この外科医は私の手術に立ち会った方でした。
「いい肉付きだね。うん、いい」
「・・・・・・・・・・・・」(私)
「どうですか?」(ナース)
「取ってしまおう」
ちょっと機材を出すとお腹から出ている尿を抜くホースをポンと抜いたのです。
血を抜く機械を点滴と同じ左に移してくれました。
これで点滴のある左側のみ起き上がれるようになったのです。
えっ・・・・・・・・・・・・立っていいの?
立ち上がると足がふわふわして落ち着きません。
足の筋力が完全に無くなっていました。
何かに掴まらない立てないほど弱っていたのです。
そこから2、3日で点滴の台座を支えてに普通に歩けるようになりましたが、歩くだけで疲れる困った体です。
体力もありません。
何かすると、すぐに疲れてしまいます。
でも、ナースにテレビを見るカードを買って貰って、テレビを見るようになりました。
驚くのはここからです。
手術の経過などは説明もなく、おしっこに自分で行くようになると食事が出てきます。
しかも病院食と思えないほどの量です。
1日2000カロリー。
私の腸や大腸は残っているのか?
点滴しか打っていないのに急に大量に食べて吐かないのか?
消化の悪い牛乳や食物繊維の多いバナナまで付いています。
大丈夫?
喉が通りません。
白湯だけを啜って返しました。
2、3日後には、少しずつ食べる量を増やしました。
リハビリも始まり、歩く量を増やしました。
この頃になって、自分が3週間も寝ていた事を知るのです。
19日に点滴を取れて自由です。
夜中に寒さに耐える日々は同じですが、夜中に点滴交換で起こされる事は無くなりました。
お隣の患者とかの交換に来るので夜中に起こされるのは変わりませんが・・・・・・・・・・。(笑)
ナースは大変です。
3交代制ですが、引っ切りなしにコールが掛かり、ナースは大忙しです。
ナースの仕事は多様であり、点滴、薬の管理、採血等々と多岐に渡ります。
このコール音が廊下を伝わって部屋に聞こえてくるので、こちらもゆっくり眠れる訳もありません。
私もお世話になったので文句も言えないのです。
さて、元気になると退屈が襲って来ます。
3食昼寝だけ、あとちょっとのリハビリです。
小説を書こう思ってのノートパソコンもなく、本も漫画もありません。
忙しい両親に持って来てなんて言えません。
脳内で小説を書きましたが、それも飽きてきました。
退屈過ぎて頭が溶けそうになったのです。
このままでは無気力になりそうでした。
12月22日、ストーマの通過儀礼で自宅で世話をする方にストーマの付け方を教えるイベントがあり、2ヶ月近くぶりで父と再会です。
コロナがなければ、お見舞いもあったのですが、今はコロナ対応で面会禁止です。
携帯で会話が許されるのみです。
そんな状況でも通過儀礼で再会し、ナースが不意に言うのです。
「退院はいつが宜しいですか?」
「退院して良いですか?」
「はい、先生が許可されています」
最後に診察に来た時にお正月は家で過ごしたいかと聞かれましたが、おそらく退院できるのは年末の28日か、29日だろうと思っていたので慌てました。
次に何かの病気があれば、それも延期です。
一生病院から出られないのでは?
そんな不安が頭に過った私は飛びつきました。
こうして、無理を言って24日のクリスマスイブに退院が決まり、自宅療養となったのです。
復調など言えません。
階段の上り下りでも一苦労しています。
仕事もしんどいです。
これからどうなるかも判りませんが、悩んでも仕方ないので忘れる事にしています。
ホント、このまま元気になれると良いですね。
さて、長々と約2ヶ月の経過を書かせて頂きました。
本編は、闘病日記です。
虚ろな眼で見た景色と、幻聴でもう死ぬしかないと何度も人生を諦めた虚実と、それに反発してヤケクソで作った小説の話をしようと思います。