愛憎乱麗て
あたしたちが住む世界、って言うのは、嘘に塗れているらしい。それも、とんでもない嘘に。
あたしは、そんなこと信じていなかった。だって、そんなものあたしには無かったのだ。無かったし、これからも無いと信じていた。
皆隠しているから嘘なのだ、と言われてしまえばその通りかもしれない。それでも、あたしが知らないものを信じる、なんてことが出来るほど夢見る少女にもなれない。
なれなかった。
……今までは。
かちゃり、と乾いた軽い鍵の解錠音が、小さく夜の町に響く。あたりには誰も居ない。
時間は夜21時。バイト帰りの重たい体を引きずって帰り着く家には、両親はもう住んでいない。別に死んだとかじゃない。ただ、別居しているだけ。
兄弟、姉妹はいない。だから、あたし以外には誰も居ないはずの、この家の中。
扉を開ける。視界に入るのは、あたしの足には絶対に嵌らないサイズの大きな靴。同時に聞こえてくる、耳を塞ぎたくなるような音と声。
「う、おぇ……っ」
ばたばた、と何かが落ちるような水音。家族ではない誰かが、トイレの扉を開けっぱなしに、蹲っている。そこから漂ってくるのは、普通に生きていれば嗅ぐことなんて二度も無いであろう異臭。
すぅ、と自分の目が細まった。元から釣り目がちではあるが、今のあたしはさぞ悪い人相をしているだろう。
「げほッ、う、ぅ……」
自分の行いに必死になっているのだろう。あたしには気が付いていない様子で音をなさない声を漏らし続けている。
溜め息を一つ。
彼にも聞こえるように、そこそこ大きく息を吐いてやったつもりだったが、気が付かない。
「……ただいま。」
そう呟く。当然、返事はない。誰も居なかった時と同じ。
そのままその人を無視して、リビングの扉を開けて足を踏み入れる。夕飯、風呂、やるような体力なんてないけど、明日提出の宿題、と今からの用事になり得そうな事象を並べ連ねる。
肩に担いだままだった学生鞄を、どすん、という重たい音と共にソファに落とし、少しだけ伸びをする。
ソファ前の机上に置かれたテレビのリモコンを持ち、一瞬の躊躇いの後電源ボタンを押し込む。無音だった部屋の中に、軽快な音が鳴り響いた。明日の天気は雨らしい。気が滅入る。
突っ立ったまま天気予報に視線を落としていれば、そこから流れていた音声は静かなものに変わり、ここ最近のニュースへと変化する。
その一番上。あたしの目を引いたのは、そこに書かれた一文だけだった。「アイドルグループ、RiDdLeに所属するRioが行方不明」簡潔に纏められたその文章。それだけで、今時の女子高生の全ての目を惹くことだって可能だろう文章。
神妙な面持ちで、ニュースキャスターの人が口を開く。軽快な音とともに、見ていたポップの表示が大きくなる。
「二日前に失踪した、RiDdLe所属のRioの足取りが現在も掴めず、警察は捜索を続けています。」
画面が切り替わる。恐らく、Rioの住居であろう小奇麗な一軒家。そこに似つかわしくない警察の集団。周りには未だガヤが集まっており、大抵の噂って言うのは数日もすれば消えるものだが、これはしばらく消えそうにないな、と重たい息を吐く。
面倒臭い。なんだかムカついた気持ちが胃からせり上がってきて机に蹴りを入れる。流れてくる音声が、聞きなれない若い男性の声に代わる。
画面に目を向ける。入ってきた情報は、「グループメンバーからの声」というテロップ。
「そんなに悩んでるなら、言ってくれたらよかったのに、……悲しいです。早く帰ってきてくれたら、って思います。」
Dorai、って人。名前とは全然違う、心配そうな声色。
「本当に馬鹿だよね、そんなにオレたちのことが信じられなかったのかな。隠し事なんて誰にでもあると思うけど、正直これはきついよ。」
Lei、って人。比較的可愛らしい声で発される冷たい口調。この状況でもキャラを大事にしようという気概は見えるけれど、その表情は曇っている。
心配されている、というのがありありと分かるインタビュー。なんとなく、視線を逸らしたくなる。再びテレビのリモコンを握りなおす。
切り替わった画面には、例の居なくなったRioの顔写真が映った。それを最後に、電源を切る。切れたBGMと入れ替わるように、ドアの開く音が鳴る。
それに呼応するように扉の方を向けば、そこには先ほどまで蹲っていた男の姿。自分よりも二十センチほど高い身長を有する、やつれた顔の男性。
「……ぁ、お帰り。」
「あたし帰ってきてから、もうずいぶん経ったけど。」
文句を一口。彼は項垂れるように俯き、小さくごめん、と弱々しく呟く声が耳に届く。
「夕飯作るけど、今日なんか食べた?」
ぶっきらぼうに問い掛ける。首を横に振るのを確認して、また重く溜め息を吐く。それに反応したようにびくり、と彼は肩を揺らす。
少しいらっとした気持ちで食卓の足を蹴れば、また同じような呟きが私の耳に届く。
よく何も食べていないくせに吐けるよな、とさっきの彼の姿を思い起こして彼の薄く鍛えられた腹部に目をやる。
そこから視線をあげて彼の顔を見れば、彼もこちらを不思議そうに見つめている。食卓の前で立ち止まったあたしに疑問を抱いたのだろう。
その顔が、ムカつく程に綺麗なことには、ずっと前から気が付いているし、何よりも前に知っている。
「何か食べたいものある?……理緒。」
……あたしたちが住む世界、って言うのは嘘に塗れているらしい。それも、とんでもない嘘に。
あたしは、そんなこと信じていなかった。これからも、信じるつもりは無かった。
……だけど、目の前のこの男のせいで、案外そんなものかもしれない、と思うようになってしまった。
誰が見たって、わかるだろう。もう、言われなくたって、誰でもこの状況を見ればわかるだろう。彼の正体は、
――行方不明になったアイドル、Rio、その人だ。
時刻は21時半を回ったころ。食卓には、手早く作られた料理の残骸が残っている。
結局、あれから理緒が手を付けた食事は少量で、言ってしまえば『死なない程度』しか食べていない。元から小食だっただろうか。そんな気もする。
そんだけしか食わなかったら死ぬよ、と無感情に告げれば、そうかもね、と諦めたように笑う。
「死にたいの?」
「……いや。」
この問答だけは、実は今日で三回目。何故かこれだけは、はっきりとした意志を持って、自分の意思で伝えてくる。
どうして、と聞いても答えが得られないことは初日で理解した。だから、あっそ、とだけ返す。今日も別の答えは得られなかったか、と落胆の息を吐く。
この人が何を考えているか、というのは存外わかりやすい。付き合いが長いだけかもしれない。だからこそ、彼はここにいるんだろうし。
それは、その部分だけ搔い摘めば、テレビの向こうの存在であるアイドルが、付き合いの長い人を選んで家に押しかけてきている、という人によっては喜ばしいかもしれない状況なのだろう。
あたしにとっては何処までも面倒くさい。鬱陶しい。
睨みつけるような表情で彼のことを見つめるが、その視線には気が付かないようで、あたしの目を見つめたまま、ねえ、と低く何かに怯えたような色で声をかけてくる。
そっちから話を振ってくるなんて珍しい、そんな気持ちで自分の中では比較的明るく声色を作りながら、短く「何」と聞き返す。
「ニュースとか、ってさ。なってる?」
さて、絶対にいつかされることになるだろうと覚悟すらしていた質問が飛び出した。
彼の瞳から視線をずらさず、その奥底をもすら見抜くような眼力で射貫く。せめて、その質問に隠された意図か何かを求めたい、と。
けれど、三日前から、意思どころか人にあるべき光すら消えてしまったその目からは、正直何も感じ取ることなんてできない。所詮他人なのだから、そんな烏滸がましいことが出来るはずも無いのだけれど、せめて何か、という思いがこうも明確に打ち砕かれると悲しいを通り越して虚しく、笑ってしまいそうにすらなる。
あいにく、あたしの口から笑みがこぼれることは無いけれど。
黙ったきりでいたのを不思議に思ったのだろうか。理緒が再び、その語調に疑問を呈しながら、ねえ、と小さく声を漏らす。
それを聞いて、あんたはどうするつもりなんだろう。聞いてしまえばいいのかもしれないけれど、なんとなく抱えたプライドってやつが邪魔して、その疑問を彼に伝えるのを拒む。
なっている、と言ったらなんて言うかな。なってない、って言ったらなんて言うかな。
頭の中にシミュレーションを繰り返す。けれど、表情がわかりやすいこの人の行動や思考の回路に関してはとんでもなくわかりにくい。
考えるのがだんだん面倒になってきた。ただでさえ、あたしは疲れてるんだ。こいつに時間を割くのも鬱陶しい。早く、お風呂に入って寝たい。
業を煮やしたように、少し不安げにあたしの名前が呼ばれる。
「なってるよ。」
半ば投げやりな言い方になっただろう。けど、あたしの返事の仕方には別段興味が無かったようで、下を向いて自嘲的に笑う。
くつくつと笑いながら、三度あたしに謝罪の言葉を投げる。決して、その声色に申し訳ない気持ちが乗っていない、なんてことはない。むしろ、こちらが気持ち悪くなるほど、その笑みの中には隠し切れない申し訳なさ、ってやつが滲んでいる。
「迷惑、だよなあ。ごめんなあ、ははっ。」
その通りだよ、と言ってやりたかった。迷惑だよ。でも、本当にあたしがそう思ってるのか、というのが、あたしがわかっていなかった。
迷惑なら、あの日、押しかけられた日に殴ってでも追い返せばよかった。それをしなかったのはあたしの意思。
笑っているのか、泣いているのかの判別がつかない体の揺れを眺める。深呼吸の音が二回、三回と耳に届く。
さっき食べた筈なのに、腹の虫の鳴る音が響く。勿論あたしじゃない。目の前で震える彼の方。
それに口を挟む前に、理緒が先に口を開く。
「ほんと、俺ってさあ、他人に迷惑ばっかかけて……生きてる価値なんかねえのに、みんな俺にやさしくってさあ……でも、その下心みたいなんが見えるんだよ。馬鹿に、してんだろうな、って……クソ、クソが。」
髪をぐしゃぐしゃと搔き乱す。そのまま頭を抱える。
はあ、と意図せず重たい溜息が漏れ出た。それに呼応するようにひゅ、と息を飲むような音と共に、四度謝罪の言葉が溢れる。
何回謝るんだ、こいつ。足が勝手に食卓を蹴り飛ばす。イラついている内容自体は伝わったのだろう、また口をついて出そうになった謝罪の言葉が最初の一文字で停止する。
聞こえなかったのか、とでもいうように腹の虫がまた響く。先程遮られた言葉を音にするために、改めて口を開く。
「お腹空いてんじゃないの。」
「俺は……そんな気は、してないんだけど。」
気じゃなくて、大事なのは事実でしょ、とかいうのは、多分彼には地雷。彼は何処までも「気」ってヤツに振り回されたい人間で、事実からは目を背けたい生き物なのだ。
あたしとは全然違う。現実の、事実だけ見て絶望するあたしとは違う。周りに漂ってる「気」に溺れて絶望している彼は。
だってそうじゃないなら、テレビのリモコンを握ればいい。あたしに預けた携帯をとり返せばいい。何方も、場所なんてわかり切っていて、手が届くのだから。
考えたって無駄な事。そのことにようやく気が付いたあたしは、思考回路のスイッチを切り、別のレールを敷いて再びスイッチを入れた。
さて、このわからずやな馬鹿にどうやって飯を食わせようか。
餓死されちゃ寝覚めが悪い。ほっといた間に死なれたら、どうすればいいかわからなくなる。いや、死にたくないのだから死なないのだろうか。わからない。人間は本当に餓死するのか、なんて、そうなったことが無いのだから分かるわけない。
食卓の上に手を伸ばす。握ったのは銀色に輝くフォーク。彼の手にすら取られなかったそれ。握りしめて、料理の一つに突き立てる。
あたしが動いたことに気が付いたのだろう。緩慢な動きであたしの動作を目で追っている。
「何、してるの?」
見てわからないのか。彼の世界じゃ、あたしはスローモーションに映っていたりするのだろうか。自分の理解できない行動だとか、自分の想定外の動きってのはゆっくりになるものだ。
突き刺した料理を、そのまま顔をあげた彼の口元に向ける。
視線が彼の視線と合うように覗き込めば、それは不安げ、というよりも困惑、今起こっている状況への理解が追い付いていない、みたいに瞳を揺らしている。
徐々に理解が追い付いてきたのだろう。その視線がようやくあたしをしっかりと移すと同時に、彼は少し身を後ろに引いた。
舌打ちが漏れる。
やっぱり怯えるように体を揺らすくせに、いらない、だいじょうぶ、なんてまったく大丈夫そうじゃなく言ってくる。いらなくないでしょ。彼の座っている椅子の足を蹴り、フォークと、それに刺さった料理を彼の唇にくっつける。
食べるまでは動かない、そんな意思、意地だろうか、を胸に抱えたまま彼の次の行動を待つ。
口を開くことは無く、あたしの手を掴みぐい、と自分から離すように引っ張る。
どうせそんなこったろうと思っていた。わかっていた。素直に食べてくれないことなんて。この三日で学んだ。学ぶには短いと思われるかもしれないが、学ぶには十分な三日だったのだ。あたしにとっては。
わかっていたけれど……わかっていたとしても、限界、って言うのは人には来るものだった。
もはや舌打ちも無い。足が何かに八つ当たりすることも無い。
捕まれていない方の手を伸ばして、彼の口、その中へと指を突っ込む。
「ンぐ……っ!?」
驚いたように目が見開かれる。初めて見るその表情に、心の中でザマアミロ、と吐き捨てる。
無理やり開いた口の中にフォークを差し込み、手で料理だけ口内に落としてフォークを引き抜く。そのまま床にそれを放り投げて、空いた手で彼の口を押さえた。
嫌がるような抵抗は、ほんの数秒だけで、直ぐに観念したのか口の中の物を飲み込んでくれた。どうせ吐くとしても、何も入れないよりはマシだ。そのはずだ。
飲み込んだ彼は、そのまま椅子から崩れるように落ちた。呼吸は荒い。そりゃそうだろう。それなりに長い時間、口からの呼吸を封じたようなものだ。突飛な状況で鼻だけで息をするのが咄嗟に出来るほどの人間でもない。
恨みがましいような、それでも、自分の身を案じた故の行動だと理解しているような、なんとなく正負の入り混じった感情が湛えられた視線があたしに下から注がれる。
申し訳ないという感情が微塵も無いわけじゃない。それこそ、自分の足元で転がっている人を見て、ああ可哀そうだな、と思わないわけじゃない。
けどそれを越える別の感情が、あたしの心を埋め尽くしているのが事実だから、彼に手を伸ばしたりなんかはしない。
「吐いても良いけど、ここではやめてね。掃除が面倒くさいから。」
冷たく吐き捨てたあたしに、せめてと頷いた動きを見届け、食卓の上の食器類に手を伸ばした。向かう先はキッチンの冷蔵庫。今日残った物はまた使いまわそう。男女二人分に丁度いい量は、彼がほとんど食べないことにより、残り物が次の日のあたしの朝食に昇華される。
こうしていると、彼がここに来てからまだ三日だということが信じられなくなってくる。もっとずっと前からここにいて、こう生きているような、そんな錯覚が。
それでも、今の状況が「錯覚だ」と思えていることにはいくつか理由がある。
一つはニュース、もう一つは単純にあたしの考え。そう、至極単純なもの。
ようやく息を整えたのか、彼がゆっくりと起き上がる。床にペタリ、と座り込んだままの彼を見下ろせば、彼が十年と少し年上だ、なんてことを忘れそうになる。
鞄に入れっぱなしだった携帯から通知音が鳴る。そのまま携帯を取りに向かい、開いた画面に映るクラスメイトからのラインにざっと目を通す。
明日の体育の授業が屋内になったらしい。さっき見た天気予報を見て、当然か、とメッセージのアプリを落とす。
そのままSNSを開けば、目に映るのは例のニュースの件ばかり。もう失踪して三日も経つというのに、まだ香ばしく出来立ての噂のようなものが蔓延っている。事実、想像、妄想。
眼を、携帯の画面から座り込む彼の方に向ける。なんどかそれを往復して、あたしの口からは、不意に彼の口癖がこぼれた。
「何、見てんだろ。」
あたしが、じゃない。主語になるのは、あたしの手の中で話し続ける顔の無い人間たち。
彼らは、彼女らは、人々は、彼の何を見ているんだろう。答えってのは明確で単純で、一つだけ。ステージの上じゃない。彼の性格とかじゃない。能力でもない。
顔、なんだろうな、と。
所謂、外面っていうもの。
そこから派生した、自分の中にある彼の理想像、って言うモノだけを見ているんだろうな、と。
そりゃ、彼自身がそう見せたい、と思った姿もあるかもしれない。彼は以前あたしに話してくれたことがある、なんでアイドルになったのか。
答えはシンプルには到底纏められないものだった。いくつかの複雑な感情が入り混じった、言ってしまえば承認欲求。誰かに認めてもらいたくて、っていうもの。
彼は嘘は吐けない体質だ。だから、彼は自分の口からはどうしてアイドルになったのか、って言うのを大っぴらに言ったことは無い。
けれど、無機質な言の葉は、やれ「私たちファンのために頑張ってくれてる」だの、「仲間と一緒に上り詰めたい」だの、だから彼がいなくなる、ってことは失踪じゃなくて誘拐されたんだ、だの。
根も葉もない、ルーツの無い、妄想が飛び交っている。
それが彼を苦しめていることには露ほどにも気が付いていないし、気がつけるはずもない。だって、自分の信じる姿と異なる彼は、きっと自らの知っている「Rio」じゃない。
そんな安直な、残酷な考えがファンって言うのには誰しもにあるものだと思うから。
「ねえ。」
ふと、思った。そういえば、これは言って無かったな、って一言。
彼が、こちらに視線を向ける。あたしの良く知る理緒の顔。ここ数日嫌というほど見た顔。数年前から、時折見せていた表情。
「向いてないよ。」
アイドル、という人生を謳歌する彼に言うのは酷だと思っていた。だから、今まで言うことは無かった。たかが中学生に、高校生に何がわかるんだ、と、自分でそう思っていた。
けれど彼は、今じゃ立派なただの人間だ。
だったら思ったことを言ってやってもいいハズだろう。柵はない。言葉を止める理由はない。
「アイドルも、こうやって失踪するのも、」
だんだんと、頭が白く塗りつぶされていく。溜まっていたことを口から吐き出しているからだろうか。
どす黒かった感情を一つ一つ消化しているからだろうか。
「ただ謝ったり、苦しんで吐いたり、」
ただの、自分の想いの丈だった。なんとなくそう思っていただけだったから、どう形にするのかのシミュレーションなんて、したことが無かった。
だから、
「……そもそも、生きることがさ。向いてないよ。」
間違った。
光の無い目が、あたしに向けられる。それは正しく闇で、見たことなんてないけど、ブラックホール、って言うのはきっとこんな感じなんだろうな、なんてバカみたいなことを、何故かボンヤリと考えていた。
呆然と半開きになっていた唇が、すこしだけ弧を描く。また、自嘲的な笑みが彼の口からはくつくつと漏れ始める。
「俺も……そう、思うよ。」
得られたのは同調だった。賛同、だった。
なのに何故だろう。彼の口が、ゆっくりゆっくりと開く。その先の言葉は、あたしが想定しないものな気がする。
あたしが、今聞いてはいけないものな気がする。
ぐるぐる、と突然プラズマを飛ばすほどに循環を始めた思考回路が、擦り切れそうなほど熱を持つ。
白く、空間のように何もなかった頭の中は、また思考で埋め尽くされていく。言わなきゃよかった。何を?どこから?
自分の言葉には、理由があったはずだ。でも、止められなかった。止めることが出来たんだろうか。何かを変えればよかったんだろうか。
そこまで思って、漸く分かった。
これは、私が、彼に重ねていた理想像が塗り替えられるかもしれない、と思っているんだ。
「……でも、でも俺は、……死にたくないんだ。」
幾度か言われたはずだった。これも、きっと数日前から加算すれば四度ほどは言われているだろう。
なのに、あたしの中には異様な程に馴染まなかった。拒絶反応を起こしているかのように、その言葉は理解不能なものとしてあたしの胃の中に消化されずに残った。
唇が震える。同じように、声も震える。
「なんで、」
「……なんで、だろ。わからないけど、……ただ、死にたくなくて、」
わからない?わからないで死にたくない、って、じゃあ、そんなのに付き合わされてるあたしって何?
死にたくないのなら、今すぐここを立ち去って出ていったらいいじゃないか。だってあたしは、
……そう、あたしは、死に場所を探すためにここに押しかけて来たんだ、と思っていた。あたしは、それを手伝おうかと、思っていたんだ。あたしの意思で。
それが、彼をここに置いていた理由だった。
「ねえじゃあなんで、麗那は、俺をここに置いてくれるの?」
だから――ッ、
人には限界が来る。わかっていた。だから、あたしと彼がずっとこうして生きてきた、って言うのが錯覚だと確信があったんだ。
スマホをソファの上に落とす。そのまま彼の方へと歩いていく。そのまま、彼の胸ぐらを掴み上げた。
あたしは別に力が強いというわけじゃない。平均だ。女子の、高校三年生の。それでも軽々と、彼の体は持ち上がる。
息が詰まったような、苦しげな声があたしの手元から上がる。このくらいで苦しんでんなよ。
あたしの方が苦しいんだよ。
「……ってよ」
自分の声は、自分ですら聞き取れなかった。けれど、言いたいことははっきりとしていた。
不思議そうな顔が、あたしを見上げる。恐らく、復唱を望む視線。言われなくても。あたしにすら聞こえなかった声が、アンタに届いているわけない。
「言ってよ。」
今度ははっきりと伝えた。
でも、大事なところは音に乗せなかった。
これで通じてはくれないだろうか。それなら、まだあたしの心は幾分か落ち着いてくれるかもしれない。ただの、時間稼ぎだった。
それでも、彼は不思議そうな顔であたしを見つめるばかり。
「……言ってよ、死にたい、ってさ。」
また、彼が目を見開いた。
そこに浮かぶ感情は、何だろうか。わかりやすいと思っていた彼の気持ちが見えなくなる。
恐怖だろうか、驚きだろうか、信じられない、って思ってるんだろうか。そうだとしたらその思いには何て名前が付くのだろうか。
言葉を待つのもなんとなく怠い。早く言ってほしい。早く、早く。
そうすれば、きっとお互い楽になる。楽になるんだ。きっと、理緒もそう思ってるでしょ。死にたくないなんて、そんなこと思ってる人間が、こんな生き方をするはずない。
「いや、だ。」
「なんで。」
否定の言葉が飛び出した、それを認識する前にあたしの口は問い詰めるように動いた。
ぐい、と顔を近づける。
「なんで死にたくないの。なんで?」
子供っぽい、と自分でも思う。でも、わからないことは尋ねないと気が済まないのだ。その尋ね方なんて、誰にも教わったことが無いのだから子供っぽくもなる。
こんなにも他人と顔を近づけたのは一体いつ以来だろうか。もしかしたら初めてかもしれない。恋人なんていたことは無かったし、親ともそんなに距離が近かったわけじゃない。
これだけ近くても、彼が今何を考えてるかはわからない。質問の答えを探しに行っているような瞳の揺れも無い。あたしの探りに気が付いたのだろうか、彼が少しだけ目を伏せる。
「なんで……」
あたしの言った言葉を、彼も復唱する。その声色の震えが、漸く本気で理由、にあたる何かを探しに行っているということを理解させてくれた。
数秒だろうか、数分だろうか、数時間だろうか。いや、きっとそんなわけなくて、精々十秒にも満たない程度の時間だろう。それが過ぎた頃、彼は諦めたように首を横に振った。
それだけで理解する。言葉は不要。きっと、見つからなかったんだろう。
「じゃあ、死にたい、でいいじゃん。」
自分の声が、どんどんと低くなっていくのが感覚的に分かる。聴覚だけじゃない。自分の声の出し方でわかる。
何を、そんなに生きることに固執することがあるんだろう。生きることが下手だということがわかり切っているのに。
死んだ方がいい、とまでは言わない。死んだって変わらない、なんてことも言いたくない。でも、生きてる方が辛いだろう。そういう人も世の中にはいる。あたしだってそうだ。
死にたい、って素直に言ってくれれば、そうすれば――
そうすれば?
「言ってよ……楽になれるよ。」
あたしだってそうだったよ、という言葉は飲み込んだ。
それはなんだか、同情させるようで嫌だったから。同調で言わせるのは、嫌だった。これもきっと、あたしの中にあるプライド、って言うやつなんだろう。
そこまで思って、ああ、きっと彼の中にあるのも同じものなのだろう、と理解した。どうしてあたしの中にあるものが、彼の中にはないと思っていたんだろう。プライド、そうか、それかもしれない。
彼は死ねないんだな。
なんとなく腑に落ちた。けれど、それでも先の質問を取り消したりはしない。あたしは結局、いや、だからこそ聞きたいのかもしれない。
「俺は……」
声が、いつも以上に、今まで以上に震えていた。怯えているような、声音だった。
外れていた視線を合わせるために、空いていた片手で彼の顔を自分の方に向ける。その目は何処までも虚ろで、何も映していなかった。あたしの姿すらも。
今、何を見ているんだろう。あたしはどんな顔をしているのだろう。彼のことはわからない。自分のことも、わからない。
ただ、続きの言葉を待つ。
「俺は……生きてる価値が無い、って、思う?」
突然の質問だった。答えの隙は与えられない。
「いや、こんなの聞かれたら、誰だって思わない、って言うよな。違う、そうじゃなくて……」
ええと、なんて言いながら次の言葉を探している。
価値。かち?
考えたことも無かった言葉に、回り続けていた思考回路のスピードが落ちる。
そもそも、生きている価値ってのは何なのだろう。そりゃ、価値なんてない、なんて言いたくはない。そんな人はきっといない。いない、と信じている。
けれど、それを肯定してしまえば、理緒は死にたいと言ってくれるだろうか?
それが、彼が死にたくないと自分の心に掛けている鍵なのだろうか。
言葉を探す彼の目を見つめながら、自分も言葉を探す。きっと探している種類は正反対の物であろうけど。
「俺を……ねぇ。」
彼が、下からあたしに向かって手を伸ばす。その手が、頬に触れる。
人らしい、温かさがした。
「麗那はさ、……俺のこと好き?」
あぁ……そっか。アイドル、っていうのは、きっと好かれるのが仕事。
それが、あなたは嫌になったんだな。
きっとそこに込められた「好き」の意味は、恋愛、じゃなくてファンとして、アイドルとして。人としてじゃない。理緒としてじゃなく、『Rio』として。
だったら、あたしの答えは決まっている。最初から、そうだった。だから思ったんだ。
「嫌いだよ。」
あんたは、アイドルなんかに向いてない。
真っ直ぐに彼の瞳を射抜く。嘘偽りはない。遠慮も無い。あたしが抱えた本心。この会話を終わらせたいという下心。あたしが理緒にあげれる誠実な心。
落胆したような、納得したような顔で、体から力を抜く。あたしの頬に添えられた掌がするりと落ちて、そのまま彼の胸元を掴んでいた手も離した。
どすん、と体が床に落ちる。小さく、彼が何かを呟いたような気がする。それが何なのかはわからない。
彼は座り込んだまま、俯いて、あたしにはっきりと言葉を告げる。
「じゃあ……俺は、死にたいかもな。」
思わず、笑ってしまった。大笑いとかじゃない。小さく、ほくそ笑むような笑い。
「最初から、そういえば良かったのに。」
はははは、あはは。
二人で笑いあう。その笑い声には、二つとも、温度なんてものはない。
足が、彼の腹を蹴り飛ばしていた。
碌な抵抗も無く、床にその体を伏せる。瞬間、彼は自信の口元をぐ、と抑え込んだ。目が大きく見開かれ、呼吸が荒く、その隙間からは時々、う、なんて小さな声が漏れる。
首筋に汗がじんわりと滲んでいる。その姿を目に納めながら、あたしはキッチンへと歩きだす。
彼からその言葉を引き出すのは、過程に過ぎなかった。ただの憂さ晴らしじゃなかった。
目的地はシンク横。握りしめるのは、少しの重たさを兼ね備える刃物。さっき握りしめたフォークとは何もかもが違う。
握ったまま、あたしは彼の目の前に戻る。蹲ったままトイレに行こうとしているのか、這いずっている彼の姿はなんとも無様で、哀れで、少し可哀そうだなと、頭の隅っこで思った。いまさらそんなことは、もうどうでもいいけれど。
彼を見下ろす。立ったままのあたしの影が、理緒の体にかかる。
見上げた彼の顔は、どこまでも怯えていた。けれど、声をあげることも、逃げることも、あたしへのアクションも、何もない。
怯えていた瞳が、すう、と細められた。口元を押さえていた手が、そこからゆるりと外される。
「……汚れる、よ。」
ああ、そうだな、確かに汚れる。
この後のことを考えると、鬱屈とした思いが体中を駆け巡った。帰って来た時に予定していたものが、一つ増えてしまう。間に合うだろうか。いっそ明日に後回しにしても良いけど、そうすれば地獄を見るのはきっと明日のあたし自身だろう。
きっと、お互い馬鹿じゃない。あたしも、理緒も。この後のことを後回しにしたって、お互いを待っているのはどっちにしろ地獄だ。
理緒は、多くの人間の期待を裏切って、あたしの思いすら無視して、自分というモノから逃げた臆病者。
あたしは、そんな世界に愛されたアイドルを殺す殺人者。
わかっている。この先に待つ地獄を生き延びるには、あたしたちは多分、お互いに未熟すぎる。
けれど、
――人間には、限界がある。
あたしは、この数日で思った。
この世界に蔓延っているのは、嘘じゃなくて我慢なのだと。
言うことを、我慢している。自分がしていることを誰かに伝えることを、我慢している。
そして、それにはいつか限界が来る。
あたしにとっては、理緒との暮らしが、「それ」だった。
理緒の体を仰向けに転がし、その上に跨る。こんなの状況じゃなければ、こんな関係じゃなければ、こんなものをあたしが持っていなければ、此処までの問答がもっと別の物であれば、きっとあたしたちは今、とても幸福だったのかもしれない。
でも、あたしたちにはもう、そんなものは用意されていない。自分たちで、投げ捨ててしまった。
「麗那。」
彼が、あたしの名前を呼ぶ。聴きなれた、けれど、最近ではめっきり呼ばれていなかった自身の名前。
「麗那はきっと……アイドル、向いてるよ。」
何を馬鹿なことを。けれど、そうして笑う彼の表情は、どことなく穏やかで、けれどその先に、どす黒い羨望の眼差しが滲んでいるような気がした。
その視線から逃げるように、一瞬目を逸らす。
そのまま、目を閉じ、腕を振り上げた。
眼を開いて、彼と最後に目を合わせる。変わらず、その目には光が無く、あたしの姿すら映らない。
あたしは、今どんな顔をしている?
あんたにとって、アイドルに向いていると思うこの顔は、どんな顔をしてる?
振り上げていた腕を、一度、彼の胸元に振り下ろした。
「ァ……」
呻き声のようなものが彼の口からこぼれる。包丁を伝って、心臓の音が聞こえてくる気がする。もう止まっているのだろうか、それとも、当たり所が悪くて生きているのだろうか。この五月蠅い鼓動は、あたしの物なんだろうか。それとも、幻聴なんだろうか。
力を込めて包丁を引き抜く。血がナイフからぼたぼたと落ちる。刺された胸からどくどくと溢れる。
もう一度、彼の胸元に振り下ろした。
「ッ……」
微かな呼吸の揺れ。先程より深く沈めた包丁。彼の体に触れた掌が、微弱な温度をあたしに伝えてくる。
気が付けば、見つめていた彼の瞳は瞼によって遮られていた。まるで眠るような、表情で。
そんなわけない、というのは、彼の温度と共にあたしの手に付着する温かな血液があたし自身に教えてくれる。
もう一度、先程よりも力を込めて包丁を引き抜く。刺す時よりも、数倍の力がいる。殺すのは簡単。救うのは異常な程に困難。
血の飛沫が、あたしの顔にかかる。風呂を後回しにしてよかった。床に、流れた血が水たまりを作る。
再度、彼の胸元に包丁を叩きつけた。
もう、何の震えも感じない。完全に停止した理緒を見つめる。掴んでいた包丁から、手を離す。じっとりと、その掌が汗ばんでいることにようやく気が付いた。
それが、震えていることにも。
頭が回らない。回らないのに、唇が開く。
「もしも……」
喉が渇く。貼り付いて、声がうまく出せない。生唾を飲み込む。
あたしたちの運命は、いずれこうなると思っていた。だから、選ばなかった選択肢。
「あたしが、あんたを好きだ、って言ったら――何か、変わっていた?」
彼の体に、胸元に触れる。その先には、もう温度も音も無かった。
あたしが、殺したんだ。あたしが、止めたんだ。
何も、考えられない。
それからあたしは何も言わず、呆然自失としたまま、ぼんやりと彼の死体を見下ろしていた。
あれから何年が経っただろうか。あたしは今、とある建物の前に立っている。
そこは、ずっと前に理緒が働いていた場所だ。
……つまり、アイドル事務所。
「ねえAliaっ、ちょっと緊張するね……!」
「……そうだね。」
隣に立つのは莉々。別名「Kirua」。同じユニットを組む少女。綺麗で可愛らしい表情の彼女と並ぶのはなんとなく引け目があるが、今日はメイクもちゃんとしてきた。きっと、今のあたしなら彼女の隣に並べるだろう。
さあ行こう、と莉々に声をかける。今日はあたしたちのデビュー日。
あたしは、人生で一つだけ、大きな隠し事をすることを決めた。そう、数年前のあの日。
アイドルグループを一つ潰した。アイドルの一人を殺害した。……という大きな秘密を。
この世界には、あたしたちが住む世界っていうのは、嘘に塗れている。それも、とんでもない嘘に。
最初こそ、子供だった頃こそ、あたしはそんなこと信じていなかった。けれど、今なら。大人になった今なら。隠し事をしている今なら。
それは真実だと、自信を持って言える。
莉々と一緒に、事務所の中に向かって歩き出す。
彼女は知らない。あたしが何をしたのかを。あたしは知らない。彼女の人生を。けれど、人ってやつは、そういうものだ。
あたしは本当にアイドルに向いているだろうか。少なくとも、理緒とは違い、本名をそのまま芸名になんてしてないし、キャラクターを作ったりなんていうこともしてないけれど。
もう理緒はこの世にはいない。あたしが、殺した。あの感覚は永遠にあたしの掌にこびりついて消えない。この先も、消えることは無いだろう。
彼のことを忘れた日は一日も無い。忘れられるわけがない、という方が良いのかもしれない。
それでも……彼の幻影に捕らわれるのは、これで、此処で最後だと決めていた。彼が最後に言った言葉。その言葉に従って、あたしはアイドルになった。
「Alia?ねぇちょっと聞いてる?」
莉々はあたしに声をかける。何度か、彼女の呼びかけを無視してしまっていたようだ。
ごめん、と口をついて謝る。彼女の快活な声があたしの耳を震わす。
さあ、新しい人生だ。彼を追って、彼の人生を繰り返すように、でもあたしの人生を。
生きていく。嘘を吐きながら。
ここまでお読みくださりありがとうございました。
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